日本地理学会発表要旨集
2013年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の341件中101~150を表示しています
発表要旨
  • 河合 貴之
    セッションID: 532
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    東北脊梁山脈中部から東流する名取川は,その流域において段丘の発達が良く,最終間氷期以前の地形面も残存する.また,本地域には,青葉山面群などの河成段丘群と沖積低地を区切る長町-利府線や双葉断層の北方への延長である青葉東断層といった活断層が分布する.本地域における従来の研究では,テフラ層序を用いた段丘面の断片的な編年に留まっており,段丘堆積物の層相や縦断面形状,活断層群の活動履歴と地形発達史の関係については議論されていなかった.今回,テフラや段丘堆積物の層序,そして各段丘面の形態に基づいて段丘群を区分し,青葉山2面被覆層中において,築館丘陵で産出する曲坂火山灰‹MgA›を,坪沼降下火砕物群‹TbPs›に挟在される層準で認定した.本層は,200-260 kaに層位をもつとされ,温暖期に形成された侵食段丘である青葉山Ⅱ面を覆っている.したがって,青葉山2面の形成やMgA降下の時期はMIS7‹191-243 ka›であると考えられる.青葉山2面より高位の青葉山1面の段丘堆積物は,層厚約14mで基質支持の亜円礫層であり,扁平で平均最大長径30cmの風化した安山~玄武岩やシルト岩を含む.その上位は,温暖期を特徴づけるとされる古赤色土とそれを不整合に覆うローム層である.そのローム層は,TbPsのいずれかに対比される降下軽石層を挟在する.また今回,上流部の高位面群を,高位から芋峠面,本砂金1・2面に区分した.芋峠面や本砂金1面の段丘堆積物は扇状地性であり,層厚はそれぞれ約30mと約15mであり,どちらも平均最大長径50cmの安山岩亜円礫が卓越する.本砂金2面は,本砂金1面を侵食して分布する.以上の記載や先行研究に基づくテフラと各段丘面の関係から,次のような本地域の地形発達史が考えられる.まず,岩屑供給が卓越するMIS16とMIS12に芋峠面と本砂金1面がそれぞれ扇状地性の段丘として形成され,MIS11-10に本砂金1面を侵食する本砂金2面が形成された.MIS9になると,海進による侵食基準面上昇で堆積段丘の青葉山1面が形成され,その後の間氷期であるMIS7に青葉山2面が形成された.寒冷なMIS6になると,直線的な縦断面形をもつ堆積段丘の青葉山3面が形成され,MIS5.5に青葉山3面を侵食して青葉山4面が形成された.最終間氷期以降は,側刻が進行する亜間氷期のMIS5.3に台ノ原面が形成され,阿蘇4テフラに覆われる川内面がMIS5.2に離水した後,最終氷期に上町・中町・下町の各段丘面群が発達した.本研究では長町-利府線と青葉東断層について,先行研究による垂直変位量の推定と,上記の編年を基に,平均変位速度が一定であると仮定して活動度や活動開始時期を検討した.その結果,長町-利府線は,平均変位速度が0.41-0.58m/kyのB級活断層,青葉東断層は,平均変位速度が0.06-0.07m/kyのC級活断層であることが推定された.活動開始時期については,どちらも約60-40万年前に活動を開始したと推定された.本地域の地形発達史とこれらの活断層群の活動を取り巻く広域応力場との詳細な関連付けが今後の課題である.
  • 石井 祐次, 堀 和明
    セッションID: 533
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    はじめに 近年,石狩平野では完新世の海進期にバリアー―ラグーンシステムが発達した沿岸部を中心にオールコアボーリングが実施され,詳細な堆積環境変化や地形発達が明らかにされてきている.一方,これよりも上流側の海成層がみられない氾濫原での堆積環境変化や地形発達などについては不明な点が多く残されている.たとえば,氾濫原の表層には泥炭層が広く分布するが,泥炭層の形成と河道の安定性について詳細に議論した例はない. 高海水準期堆積体においては氾濫原上で河道がアバルションを起こすことなく安定するようになり,泥炭が広域的に厚く連続して形成されるようになったとされる.陸域における泥炭の堆積は砕屑物の供給に強く影響を受けるため,上記のような河道の安定性や,河道からの距離に着目して,泥炭層の形成開始条件について説明されることが多い.しかし,沖積層の構造や堆積環境変化,相対的海水準変動にともなう堆積速度変化を詳細に捉えた上で,氾濫原上における泥炭層の形成を議論した例はない. 本研究では氾濫原の堆積環境変化を明らかにした上で,泥炭層の形成を議論するため,石狩川下流域氾濫原において2本のボーリングコア堆積物を採取し,その解析をおこなった.さらに,沖積層の構造を把握するため,調査地域において約800本の柱状図を収集し,地形・地下地質断面図を作成した.コア堆積物の層相と堆積環境変化 IK1の堆積環境は下位から網状河川システム堆積物(堆積相A:深度26.3~25.0 m),蛇行河川チャネル充填物(堆積相B:深度25.0~21.7 m),氾濫原堆積物(堆積相C:深度21.7~16.6 m),蛇行河川チャネル充填物(堆積相B:深度15.6~10.8 m),氾濫原堆積物(堆積相C:10.8~6.3 m),泥炭地堆積物(堆積相D:6.3~2.0 m),自然堤防堆積物(堆積相E:2.0~0.4 m)に変化した.IK2の堆積環境は下位から網状河川システム堆積物(堆積相A:深度19.2~16.6 m),段丘堆積物(堆積相F:16.6~12.0 m),氾濫原堆積物(堆積相C:深度11.7~0.4 m)に変化した. IK1の堆積相C(深度10.8~6.3 m)から堆積相D(深度6.3~2.0 m)への層相変化は植物遺体の増加で特徴づけられ,強熱減量が10%程度から20%程度以上へと変化している.堆積相Dでは,堆積相Cの時には多かった砕屑物の堆積が減少し,静穏な環境だったと考えられる.堆積相Dの5,000~1,500 cal BPの強熱減量からは泥炭層中の堆積土砂量の変化を読み取れるが,泥炭の堆積が中断されるような大きな環境変化(アバルションや蛇行による砂層の挟み込みなど)はみられない.そのため,この期間はIK1周辺においてはアバルジョンなどのイベントは起きなかったと考えられる.また,堆積相Cから堆積相Dへの変化にともない,堆積速度が1.5~2.5 mm/yrから0.7~1 mm/yrへと低下している. IK2の堆積相C(深度11.7~0.4 m)の5,000~1,500 cal BP頃(深度8.1~4.7 m)は強熱減量が20%程度以上を示すことがあり,その変動幅も7,000~5,000 cal BP(深度11.7~8.1 m)に比べて大きい.IK2の堆積相Cの堆積速度は 7,000~5,000 cal BP頃に1.7~2.8 mm/yr,5,000~1,500 cal BP頃に0.5~1.1 mm/yrを示す. 以上のことから,氾濫原における植物遺体の堆積量増加および泥炭層形成といった堆積環境変化は堆積速度の減少に起因する可能性がある.5000 cal BP頃には氷河の融解による海水準上昇はほぼ終了し,これ以降,日本の平野の多くでハイドロアイソスタシーにともなう相対的海水準低下がみられるようになることから,堆積速度の減少には相対的海水準の低下が影響していると考えられる. 地形・地下地質断面図 IK1より下流側の断面図では泥炭層の形成が比較的低い標高で開始している場所が局所的にみられるものの,広範囲における泥炭層の形成はより高い標高で始まっている.また,IK1より上流側の断面図では泥炭層の形成以前に堆積した,泥質な氾濫原堆積物中に砂層の挟み込みが少ないことから,氾濫原の発達過程でアバルションなどがあまり起こらず,泥炭層の形成以前から河道が比較的安定していたと考えられる.したがって,広域的な泥炭層の形成は河道が安定したことによるものではないということが示唆される.泥炭層の形成 地形・地下地質断面図の結果から,広域的な泥炭層の形成は河道の安定性と関連していないことが推定された.さらに,IK1,IK2のコア解析の結果から,氾濫原における泥炭層形成は堆積速度の減少に起因すると考えられる. 以上のことから,局所的な泥炭層の形成は河道からの距離が遠く,堆積速度が比較的遅い場所で先行して起こったが,広域的な泥炭層の形成は5,000 cal BP頃以降の相対的海水準低下によって氾濫原全体の堆積速度が減少し,堆積環境が静穏になったことにより生じた.
  • 羽佐田 紘大
    セッションID: 534
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    世界の多くのデルタは、海水準の上昇速度が減速した約8500~6500年前に前進を開始している(Stanley and Warne 1994)。しかし、前進が開始した時期には2000年程度の幅が見られる。このようにデルタの前進する時期に差が生じるのは、海水準の上昇速度のみならず、堆積物の供給量もデルタの前進する時期を決定しているからである(増田 2007)。河川からデルタに供給される土砂量の変動は、地形や堆積物の解析から推定された過去の海岸線やデルタフロントの位置などから検討されてきた(たとえば、Hori et al. 2001;小野 2004)。しかし、これまでの研究では1000年スケールにおけるデルタの前進を三次元でとらえていないため、堆積土砂量およびその変動に関する定量的な議論は十分になされていない。そこで、本研究は、濃尾平野を対象に、既存ボーリング柱状図や放射性炭素年代値のデータを空間解析することにより、デルタの前進を三次元で把握し、堆積土砂量の時系列変化を質量として見積もることを試みた。濃尾平野の沖積層を、既存ボーリング柱状図(約4500本)の土質区分とN値に基づいて、下位から、基底礫層(BG)、下部砂層(LS)、中部泥層(MM)、上部砂層(US)、沖積陸成層(TM)、人工改変層(Artificial deformed layer:以下AD)の6層に区分し、地表面・各層序境界面の標高データベースを作成した。次に、既存研究(たとえば、山口ほか 2003;大上ほか 2009)および本研究で得られた合計324個の14C年代値の暦年較正値を利用して、各ボーリング地点における1000年ごとの等時間面標高データベースを作成した。これらのデータベースを基に、ArcGIS 3D Analystのクリギングを用いて、地表面・各層序境界面および等時間面サーフェスモデルを作成した。最終的に、各サーフェスモデル間で切り盛りをし、6000 cal BP以降の各層序の体積を求め、これらの体積計算結果と容積重を用いて、堆積土砂量を質量として推定した。容積重は、各自治体の地質調査報告書に記された値から各層序の平均値を算出した。なお、作成した等時間面サーフェスモデルでは、濃尾平野全域(約1300 km2)における体積の見積もりができないため、そのうち721.6 km2を体積計算の対象とした。また、各サーフェスモデルを用いて、時代ごとのMM、US、TMの堆積域を検討した。等時間面サーフェスモデルから得られる標高変化やコア堆積物が得られている地点の層相変化から、8000 cal BP頃にデルタ堆積物の堆積が始まったと考えられる。また、USの堆積域の海側末端部の位置に基づいて、6000 cal BP以降における1000年ごとのデルタの前進速度を算出したところ、それぞれ約5 m/yr、8 m/yr、4 m/yr、7 m/yr、6 m/yr、9 m/yrとなった。対象範囲721.6 km2における過去6000年間の堆積土砂量は18766 Tgと見積もられた。6000 cal BP以降における1000年ごとの堆積土砂量は、それぞれ2471 Tg、2558 Tg、3659 Tg、2736 Tg、3167 Tg、4174 Tgとなった(図1)。層序ごとに見ると、MMの堆積量は減少傾向にあるが、これはデルタの前進に伴って対象範囲外の海側に堆積するようになったMMの量が見積もられていないためと考えられる。また、USの堆積量は、4000 cal BP以前と以後とで大きく異なっている。この原因として、4000 cal BP以前には対象範囲外の陸側にUSに相当する土砂が堆積していた可能性や、4000 cal BP頃に土砂供給量がそれ以前に比べて顕著に増加した可能性が挙げられる。4000 cal BP以降、USの堆積量は大きく変動していないのに対して、TMの堆積量は増加し、特に2000 cal BP以降の増加が顕著である。デルタの前進速度は大きく変化していないため、デルタフロント堆積物に相当するUSの堆積量はあまり変化しないが、陸上デルタの面積が広がることにより、陸成層を含むTMの堆積量が大幅に増加したと考えられる。また、1000 cal BP以降は、土砂供給量そのものがそれ以前に比べて増加した可能性が高く、上流域の環境変化に伴い、砕屑物が大量に生産されたことを示唆する。
  • 木庭 元晴
    セッションID: 535
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    奈良盆地南部の盆地縁辺部には低位段丘面とその堆積物が分布している。その堆積原面を侵食地形から復元する。この契機になったのは火成岩からなる大和三山に見られる緩斜面や地質境界であった。下図には稜線沿いに取った三山の垂直断面図を示しているが,破線で示しているように,三山共通のレベルを海抜120m弱に見出すことができる。このレベル付近には,畝傍山では貫入岩と花崗岩の境界が,天香具山でははんれい岩と花崗岩の境界が,耳成山では流紋岩内斜面の緩斜面によって認めることができる。風化による花崗岩の侵食がこのレベルで減速したと読み替えるのである。つまり,このレベル以下が地表下にあったと考える。現在のローカルな侵食基準面は,三山が緩斜面上に位置するため,海抜60~80mと幅がある。現在より40mほど高い安定した侵食基準面を想定することになる。なお,花崗岩の真砂化は水分移動が活発な地表面付近で卓越している。花崗岩中の鉱物を構成するKやNaの溶脱も専ら地下水の飽和帯上面までである。地下水面は当然,ローカルな侵食基準面と連動しており,谷頭侵食が進行する過程でローカルな侵食基準面は進行拡大してゆく。 活断層が見られない三山の竜門山地側や金剛山地東山麓で,過去の侵食基準面の残骸を探すと,最終氷期に対応する低位段丘にあたる。現在残る低位段丘面はかなり低下しているが,海抜120m付近に低位段丘面とこれより多少低い位置に段丘礫層のそれぞれ断片を認めることができる。このような低位段丘と礫層の分布傾向は一般に認められ,少なくとも奈良盆地南部の現盆地底縁辺部の低位段丘面の高度としてほぼ120mを想定することができる。低位段丘礫層は堆積の最盛期からするとかなりの部分が亡失した。この契機になったのは,後氷期の海水準上昇であって,海進過程で内陸部の侵食基準面は急激な低下の結果と考えられる。発掘資料によれば,奈良盆地の沖積層は極めて薄く,現在の盆地面は低位段丘層の侵食地形と考えられるのである。
  • 石原 武志, 須貝 俊彦
    セッションID: 536
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    1. はじめに人口・インフラが集中し,河川洪水氾濫や地震動に伴う液状化が発生しやすい沖積低地では,災害脆弱性を評価し,持続的な土地利用を実現することが重要な社会要請である.その課題に応えるには,地形発達の観点が不可欠である.著者らは,こうした問題意識のもと,関東平野の主要な沖積低地である荒川・妻沼低地と中川・渡良瀬低地(図1)を対象として地形発達の比較検討を行ってきた(Ishihara et al.,2012; 石原,2012MS; 石原ほか,2012など).本発表では,上記の2つの低地を対象として,低地とその基底地形の幅に着目し,共通点と相違点を発達史地形学的に明らかにするとともに,その原因について検討する.沖積層最上部層からなるデルタおよび氾濫原に被覆された基底地形の形成史の違いは,沖積低地の災害脆弱性評価の上でも重要である.2. 方法 約2,000本のボーリング柱状図資料と荒川低地で掘削された8本のオールコア試料の解析をもとに,既存研究を参照しつつ,沖積層基底地形を三次元的に復元した.埋没段丘面や埋没谷底面,埋没波食面の分布を明らかにして,それらの地形面幅を計測した.3. 結果と考察 両低地の幅を比較すると,荒川低地は約5-6 kmの幅で一定であるのに対し,中川低地の幅は下流へ向かって約5 kmから13 kmへラッパ状に広がっている(図1). 両低地の基底地形は,最終氷期の海面低下期に形成された埋没段丘と埋没谷,および後氷期の海面上昇期から高海面期にかけて形成された埋没波食台からなる.埋没谷の幅はいずれも2 km前後で共通しているが,妻沼低地のみ約4 kmと幅が広い.埋没段丘の幅は荒川低地で約4-5 km,中川・渡良瀬低地では約1-2 kmである.妻沼低地は埋没段丘の分布が不明瞭である.埋没波食台に関しては,荒川低地では河口から約20-40 kmの大宮台地側にわずかに分布するのみで(Matsuda, 1974),武蔵野台地側ではほとんど認められない(安藤・渡辺, 1996).中川低地では,両側の台地に沿ってほぼ全域に埋没波食台が分布し,下流ほど幅が広い. 海面低下期においては,両低地とも海面低下に伴って下刻が進行し,横断面形・縦断面形の類似した埋没谷が形成された(石原ほか,2011).一方,埋没段丘の発達は深谷断層や関東造盆地運動の影響による地域差が著しい(石原ほか,2011).すなわち,相対的隆起域の荒川低地では段丘面の発達が促進された一方,その他の相対的沈降域では局所的基準面の低下により海面低下の影響が減衰したため,段丘面が発達しにくかったと考えられる.特に妻沼低地では段丘が分化せず,広い埋没谷がつくられた. 海面上昇期から高海面期の中川低地ではエスチュアリーが形成され,波食作用によって汀線位置が側方へ後退し,波食台が形成された.両側の台地がMIS5の砂泥層からなり,浸食を受けやすかったために波食作用が促進されたと考えられる.中川低地の基底地形は波食台の占める割合が大きく,特に下流ほど波食台が幅広くつくられた結果,低地がラッパ状に広がった.一方,荒川低地では上流からの活発な土砂供給によってエスチュアリーの拡大がくい止められたこと(Ishihara et al.,2012)や,武蔵野台地が礫質で浸食を受けにくいことにより,波食台が形成されなかったと考えられる.この結果,荒川低地は埋没谷・埋没段丘の形状を反映して細長く広がった.文献 安藤・渡辺 1996. 第四紀研究 35: 281-291. 石原 2012MS. 東京大学大学院新領域創成科学研究科博士論文, 101p. 石原ほか 2011. 第四紀学会講演要旨集 41: 130-131. 石原ほか 2012. 日本地理学会発表要旨集 81: 239. Ishiahra et al. 2012. Geomorphology 147: 49-60. Matsuda 1974. Geor.rep.Tokyo Metrop. Univ 9: 1-36. 中西ほか 2011. 地質調査研究報告62: 47-84. 田辺ほか 2008. 地質調査研究報告 59: 497-508.
  • 町田 尚久
    セッションID: 537
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    1.はじめに
     荒川中流域の熊谷扇状地は,古くから水害に見舞われてきた.水害をもたらす氾濫流の進行については,菊池(1987),石田ほか(2005)などが荒川中流域の実態をまとめ,石田ほか(2005)は栗田(1959)を基に,1700~1947年までの間に熊谷扇状地とその下流の低地の一部で発生した主要な氾濫流とその発生地点を整理した.一方で寛保2年洪水(西暦を付記する)にかかわる研究として丸山(1990a,b,c,d)は,千曲川流部の崩壊や洪水の実態を報告し,町田(2011)は荒川上流部の高水位をマスムーブメントによるダム化の影響と指摘した.これらの実態から寛保2年洪水の気象は,洪水だけでなく浅間山から秩父山地の一部で多数の崩壊を発生させ,河川への土砂供給も増大したと推察される.それ以後の河床の土砂は,寛保2年の崩壊堆積物が主な供給源なり,洪水のたびに河川に供給され,河床変動があったと考えられる.そこで本研究では,熊谷扇状地の氾濫発生地点の変化を河床変動による結果としてとらえ,近世以降の河床変動の実態を明らかにすることを試みた.
    2.地域概況
     荒川は,甲武信ヶ岳(標高2475m)を源流として,上流部は秩父山地,中流部は扇状地区間と荒川低地の一部,下流部は荒川低地と東京低地に分けられる.中流部では,寄居から熊谷にかけて複数の扇状地を形成している.熊谷扇状地は,六堰頭首工付近を扇頂部,熊谷市久下付近を扇端部とし,その下流には低地が形成されている.六堰頭首工から吉見町上砂(現在:大芦橋下流付近)までを本研究の対象区間とした.
    1574年に築堤が行われ頃は荒川本流は元荒川沿いを流下していたが,1627年に元荒川から入間川の支流の和田吉野川へと河道が付け替えられ,現在の原型となった.その後1900年以降は,河川改修事業の一環として築堤や河道の直線化が行われ,現在の河道となった.また砂利採取も積極的に行われるようになり,1947年のカスリーン台風以後,氾濫の発生がほぼみられなくなった.
    3.氾濫地点の変化
     大洪水といわれる1742年,1859年,1910年,1947年の洪水は,町田(2010,2011)による寛保2年洪水の一連の研究と「明治四十三年埼玉県水害誌」(埼玉県1912)などから,ほぼ同規模であると示唆される.これらの洪水の解釈を基に氾濫発生地点の変化を見ると,1741年までは熊谷周辺と和田吉野川でみられる.それ以降の1742年,1743~1858年,1860~1909年には,熊谷扇状地の現熊谷市街地周辺で氾濫が発生する.しかし1859年と1910年は,1742年の場合よりも上流で氾濫が発生した.1783年や1824の洪水は大洪水としては認められないものの,1742年よりも上流側の扇頂部付近で氾濫した.このことから1742年以降,氾濫発生地点は遡上しており,堆積による河床上昇が疑われる.1859年の大洪水が扇状地全域とその下流側で氾濫した可能性が高い.1860年以降になると扇状地から下流部に向けての土砂供給が増えたと考えられ,氾濫発生地点が熊谷市街地周辺となった.1910年になると,1859年とほぼ同様の扇状地一帯で氾濫が発生し,再び土砂が供給されたと解釈できる.そして1911年以降は,再び氾濫発生地点が扇央部の下流側へと移動し,1947年の洪水では扇状地扇端部と低地部の境界付近で氾濫した.また1947年前後,河床は低下しており,氾濫発生地点の変化は人為の介入と自然的影響のために,河床が低下傾向となった可能性が高い.
    4.崩壊の土砂供給とその後の河床変動
     1742年の洪水は,「武州榛沢郡中瀬村史料」(河田1971)などから,秩父山地から浅間山にかけて多数の崩壊をもたらしたことが分かる.その後大洪水時には記録が少ないことから,崩壊数が少ないと判断できる.しかし降雨のたびに寛保洪水時の土砂が渓床に移動し,渓床堆積物が河川への土砂供給源となった.土砂は洪水ごとに供給され,1859年と1910年の大雨の際の氾濫発生地点の変化には,土砂供給の影響があらわれたと考えられる.さらに扇状地に堆積した土砂は,洪水のたびに下流側に流下し,それによって氾濫が発生したと判断される.明治中期の河川台帳付図によると,明治期以前は比較的河道幅が広く,土砂供給の状況によって氾濫が発生しやすい環境であった可能性が高い.土砂は,崩壊,渓床堆積物,流下,そして下流側への供給というような経過をたどり,ある時点で生産された土砂は,常に安定的に供給されるのではなく,その後の降雨にあわせて,より下流へ土砂供給される.その結果,供給に合わせて河床変動が生じる.そして,1947年の洪水では現在の熊谷市街地周辺やその対岸で破堤せずに,さらに下流側に土砂が供給されたことで氾濫発生地点が変化した.また人為の影響と上流からの土砂供給の減少に伴って,河床低下が進んだと考えることができる.
  • 松尾 宏
    セッションID: 538
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    明治43年(2010)8月に利根川、荒川などで起った洪水は、関東地方では近代以降最大の被害をもたらしたものであった。しかしながら、その洪水の特色や地域の被災状況については、まとまって整理されたものがなく、水害地や洪水の特色など不明なところが多い。また、明治43年洪水では、近世以降利根川治水史上重要な役割をもっていた堤防である「中条堤」が大きな争論の焦点となり、この洪水を契機に治水計画が変更され変化をみせていった。この大きな災害の理解と社会問題となった明治43年洪水後の中条堤についての究明も研究はなされていない。その中条堤は現在でもその姿を残している。明治43年利根川洪水・水害の大きな要因は、この中条堤の決壊であることが言われてきた。 平成21年(2009)3月皇太子殿下は第5回世界水フォーラム(トルコイスタンブール)において、利根川治水と中条堤についてとりあげられ基調講演をなされた。その講演内容の一部に誤りがあり、資料を提供したと思われる機関、研究者の認識不足でもあり、これまで明治43年洪水と中条堤の歴史的社会問題の研究がなされてこなかったことの原因が指摘できる。本研究はその証明となる研究を含むものであり、中条堤の歴史およびこれまで研究が乏しかった明治43年利根川洪水と中条堤およびその関係、中条堤の変貌についての研究である。
  • 古田 昇, 小林 郁典, 中条 義輝, 川瀬 久美子
    セッションID: 539
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    香川県西部・三豊地域中部には財田川と柞田川が流れ、観音寺市街地付近で瀬戸内海・燧灘に注ぐ。平成16年の台風による水災害は、多くの河川流域で集中豪雨と土石流、氾濫をもたらすとともに、数次にわたって高潮災害を伴う複合災害であった。当地でも中小河川における氾濫と高潮の被災を受けて、大きな混乱を生じた。 本報告では、1年間に集中して大きな被害をもたらした平成16年の風水害と避難とのかかわりを述べる。我が国で最も面積の狭小な香川県ですら、その東西では被災の様相が全く異なっていた。とくに、台風に係わる水災害では、その被災区域と、地形環境との関係が深い。本報告では、国土地理院所蔵の5mメッシュDEMから地盤高デジタルマップを作成すると共に微地形との関わりを検討する。また、市街地と中上流部での被災の差異、地域の人々が水害の教訓をどのように認識しているかについても報告する。
  • 加藤 徹
    セッションID: 540
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    新潟県中越地震(以下,中越地震とする)は,人口減少・高齢化を根本課題として有する中山間地域に大きな被害を与えた.そこで本研究では,災害による負の影響を受けつつも,その後どのように集落の再建が行われてきたかを検討する.とくに,住民,行政,中越地震後に集落と関係を持つようになった外部団体による地域づくりの果たした役割に着目して考察する.〈BR〉中越地震は,中山間地域に大きな被害を与えた.その結果,孤立集落を多数発生させ,集落移転や個別移転が行われる地域もみられた.長岡市小国地区法末集落も大きな被害を受けた地域の一つであり,家屋の全壊率は30%と高く,不耕作地も多数発生した.〈BR〉1990年代から事例集落では,旧小国町,東京都武蔵野市と連携した都市農村交流を中心とした地域づくりを行っていた.しかし,事例集落は,中越地震によって生活・生産の場である家屋や農地に大きな被害を受けた.その中で,一部の住民による集落の再建に向けた活動が始まった.さらに,集落に震災ボランティアとして関与するようになった外部団体の参画によって,集落が再生・復興に向けて動き出した.その後,集落に住民主体の復興検討組織がつくられ,住民と外部団体が連携した活動が始まった.その中で,オープンガーデンなどの新たな取り組みが始まり,さらに外部団体が集落の伝統行事の運営にも参画するようになった.〈BR〉中越地震前後の地域づくりが住民,外部団体それぞれにとって大きな役割を果たした.つまり,住民にとっての地域づくりは,外部からの評価・コミュニケーションを得る機会となり,生活の楽しみや生きがいなどの生活を充足させる役割を果たした.さらに,中越地震後に外部団体が集落に関与することで,中越地震前までは住民が行っていた集落内行事の運営を外部団体が補完する役割を果たした.また,外部団体にとっての地域づくりは,継続した取り組みを行う機会を提供し,さらには地域資源を創出するという役割を果たした.
  • 浦部 浩之
    セッションID: 541
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    【本報告の視点】 31万6000人もの死者を出した2010年1月12日のハイチ大地震から3年が経過した。この間に国際社会から注ぎ込まれた援助は一国に対する災害復興支援としては史上最大の90億ドル(約束額)にのぼる。しかしながら30万以上もの人が今なお仮設住宅にすら移れずテント生活を強いられており、復興の道筋はいまだ見えない。そればかりか、ハイチにはなかったはずのコレラの感染が震災10ヵ月後に突如始まり、2012年末までに死者は約8000人、感染者は国民の16人に1人に当たる64万人近くに達している。なぜハイチの状況はこれほどまで深刻なのか。 本報告では、報告者が2010年11月にJPFからの委嘱で被災者支援事業モニタリング・中間評価のために現地に派遣された際の調査、および2012年1月にハイチ・ドミニカ共和国国境で行った調査もふまえつつ、ハイチが自然災害に対して脆弱であることの政治・経済・社会にわたる構造的要因を、やや長期的視点に立って考察したい。【失敗国家ハイチの現状と繰り返される災害】 ハイチは1人当たりGDPが656ドル(2009年)にすぎず、国民の54.9%が1日1.25ドル以下(2000-08年)で暮らす西半球の最貧国である。汚職が蔓延り(2009年の腐敗認識指数は180ヵ国中168位)、統治の正統性も低い(2008年の民主主義指数は149ヵ国中110位)。2010年地震による被災が甚大化したことの背景には、ハイチがいわゆる「失敗国家」の状態にあり、災害に対する備えや災害発生後の対処能力を著しく欠いていたことがある。 それゆえハイチは、同じイスパニョーラ島で隣り合うドミニカ共和国、あるいはその他の島嶼国と比較しても、高い頻度で自然災害を被ってきた。たとえば2004年に島を襲ったハリケーン・ジーンによる被害はドミニカ共和国でも記録的なものであったが(死者23人、被災者2万2000人)、ハイチでは死者1870人、行方不明者870人、被災者約30万人にまで膨らんだ。【農業生産システムの破綻と食糧問題】 ハイチは貧困のために森林破壊が極端に進み、森林被覆率は3.8%しかない(2005年)。2004年ハリケーン災害が深刻化したのも、山麓の町が水位3mもの洪水に襲われたことにあった。 ハイチとドミニカ共和国の差異は、主食である米の生産と輸入の推移にも端的に表れている。ドミニカ共和国では過去45年間、人口増にともなう米の需要増を国内生産で賄い、2007年の米の自給率は96.9%に達している。ところがハイチでは農村の貧困と環境破壊による生産性の低下のために米の生産高は横ばいで、2007年には米の自給率は22.0%にまで下がった。 これにはいわゆるワシントン・コンセンサス後に推し進められた経済自由化も大いに関係している。つまり、1990年に史上初の民主的選挙で選出されながらクーデタで大統領職を追われたアリスティドは、米軍を中心とする多国籍軍の支援で政権復帰を果たした後の1995年、経済援助と引き換えに、米の関税率を35%から3%に引き下げることを受け入れた。これにより国内農業の衰退と食糧の輸入増がいっそう拡大することになった。ハイチの食糧需給は国際市況に大きく左右されるようになり、2008年4月には一次産品価格の世界的急騰がハイチ国内で群衆の暴動に発展し、内閣が退陣に追い込まれる事態にまでなった。【複雑な援助の方程式】 震災後、ハイチのプレバル大統領(当時)はWFPと米国政府に対し、国内農業への打撃を理由に食糧支援の停止を求めた。しかし食糧の不足に不満を募らせるハイチ市民が多いのも事実であり、プレバルの提起を否定する論調も強い。先進国の援助関係者はハイチ政府の腐敗を懸念し、しばしば政府を迂回して市民に直接、援助を届けてきた。しかし、支援団体が根こそぎハイチの優秀な人材を雇い入れるため、それがハイチの公的部門をますます弱体化させてきたとの矛盾もある。復興に向けた活動へのハイチの人々の関与が少ないことへの批判が国内外で根強い一方で、内政対立で数ヵ月にわたり組閣ができない事態が続くなど、ハイチ政府の統治も覚束ない。復興をめぐるさまざまな議論や批判が渦巻く中で、ハイチは国家の再建、防災の強化、農業の振興、食糧の安定供給、貧困の緩和、統治の強化など、複合的な課題に取り組んでいかなければならない。
  • 野上 道男
    セッションID: 601
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    中国古代「尺」は字源の通り、親指と人差指を(直角に)広げたときの長さ(約16cm)で殷周・春秋時代とされる.魏志東夷伝で使われた魏の短里(倭里と仮称)は1里(約67m)=50歩で、普通の1里=300歩とは6倍の違いがある.古韓尺(約26.7cm)は韓国・日本の古墳や古代建築の寸法についての統計学的推定に基づいて新井宏氏が提唱している尺度である.天平尺は唐尺が導入された律令時代のもので、1里=300歩=約535mである.髙麗尺は地理学者藤田元春氏に依るが、現在の計量史学では存在が疑われている.1里300歩と1里360歩の換算の狭間に生じた計算間違いに起因する、日本だけの尺度かもしれない.江戸尺は曲尺である. 倭里=(1/6)魏里 古韓里=(6/5)魏里 天平里=8倭里 =(10/9)古韓里 倭尺 =(7/5)中国古代尺 古韓尺=(6/5)倭尺   天平尺=(8/6)倭尺 =(10/9)古韓尺=(98/100)曲尺 高麗尺=(360/300)曲尺(江戸尺)尺度系の移行期には、簡単な整数比(分数)によって、新旧の距離尺度の換算が可能であった.なお古代の距離尺度はいずれも「倭尺」の簡単な整数比で表される. 換算に小数が使われることはなかった.
  • 遠藤 篤
    セッションID: 602
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     日本の宗教の分布に関する研究は、古くは戦前の望月(1930)が行った研究まで遡ることができる。以降地理学の分野では、仏教諸宗派、キリスト教、神道などの分布の研究が行われてきた。その中でも、仏教寺院による地域別の分布に関するテーマは、数多く研究された。これらの先行研究では、現在の寺院分布に関することが重要視され、過去の寺院分布について触れている研究は少ない。今まで過去から現在に至る仏教寺院の分布の変遷をテーマとした研究がなされなかった一番の理由として考えられることは、過去の寺院の分布状況を知ることのできる資料が不足していたためである。そこで本研究では、江戸時代の文化・文政期(1800~1830年)、明治15年頃(1882年頃)、現在(2010年)の3つの異なる時期において、仏教寺院の分布状況について知ることのできる資料が存在する埼玉県を中心に寺院分布の変遷について分析していく。 研究方法としては、前述した時期の異なる3つの資料を扱い、寺院数を算出し、各宗派の寺院数の増減などを比較していく。主に利用する資料は、文化・文政期は『新編武蔵風土記稿』、明治期では『武蔵国郡村誌』、現在については『埼玉県宗教法人名簿』の3つである。その他に、市町村史や県内の寺院名鑑などを補足資料として扱い、3つの資料の分析を行っていく。 調査対象地域は、現在の埼玉県全域とする。本研究では江戸、明治、現在の3つの時期を取り扱っているため、いずれかの時期の行政区域に合わせて分析しなくてはならない。本研究では、『新編武蔵風土記稿』に記載されている16の郡を単位として分析していきたい。 県内の寺院数の変遷についてだが宗派別にみると、寺院数の多い上位4つ宗派(真言宗、曹洞宗、天台宗、浄土宗)や修験系の宗派の寺院は、時代が経つにつれ、特に江戸時代から明治にかけて数が減少していることがわかる。一般的に寺院数の減少は明治政府の出した政策による廃仏毀釈運動によるもので、その中で他に寺院の統合、移転、数は少ないが改宗といった理由が挙げられる。一方で、寺院数が増加している宗派は主に日蓮宗と浄土真宗の2宗派である。この2宗派は明治期以降に増加し、特に大正、昭和に入ってから寺院数が少しずつ増えていった。増加しているその他の宗派は、明治期以降に新たに独立した宗派だが、県内では、ほとんどが戦後に寺院が作られている。
  • -近世後期の鳥取城下町を題材に-
    塚本 章宏, 柴田 祐, 来見田 博基, 高橋 徹, 鳴海 邦匡
    セッションID: 603
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    1.はじめに
     近年、全国の博物館や資料館において、古地図をデジタルデータとして保存し、インターネットを介して公開する取り組みが盛んに行われるようになってきた。一方で、古地図は過去の地域景観を端的に伝えるものであり、学術研究の対象というだけではなく、地域の情報を広く一般に発信する際の有用なツールでもある。そのため、紙に印刷された古地図を持って町歩きをするイベントが催されたり、教材が作られたりしている。こうした動向を踏まえて、本報告では、デジタル化された古地図を題材に、GISやインターネットなどの情報技術を援用した地域・郷土学習の支援アプリケーションの開発と、これを利用したワークショップの成果について報告するものである。なお、対象地域は、近世後期の鳥取城下町の範囲である。

    2.アプリケーションとコンテンツの概要
    1) アップリケーション:「ちずぶらり」
     モバイル端末上でGPSから取得した現在地を基準に、「古地図と現在図との切り替え」や「拡大・縮小」が可能なビューワーである「ちずぶらり」を援用して、iPhone/iPadアプリ「鳥取ぶらり」を作成した。「ちずぶらり」は、ATR Creativeが開発した位置情報付きイラスト地図をあらゆる端末アプリに対して配信する世界初のモバイル向けプラットフォームである。これにより、あらかじめ現在図と古地図を重ね合わせ、ランドマークを登録しておくことで、モバイル端末で古地図上に現在地や周辺の歴史・地域情報を表示して内容を参照することができる。そのため、紙の古地図を使ったガイドツアーでよくある現在地の確認に時間をかける必要がない。また、古地図に詳しくなくても、その場で古地図上の現在地を確認することや、ツアーガイドの説明だけでなく自身で地域について発見ができる。
    2) コンテンツ:絵図資料
     鳥取県立博物館および鳥取県立図書館が所蔵する、近世期の鳥取城下町を描いた絵図を基盤として、近世から現在までの歴史・地域情報を集約した。なお、基盤とした絵図は、測量・製図の精度が非常に高く歪みが少ないため、現在の地形に重ねることが容易で、別の時代の絵図・地図・空中写真との切り替えが可能である。具体的には、安政5年の「鳥取城下全図」、昭和27年GHQ撮影の航空写真、昭和46年測量の国土基本図、慶安3年以前の「鳥取城下之図」、Google Mapsなどを適宜、切り替えることができる。今後も、絵図は適宜追加される予定である。

    3.ワークショップの概要と成果
     鳥取城下町に関する歴史・地域情報を古地図上で集約した上で、鳥取県立博物館主催で地域住民向けに本アプリを利用した町歩きイベントを開催した。そして、参加者へのアンケート調査を実施し、本アプリケーションの改良点や有効性・独自性の検討を行った。本ワークショップの全体的な感想として、「iPadを使うという内容は斬新で、興味深いものだった」「普段歩かない所に昔のなごりを感じられて良かった」など、好意的なものが多い。一方で、「様々なルートがあれば良いと考えた」「現在地の表示が少し不精確に感じた」「しるし(ランドマーク)が多くて、それだけ解説も多いということで分かりやすいという反面、こんがらがってしまう」などの課題も見られた。また、「古地図と現在の地図があまり変わっていないことに驚いた」といった鳥取城下町に特有の感想もある。

    4.おわりに
     本取り組みは、GPSと連動して古地図上での現在地と周辺の歴史・地域情報を表示するiPhone/iPadで動作するアプリケーションを作成し、これを利用したワークショップを行って、課題と有効性を検討した。将来的には、地域・郷土学習の支援を通して、地元地域に貢献することを目指している。今後は、地元の行政機関や教育機関と連携しながら、より有効な利用方法について協議を進めていきたい。
     また、GISの汎用性を応用した本取り組みを通して、古地図が、学術分野での利用だけでなく、地域貢献のためのツールとして有効であることを提示できると考えている。近年、注目を集めている「歴史GIS」の研究成果を地元地域へ還元する実践例として位置付ければ、学術成果と地域貢献といった両側面を充実させることで、多くの古地図の利用が促進され、歴史GIS研究の裾野が広がることを期待したい。

    付記:本報告は、平成24年度 小田急財団研究助成 観光事業の活性化と推進に関する研究「歴史資料とモバイル端末を援用した地域活性化のための情報共有システムの構築」(代表:塚本章宏)及び、平成24年度 科学研究費補助金 基盤研究(C)「日本の近世測量術のルーツとその近代測量への影響」(代表:鳴海邦匡)の成果である。
  • 阿部 志朗
    セッションID: 604
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    19世紀後半から石見地方で生産された窯業製品(石見焼、石州瓦)の流通について国内外の現地調査を行い、その流通圏と日本海海運による物流との関連を考察した。結果として、①北海道~本州にかけての日本海沿岸の広い地域で、島根県西部で鉄道が敷設する以前からの石見焼が流通している。石州瓦も同様であるが、数は少ない。②九州~瀬戸海~近畿地方にも石見焼、石州瓦が散在するが、他産地のものが多い。鉄道敷設の送れた豊後水道沿岸地域で戦前の石見焼の製品が多い。③韓国鬱陵島で近代の石見焼・石州瓦、ロシアサハリン州で近代の石見焼が確認でき、近代の石見地方の窯業製品の流通圏が及んでいる。④石見地方の窯業製品の分布は、近代の日本海沿岸地域の物流が近世からの海運に依存し、鉄道不要の物流システムが継続していたことの指標として有効である。ということが明らかになった。朝鮮半島、旧満州等での調査が今後の課題である。
  • 1919-1940年の大阪における材木業同業者町を事例に
    網島 聖
    セッションID: 605
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    近年の制度に注目する経済地理学研究では,産業集積の内部における共同体的な調整の様式と,より広域な透明性を帯びた社会的制度による調整の様式が相互に対立するものではなく,補い合いながら中長期の経済成長を実現する点が注目されている.こうした視点は,社会的制度が整備されていく近代の歴史的事例を検証することも求めている.近代日本を対象とする経済史研究では,同業組合等の共同体的側面を持って生まれた組織について,同時期に整備されつつあった法規や行政の役割との関係を軸に検証が進められてきた.同業組合等に注目した研究は歴史地理学でも行われているが,産業集積を事例に上述の観点から検証した研究は十分展開されていない.発表者は近代の同業者町を歴史的な産業集積と位置づけて検証してきたが,専ら社会的制度の関わりが強力な事例のみを取上げてきた.本発表では逆に,こうした社会的制度の影響力が弱かった同業者町がどのような状況になったかを分析する.具体的には,近代において地域差が残り,統一的な国内市場が形成されなかったとされる,材木業を取上げる.大阪の材木業同業者町は、近世の代表的同業者町と目されながら,近代以降は移転,分裂を経験しており,業者間の共同体的関係と行政等の関与との相互関係を,集積の維持や発展に注目して考察する.明治期大阪の材木流通では,近世の株仲間に出自をもつ業者が中心となった.地方産地から荷受けされた材木は,商品を陳列する市浜をもつ市売問屋によってセリ売りにかけられ,市立仲買人に引取られて需要家へ販売される経路と,市売の相場に従って地方産地と直接取引を行う附売問屋から需要家へ販売される経路があったが,材木流通の大部分を前者が担っていた.その後,日露戦争や第一次世界大戦期には,軍需の増大と造船熱の高まりによって,大阪の材木業は飛躍的に発展し,附売問屋や新興仲買商などからなる新興勢力の台頭につながった.近世以来の大阪の材木業同業者町は,長堀および立売堀の両岸に形成されていた.長堀北岸の材木業者は,1904(明治37)に市内電車の布設のため,長堀南岸と境川運河両岸への移転を余儀なくされた.境川周辺での新たな集積には数多くの新規業者の参入がみられ,機械挽きなど新技術の導入もあって繁栄したが,第一次世界大戦による木材需要の高まりにより,境川では狭隘となり,1920(大正9)年,大正区千島への移転が行われた.一方,長堀周辺の集積も旧来からの市売問屋の拠点として繁栄を維持した.大阪府や市は都市計画の観点から,長堀の市場も千島へ移転統合するよう要望したが,千島と長堀に新旧の市場とその周辺の同業者集積が並存し続けることになった.長堀市場を存続させたのは,長堀市場への愛着と大阪市中心部に近い立地故の利益関係をもつ,旧勢力である市売問屋による府市両当局への反対運動と,ロビー活動であった.旧勢力は新興業者の市売りへの参入を強硬に拒み,長堀市場を温存して千島市場を有名無実化しようとするに及び,新興業者側と旧勢力の対立は決定的となり,対立する2つの市場とその周辺の集積が併存していくこととなった.本発表により得られた知見は,フォーマルで透明性の高いとされる社会制度も,その決定に際しては政治的な要素の影響を無視し得ないことを示すものといえよう.
  • 浮谷 安奈
    セッションID: 606
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    本稿の目的は、後世の人物によって書かれた間宮林蔵の文献を取り上げ、そこから戦前・戦中の社会や国民の思想に、江戸時代の探検家である間宮林蔵がどう利用されてきたかを考察することにある。間宮林蔵に関する研究として、史学の分野で行われるような間宮自身を扱う個人史的研究や、間宮が書いた資料を使い当時の北方地域の再現を試みた歴史地理学分野に関連する研究がある。間宮本人による探検の記録『東韃紀行』『北蝦夷図説』を分析し、現在の北海道やサハリンにおける当時の旅の再現を試みた実証研究は、盛んにおこなわれ蓄積も多い。本稿はそれらどこにも当てはまらない立場で間宮を取り上げる。実証研究の中でしか取り上げることがなかった間宮林蔵を、後世における人物評価の角度から分析する。人物評価というと、地理学では地理学史の分野に関連しているといえ、岡田(2011)で間宮を挙げているものの、彼の生涯や功績を述べたにすぎない。明治以降の文献に登場するイメージされた間宮が、政治的・歴史的背景の中でどのように評価されたのかをみることで、間宮の功績を含めた人物像が、いかに戦争という日本の歴史的ファクターの中で利用されたのかについて論じていきたい。第二次世界大戦期である1938年から45年にかけて日本で地政学が発展したため、戦前に焦点をしぼり、資料を収集した。戦前の地政学の影響を受け、形成された間宮のイメージを戦前・戦中の文献を取り上げ検討するため期間を限定した。戦前、戦後では大きく社会体制が変化するため、その影響が思想にも大きく表れると考え、本稿では戦前期の間宮林蔵に関する文献を取り上げ、戦前の北方探検に関する評価を探究する。また、戦争に加担したと否定的に捉えられた戦時期の地政学研究を間宮林蔵のイメージから、なぜ当時世間に影響を及ぼしたのか、なぜ支持されたのかを読み解くことは、地理学界の中でも価値あるものといえる。間宮林蔵を分析する資料として、当時の新聞、論説、教科書、図書を取り上げる。また、間宮が取り扱われる要因となる時代背景として、日露戦争、シベリア出兵、太平洋戦争の3つに区分した中で、どのように資料内に間宮が表現されているのかを読み取る。結果として、戦前・戦中の教科書や新聞、学者の論説、図書をとおして「間宮林蔵」という人物を利用し、国民に戦争への参加精神を植えつけるような表現がなされたといえる。今日に伝わるような、江戸時代に北海道やカラフトを探検した間宮の業績よりも、探検に挑む間宮の精神を強調するような内容になっている。そこには、当時、戦争に対する社会の意識、国家の状況が反映されており、ナショナリズムによって作り上げられた人物像が存在していた。時期別に間宮の記述された資料を取り上げたが、日露戦争期には間宮の探検自体を評価した記述が中心だったのに対し、太平洋戦争期になるにつれ探検家としての価値よりも日本のために功績を残したという間宮の精神面の部分がクローズアップされる。それは、戦争の性格のちがいに影響されると考えられ、太平洋戦争期に人々は間宮の英雄像を求め、戦争に挑む不屈の精神を形成するひとつの材料とした。間宮林蔵の評価は、明治以降のナショナリズムの高揚、周辺地域の領土獲得という野心の背景で高まっていったといえる。このように戦争時のナショナリズムの高揚によって利用された歴史的人物は、他にも存在していると考える。それらの人物を今の時点で列挙することはできないが、戦争というフィルターを通して、実際の業績とは違った側面を評価されたという事実が存在しているといえよう。
  • 長谷川 奨悟
    セッションID: 607
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに〈BR〉本研究は,近世・近代の京都および,近世の大坂において,「名所」とされた場所や景物をめぐる「場所認識」(「名所観」)や,名所案内記の編者(多くの場合は知識人層)によって創られた「場所イメージ」の生産(再生産)をめぐる諸様相について,人文地理学的視点から検証を進めるものであり,本報告は,これを進めていくにあたって,必要な問題設定を行なうための手がかりとなる概念的整理を旨とするものである。2.知識人層の場所認識〈BR〉日本の近世から近代のある時期までは,例えば学者や俳諧師などといった知識人層が,その場所で語られる由緒や伝説といった「過去の事象」,あるいは,現在の繁華な様相に基づいて,注目すべき場所や景物を「名所」として見出していく。彼らは,名所地誌本の編纂(著述)を通じて,「名所」という場所イメージの生産(もしくは再生産)の実践をおこなっていたとみなすことができる。このことから,名所をめぐる問題に取り組むにあたり,(1)「名所」とは,経験や知識の集積によって構築された価値観に基づいた何かしらの場所認識や,まなざしによって見いだされ,知識人たちによって生産(あるいは,再生産)された差異の表象であり,場所イメージの1つであること。(2)それらは,旅や読書という行為を通じて一般大衆に受け入れられた文化的事象であると報告者は捉えてみたい。3.メディアとしての名所地誌本・名所絵〈BR〉スクリーチ(1997)は,「名所図会」は旅をしない人々に需要があったのであり,場所をめぐる口桶的な伝統に入った裂け目が名所図会を生んだのだと説く。さらに, (1)無知な人がある場所のことを一応すぐわかることができること。(2)他の人間との関わりなしでも物知りになれること。という2つの機能があったと指摘する。佐藤(2012)は,名所絵(泥絵/浮世絵)とは,景観の見方の規範を生産する文化装置であったことを説き,それぞれの絵画の差異にはその規範の対象なる読者(様々に規定された「共同体」)の「トポフィリア(場所愛)」が結びついた重層的な場所イメージの違いが想定されていた可能性を見いだした。さらに,名所地誌本(の挿絵)や,江戸泥絵などについて,トポグラフィ-場所を描く視覚的表象-としてとらえ,視覚文化の枠組みから捉え直す必要性を述べる。4.文化的構築物としての名所 〈BR〉名所とは,和歌に詠まれる「歌枕」がその原意であり,古代における名所とは,和歌において重要な役割を担うものであり,知識としての場所認識であったといえる。鶴見(1940)によれば,中世には名所や風景をめぐる場所認識は,中国の山水思想などの影響を受けたという。近世には名所地誌本の刊行や庶民文化の発達によって,名所とされる場所は多様化し,近代初頭には,西洋風の近代建築が名所として認識されるなど,時代的・文化的変遷によって,名所とされる場所や景物,さらにその価値付けが変化する流動的な側面を持つと指摘できる。これについて,場所をめぐる概念について整理した,大城(1994)の成果を援用すれば,名所と見なされる場所もまた文化的構築物の一形態であるとみなすことができよう。〈BR〉また,秋里籬島が,『都名所図会』において「京らしさ」や「上方文化」の表象を試み,『江戸名所図会』の編者である斉藤月琴は,江戸の優位性や江戸の特異性を,名所図会というメディアを通じて世間に知らしめることを試みている。つまり,自身が住まう都市に対する都市や,場所への誇り,あるいは,都市や場所をめぐる特定のとらえ方が,自身の作品である名所地誌本に反映されているという見方ができるであろう。5.おわりにかえて〈BR〉名所をめぐる問題には,地理学において議論されてきた「場所」の地域性や差異,つまり,名所とされる場所や景物には,その地域で生成されてきた風土や文化といった諸コンテクストが大きく関与しているという視点に立っての検証が必要となろう。そして,土居(2003)が指摘する「トポグラフィティ」や,トゥアンの「トポフィリア」をめぐる概念が有効な手がかりの1つとなろう。
  • 結婚情報誌『ゼクシィ』を事例に
    齋 実沙子
    セッションID: 608
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は、結婚式場の広告において「場所イメージ」がどのように利用されているのか、また、どのような役割を果たしているのかを明らかにすることを目的としている。
     「場所イメージ」とは、場所を想起する際のイメージのことであり(内田,1987)、消費社会における量産商品の広告では、商品イメージの差別化を図る手段の1つとして「場所イメージ」が利用されている。そこで本研究は、結婚情報誌として圧倒的な売り上げを誇る『ゼクシィ』を事例に、結婚式場の広告の中にある「場所イメージ」に関する表象を調べることで、結婚式場に求められる「場所イメージ」やその利用状況、またその役割を明らかにした。なお、その際に本研究では、エリア・会場形態・時間という3つの視点から「場所イメージ」の利用について検証を試みた。
     まず、『ゼクシィ』の特徴として、独自に区分されたエリア別に広告が掲載されていることが挙げられる。そこで、これらのエリア区分から【横浜・川崎】エリア、【湘南】エリア、【埼玉】エリア、【東京23区】エリアの4つを選定して「場所イメージ」に関する表象の分析を行った。その結果、各エリア毎に「場所イメージ」に関する表象の使用状況が明らかに異なることが分かり、例えば、【湘南】エリアでは「海」のイメージを想起させる広告が大多数であるのに対し、【埼玉】エリアではそこが「埼玉」であることを感じさせない広告が多くなっていた。このように、結婚式場の広告において「場所イメージ」は、結婚式場のイメージに相応しいものとそうでないものとが意図的に取捨選択された上で使用されており、すなわち、「場所イメージ」を利用する、あるいは不必要なイメージであれば利用しないことで、より結婚式場らしいイメージを広告の中で作り上げていることが分かった。
     次に、『ゼクシィ』にはエリア別の広告掲載の他にも、【ホテルウエディング】という会場形態別の特集があるため、これとエリア別の掲載箇所を比較した。するとその結果、「場所イメージ」の利用は会場形態によって異なり、特に一流ホテルでは「場所イメージ」が全く利用されていないことが分かった。これは、ホテルが既に結婚式場に相応しい「高級感」や「特別感」といったイメージを持っているためであり、これに対して、そのようなイメージを持っていない会場では、広告の中で「場所イメージ」を利用することでそれらのイメージを補完あるいは強化しているのである。すなわち、「場所イメージ」は、結婚式場が既存のステレオタイプのイメージを持っていない場合において、特に有効に作用することが分かった。
     最後に、これに時間軸を加えると2012年現在、このように巧みに利用されている「場所イメージ」は、2001年当時はそれほど利用されておらず、つまりこの間に結婚式場の広告において「場所イメージ」の利用が発達したことでより高度化・複雑化したことが分かった。これは、『ゼクシィ』が結婚情報誌市場を独占し、各結婚式場は1つの誌面上だけで他社との競合を強いられたため、広告でのイメージによる差異化が必須となった結果でもあるが、このような差異化はあくまでも微妙な差異の戯れに過ぎず、むしろ、皮肉にもそれによって並列されてしまっている。
     以上、結婚式場の広告における「場所イメージ」の利用状況は、それらの背景の違いによって様々であることが分かったが、これら全ての類型に共通することは、「場所イメージ」を利用している利用していないに関わらず、本来の場所を「隠している」ということである。なぜなら、結婚式場が広告される段階で、既に「場所イメージ」は取捨選択されているため、結婚式場の広告の中で「場所イメージ」を利用していない場合はもちろん、利用している場合も不必要なものはいったん全て広告から排除されているからである。そのため、結果的にそこで表現される「場所イメージ」は、実際に私たちが抱く「場所イメージ」とはまた少し異なるものとなっており、すなわち、それらは結婚式場の広告用に「結婚式場に相応しい場所」として新たに作られた、よりキッチュな「場所」と「場所イメージ」になっているのである。そして、それらは繰り返し利用されることで再生産され、あたかも最初から「結婚式場に相応しい場所」であったかのように定着し、受け入れられるようになっていくといえよう。
     また、このように「場所イメージ」が気軽に多用されるようになったことで、「場所のステレオタイプ」化もより進行し、ステレオタイプ化され単純化された「場所イメージ」は、かえって複雑な現代社会を作り出しているようにもみえる。すなわち、結婚式場の広告における「場所イメージ」の利用とその変化は、現実とイメージとがより一層錯綜したハイパーリアルな社会になっていることの1つの現れであろう。
  • 益田 理広
    セッションID: 609
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     本研究は人文地理学における空間概念のプラグマティズム的考察,即ち現状として混同されている他概念と空間概念との弁別を行い,「空間の学」たる地理学の理論的基礎を回復することを目的とするものである.空間は地理学の勃興と共にその中心に位置し続けてきた概念であるが,現在そこで論じられる空間概念は統一を失した状態に陥っており,「空間の学」たる地理学は理論的な危機を迎えつつあるといえる.そこで本研究は人文地理学の中で論じられる,「空間」と名付けられた概念を精査し,それが真に空間と呼ばれるものであるのか,それとも他概念の異名に過ぎぬのかの弁別,即ちプラグマティズム的な考察を行うのである.プラグマティズムとは「差異を生まぬ原因はない,故に結果が同一であればその原因も,たとえ別の名を持っていようと同一である」という考えを公理とするもので,概念弁別の根拠となるものである.弁別に先立ち,第一に近代科学全般の基礎となった古典的な空間概念を簡略に確認し,第二に人文地理学上の空間論を概観する.そして,既に見出した古典的な空間概念を一種の指標としてこれに対比させ,その輪郭を描き出す. 古典的な空間論に関しては主として以下の五種類の概念が認められた.まず,空間は物質であるとするデカルトの「充満空間」,空間をあらゆる現象から独立した存在と見做すニュートンの「絶対空間」,逆にそれを諸物の関係あるいは秩序を示す語に過ぎないと断じるライプニッツの「相対空間」,経験論の立場から空間は視覚あるいは触覚から生じるものとするロックの「単純観念としての空間」,そして,空間を人間が外物を認識する唯一の方法であると喝破したカントの「ア・プリオリな感性の形式としての空間」である.現代人文地理学上の空間論には以下のような展開が認められる.リッターやヘットナーによって地理学を特徴づけるものが空間であるとされて以来,地理学は「空間の学」としての性格を強めていき,空間を等方的な絶対の場として定義するに至った.しかし,その空間理解は計量主義の興隆と共に非難を招いてしまうこととなる.これは現今の空間を巡る論争の濫觴でもあった. その批判者たる計量主義は,科学としての法則定立を目指し,時間と独立する絶対空間を否定した.そこで採用される空間概念は現代物理学の扱う時空間連続体と近似したものである.人文主義的地理学の主張する空間論は唯物主義の専横に反抗するものであり,「生きられた世界」のような主観的な概念を空間と見做す.構造主義はこの二者の対立の後に興隆し,諸事象の織り成す構造を空間とし,実存的意味に満たされた対象の実証的分析を追求した.その「構造」は単なる機能的関係から,未だ意識されぬ現象としての「深層構造」にまで及んでいる.その他にもルフェーブルやデュルケームに端を発する空間も重要であるが,その概念としての定義は曖昧である. 以上の空間概念を古典的な空間概念と対応させると,計量主義はデカルトの空間物質説に近似し,人文主義的地理学はロック的な認識説に接し、構造主義はライプニッツの空間関係説に内包されることとなる.そこで,これら「物質」「認識」「関係」の三概念を軸として,地理学上空間と見做されることのある概念についての弁別を行った. 考察を行った概念は以下の通りである.①物質―「地表面」「形状」「肉体」②関係―「位置・距離」「幾何構造」「環境」「社会」③認識―「景観」「記号」「五感」.以上の概念について考察を加えた結果,以下のような結論を得た.①「認識」「関係」を独立に見た場合でも,「認識」「関係」のほとんどは「物質」に対する認識・関係であり,いわば従属した概念であること.②空間論が総じて唯物的であり,多元主義を標榜しながら極めて排他的な性格を有すること.③何の吟味も行わず種々雑多な概念に「空間」の名を与える傾向が存在すること.④その際,感覚,特に視覚が先行し易いこと.この結果が意味するのは,地理学上の空間概念はその実「物質」に等しいということである.そして,仮に「空間の学」が「物質の学」と化すならば地理学はその基礎を失うこととなってしまう.それを避けたくば,他概念と峻別可能な空間概念が必要となる. 本研究はこの現状に対してニュートン及びカントの空間概念の再評価を行うことを提言する.この二氏の概念は地理学からほとんど排斥されてしまったものではあるが,また空間に積極的な意義を見出した概念でもある.この概念を無視し続ければ,混乱はいよいよ深まるものと予想される.
  • 卯田 卓矢, 益田 理広, 金 錦, 細谷 美紀, 久保 倫子, 松井 圭介
    セッションID: 610
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     北陸地方は「真宗王国」とも称されるように浄土真宗(以下,真宗)の篤信地帯として知られている.真宗は「講」を基盤とした集団活動を通して教線を拡大させたといわれるが,北陸においても小地域単位での講の組織化が信仰を拡大,あるいは持続させていく上で大きな役割を果たした.  
     他方で,講のような信仰集団は,精神的な結びつきを生むだけでなく,村落の社会構造を反映し,村落社会の秩序や成員相互の紐帯を維持・強化する機能も有している.真宗の講組織においても,庚申講や山の神講などの信仰的講と同様に,村落社会と構造的に結びつていることが指摘されてきた.宇治(1996)は,村落の社会構造が寺御講や村御講の基盤となり,かつ講組織の維持にも深く関係すると述べている.また,宇治は村落構造を分析する視点として,集落内の階層性や血縁関係,社会組織などに着目している. 
     そこで,本研究ではこの視点を踏まえ,富山県下新川郡入善町の道市地区を事例に,当地区の血縁・同族関係,社会組織との関係性から,講組織の構造とその持続性について明らかにすることを目的とする. 
     入善町道市地区は市街地の入膳地区から1kmほど西に位置し,人口は241人である(2012年9月現在).住民によると,ここ50年の間に当地区へ転入したのは2世帯のみであり,新住民が僅少であることが地区の特徴の一つといえる. 
     道市地区の社会組織は班,及び地区を単位とする組織から構成される.班は同族関係を基盤に形成され,冠婚葬祭などの諸行事において顕著に結びつく.一方,地区の組織は自治会と各種団体が存在し,住民は年齢ごとに地区の様々な行事の運営,維持に携わる.こういった活動は地区の伝統や文化を継承することの重要性を自然と吸収し,道市住民としての自覚を養うことに寄与している. 
     次に真宗の講組織について見ると,当地区では住民のほとんどが大谷派,及び本願寺派の門徒である.講組織は寺御講,村御講,報恩講が存在し,地区内の門徒はいずれの講にも積極的に参加している.その中で,村御講は毎月大谷派と本願寺派の門徒が合同で営み,講の当番は各戸の戸主が担当し,当番と同じ班の戸主の参加が慣例となっている.ここからは,班と深く結びつく形で村御講が営まれていることがわかる.  
     以上を踏まえ,講組織(村御講)の構造とその持続性について検討すると,村御講は班との構造的な関係性,班及び地区の社会組織の活動を通した住民意識,また真宗門徒が多数を占め,かつ新住民の僅少といった道市地区の地域性が重層的に結びつく中で,現在に至るまで維持されていることが確認できる. 
     当地区を含む北陸地方では真宗の篤信地帯という特性から,講組織の維持に対して信仰や宗教的側面に関心が向けられることが少なくなかったが,こういった地域の社会構造との関係についても注視する必要があると考えられる.
  • 木村 昌司
    セッションID: 611
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    共同浴場は,交流の「場」として重要な意味をもっており,毎日人が集まることにより,地域の様々な情報があつまる「情報センター」としての機能を有している(印南 2003).しかしながら,現在,日本各地の共同浴場では利用者の減少,利用者の高齢化といった問題に直面しており,地域社会で共同浴場を維持管理する意味を問われている.本研究では,地域住民を主体とした自治共同的な取り組みによる温泉資源の維持・管理体制と地域住民の温泉利用,また共同浴場を支えている地域コミュニティに着目し,長野県諏訪市における温泉共同浴場の存続要因を明らかにする. 諏訪市では豊富な湯量を生かして,一般家庭や共同浴場において,地域住民が日常的に温泉を利用できる体制が整っている.温泉共同浴場は市内各地区の64か所に存在する.その大部分は,各地区の温泉組合や区によって維持管理されており,地域住民のみが利用できる形態となっている.諏訪市の温泉供給システムをみると,源泉の利用によって2つのタイプに二分することができる.Ⅰ型は,市が管理する源泉を利用するタイプ,Ⅱ型は,地区の温泉組合が管理する源泉を利用するタイプである.I型では,市内10か所の源泉が統合され,一般家庭(2160戸),市内の共同浴場(47か所)などに供給されている.この温泉統合は,1987年に完了したものである.しかしながら,その供給は近年減少を続けており,いかに温泉離れを食い止めるかが課題となっている.諏訪市では,2012年3月から温泉事業運営検討委員会を立ち上げ,市の温泉事業のあり方について議論している. Ⅱ型では,市の統合温泉を利用せず,各地区で保有している源泉を用いて,共同浴場を運営,また各家庭に温泉を給湯している地区もある.市から温泉を購入する必要はなく,経営的にも余裕がある. 本研究では,I型の諏訪市大和区,Ⅱ型の諏訪市神宮寺区を事例に,温泉共同浴場の存続基盤を探った.I型の大和区では,諏訪市の統合温泉を利用し,区の温泉委員会によって5か所の共同浴場が維持管理されている.大和区の世帯数は1,032,人口は2,441(2012年)であり,そのうち共同浴場を利用するのは119世帯(285人)である.統合温泉を用いて,自宅に温泉を引くことも可能であり,約450世帯が自宅に引湯している.大和区では,共同浴場利用者の高齢化が進んでおり,積極的に利用しようという機運は少ない.しかしながら,自宅に温泉を引く世帯から月に500円の協力金を徴収するなどして,共同浴場の維持管理に努めている. Ⅱ型の神宮寺区では,自家源泉を保有しており,神宮寺温泉管理組合によって3か所の共同浴場が維持管理されている.隣接する4地区へも売湯していることから,経営に余裕があり,2005年~2009年にかけて3か所の共同浴場の建て替えを行った.神宮寺区の世帯数は670,人口は1,809である(2012年).共同浴場の利用者は,286世帯(689人)と多くの利用がある. 大和区,神宮寺区のいずれも,御柱祭にみられるように地域の結束力が高く,その地域基盤から共同浴場も維持,管理されている.日常から行事や会合も多く,頻繁に顔を合わせる機会は多いが,共同浴場はその一翼を担っていると考えられる.しかしながら,大和区と神宮寺区では源泉の有無の違いから,経営基盤に差があり,それにより温泉共同浴場の存続基盤も異なっていることが分かった.利用者も少なく,経営的にも苦しい大和区で,住民が協力金を支払うなどしてまでも共同浴場が維持されているのは,諏訪の伝統を重んじる地域性が背景にあるといえよう.一方,神宮寺区では源泉を保有し,経営に余裕があることから,共同浴場の施設刷新を行っている.これにより住民の温泉利用が促進され,共同浴場は持続可能な維持管理体制を実現している.
  • 近藤 昭彦, 小林 達明, 鈴木 弘行, 山口 英俊, 早川 敏雄, 松下 龍之介
    セッションID: 612
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     筆者らは飯舘村、川俣町山木屋地区を中心とした阿武隈山地における空間線量率の空間分布の測定を継続してきた。複数の手法を用いて広域から流域単位まで異なる空間スケールで空間線量率の分布図を作成した結果、放射性プルーム(放射能雲)の移動と放射性物質の沈着の状況に関わる情報が得られた。(1)広域スケール:最初の航空機モニタリングの結果は2011年5月6日に公表され、福島第一原発から北西方向に伸びる高濃度汚染域の状況が明らかになった。放射性物質の大半は太平洋流域に沈着し、分水界を超えた北西側では高標高部に高汚染域が点在している。(2)走行サーベイ:広域スケールとほぼ同様の分布傾向が得られたが、浪江町津島および飯舘村比曽地区では谷底が最も空間線量率が高く、斜面では相対的に低くなっていた。一方、川俣町山木屋地区および飯舘村中・北部では斜面上部の空間線量率が高くなっている。飯舘村前田地区のような纏まった高濃度汚染域の形成は地形によるプルームのジャンプが原因と考えられる。(3)里山流域スケール:川俣町山木屋地区では歩行サーベイにより、谷底より山地斜面の空間線量率が高いこと、常緑針葉樹林で空間線量率の高い領域があること、南東向き斜面(原発方向)の空間線量率が高い傾向にあることが明らかとなった。 東電福島第一原発は海岸沿いに位置する。阿武隈山地の太平洋流域は北西方向に向かって海岸から30~40kmで標高1000mに達し、中通りに続く阿武隈川流域と接する。原子炉建屋から放出された放射性物質は阿武隈山地を谷底に沿って運搬されながら上昇し、谷底に高濃度汚染域を残した。分水界に到達した後は相対的に高い位置を運搬され、高標高域に高濃度汚染域を形成した。その過程で、風上側斜面に高濃度汚染域を形成した。その時、常緑針葉樹林の樹冠に多くの放射性物質が沈着することとなった。プルームが尾根を越える時は風下側でジャンプし、離れた地点に高濃度汚染域を形成した。よって、地域、地形、植生を勘案することにより、放射能汚染の状況がある程度推定することが可能となった。 これにより、山地斜面を含めた詳細な空間線量率分布をある程度予測することも可能となる。今後の帰還と復興、放射能対策立案のための基礎的情報として成果を活かしたい。
  • Twitterおよびアンケート調査へのテキストマイニングから
    田中 耕市
    セッションID: 613
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    I. 研究目的と背景東日本大震災の被災地では,津波の被害を受けなかった地域においても,地震直後からの停電やインフラのダウンによって,情報の入手が困難な状態に陥った.停電を免れた地域や,復旧した地域においても,テレビや新聞では甚大な被害の報道が優先されるため,給水や物資供給など生活に必要な身近な地域情報を入手することは難しかった.そのような混乱のなかで,不特定多数の地域住民間の情報共有に力を発揮した手段の一つとして, Twitter(ツイッター)などのソーシャルメディアサービスがあげられる.本研究では,東日本大震災・原発事故の被災地である福島県の一部地域を対象として,Twitterで共有された空間情報の特性を,テキストマイニングの手法を活用して明らかにする.また,地震発生直後から災害対応,被災者生活の再建,そして復興へと向かう過程で,共有された空間情報がいかに変化していったかを考察する.Ⅱ. TwitterとテキストマイニングTwitterとは,携帯電話やPC・タブレット等を端末として,短文(140文字以内)のテキストメッセージを発信(ツイート)して他者とそれを共有するソーシャルメディアサービスである.特定の相手に送信するEメールとは異なり,不特定多数のユーザからツイート内容の閲覧や,返信(リプライ)が可能な点に特徴がある.テキストマイニングとは,膨大な量のテキストデータを自然言語解析によって単語やフレーズに分解したうえで,それらの出現頻度や相関関係を分析する手法である.単語・フレーズ間の関係や時系列の変化などを抽出することが可能となる. 本研究では,Twitterでツイートされた文章や,アンケート調査で得られた自由回答の文章を対象として,テキストマイニングを行う.特に,地名をキーワードとして抽出することによって,その地名に関わる情報の内容と,その時系列的な質的変化に注視する.Ⅲ.共有された空間情報の内容とその質的変化本研究では,東日本大震災の被災地であり,原発事故の影響を受けた福島県の2地域の事例を主に取り上げる.地震発生後からの空間情報の質的変化をTwitterから,そして震災後1年が経過しての原発事故対応と生活に関する住民の不安をアンケート調査から明らかにする.
  • 初澤 敏生
    セッションID: 614
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     東日本大震災とそれに伴う原子力発電所の事故から2年が経過したが、被災地の復興はまだ緒に就いたばかりである。本研究では福島県南相馬市原町地区における地域産業の状況とその課題について報告する。 なお、本研究で使用するデータは報告者が2012年10~11月に原町商工会議所会員を対象として実施した調査に基づくものである。 施設・設備の稼働状況を業種別にみると、建設・土木業を除くすべての業種で依然として震災前の水準に戻っていない。特にサービス業では震災前に比べて縮小している事業所が多い。 これは売上高で見るとより明確になる。震災前の2010年9月も売り上げを100とした場合、2012年9月の売り上げは建設・土木業が141となっているのを除けば、製造業80、卸売業61、小売業80、サービス業61となっている。特に卸売業とサービス業の落ち込みが大きい。商業部門は地域住民を対象として営業しているため、地域外への多くの住民が避難していることが売り上げを低下させているものと考えられる。この結果、特にサービス業を中心として今後の事業継続の見通しに対する不安が広がっており、今後、廃業が増加していくことが懸念される。 ここで特に注目されるのは、商業のみならず、地域外との取引が多い製造業においても2011年から2012年にかけての回復の幅が小さいことである。これはいったん途絶えた取引が、時間が経過しても元に戻っていないためである。今後、新たな取引先の開拓が必要となっている。 一方、従業員数はサービス業以外では比較的回復の幅が大きい。特に売上高の伸びの大きい建設・土木業では労働力の不足感が強く、労働力不足がビジネスチャンスを逃していると認識されている。また製造業でも同様の認識から人員の拡大が急ピッチで進められている。商業部門のみならず、工業部門においても、地域経済の復興のためには人口の回復が必要となっている。
  • 鉄道・バス、自動車の最短パスのQ-分析
    水野 勲, 長谷川 直子, 小田 隆史
    セッションID: 615
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     東日本大震災によって、福島県内では長期の避難生活を強いられた市町村があるだけでなく、地震・津波・原発事故による交通網の遮断・通行禁止によって、伝統的な市町村関係が変容した。ある地域がそこの住民自身によって歴史的に固有名で呼ばれたとき、そこには地域の有機的な連結構造が前提となっている。ここで地域とは、地理学的には、通勤・通学圏、商圏、医療圏、行政圏、文化圏などが重複したものであろう。そうであるならば、浜通り、中通り、会津という福島県の伝統的な3地域区分は、どのような影響を受けたのであろうか。 本発表では、東日本大震災がもたらした福島県内100市町村(合併前)間の連結構造の変容を、公的・私的交通機関の近接性データから空間分析することによって解明することが目的である。 本発表では、福島県内の市町村間の連結構造をトポロジカルに捉える。なぜならば、まず福島県内各地の日常生活の変容を捉えることが発表者らの目標であり、このためには日単位の移動空間、すなわち景観上では確認しにくいが確実に存在するローカルな空間(生活空間)が重要になってくるからである。ここで、近接性と連結性の概念を定義しておく。近接性とは、(一日で)到達可能かどうかを論じるのが第一義であり、(時間)距離の大小を問題にするのは第二義である。本発表では、最初に時間距離のデータに基づいて分析を行うが、あくまで、一日で到達可能かどうかという意味での近接性が問題となる。次に連結性とは、近接性が直接的な地域間関係を示しているのに対して、間接的な地域間関係を指す。たとえば、浜通り、中通り、会津という中地域区分を調べるとき、市町村間の近接性ではなく連結性が問題となる。 発表者らは、震災前と震災後の2時点に関して、(1)福島県内全域の鉄道・バスの時刻表、駅・停留所の緯度・経度情報をすべて収集した。(2)デジタル道路マップDRM上の福島県内の国道・県道すべてと、道路交通センサスで明らかとなる平均移動時間をリンクした。平均移動時間が得られない一部の道路区間については、独自の方法で推計した。(3)物的に破損した道路、警戒区域などの通行禁止区間の情報を入手した。(4)役場の移動と仮設住宅の場所の情報を入手した。 こうしたデータをもとに、GISツールとQ-分析によって分析を行う。まず、公的交通機関(鉄道・バス)と私的交通機関(自動車)による最短時間パスを計算する。公的交通機関については、乗り換え時間は考慮するが待ち時間は考慮せず、私的交通機関については、道路交通センサス(震災前)の道路別の平均移動速度で自動車が移動すると仮定する。この最短時間パスの分析から計算された旧100市町村間OD行列に対して、いくつかの切断パラメータによって0-1の隣接行列を作成し、このデータに対してQ-分析を行う。 東日本大震災によって、浜通りの津波被災地域と原発警戒区域で甚大な近接性の変化が生じ、これによって浜通りの連結性は大きく失われた。特に、鉄道・バスの公的交通機関でこの影響は明らかであり、自動車の私的交通機関では迂回路による、ゆるい連結性が保たれるのみである。また、役場の移動や避難住民の仮設住宅への移動を、一時的とはいえ「町の移動」とみなすならば、福島県内の伝統的な3地域区分は新たな連結性も生み出しつつあるといえる。本発表では、いくつかのGIS地図とQ-分析の結果を示して、考察を行う。
  • -三陸鉄道を事例に-
    関口 直人
    セッションID: 616
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    Ⅰ.はじめに 
    モータリゼーションの進展により,人々の移動手段は自家用車へと変化し,公共交通機関は衰退へ追い込まれた。特に地方の鉄道や路線バスは苦しい経営となり、代替バスへの転換や第三セクター化もみられるが、1999年の鉄道事業法の改正により鉄道事業に対する参入と退出の自由が認められ経営の苦しい第三セクター鉄道も廃止されるようになった。 
    経営が苦しい鉄道路線が多くなる中で,2011年3月11日に発生した東日本大震災はJR線,私鉄線に大きな被害を与えた.震災の被害から全線運休となったが,復旧を遂げた路線やBRT化を進める路線もあるが,鉄道を復旧させるためには費用面など様々な課題がある.被災した第三セクター鉄道には国からの補助により復旧費用は全額負担となったが,過疎化により,利用者が減少しているなど問題が山積みである. 
    本研究では,東日本大震災で大きな被害を受け,全線運休から一部区間の運転を再開した岩手県三陸鉄道を事例とし,東日本大震災での被害状況と現在までの復旧状況を整理し,運休中の従前の利用者の移動方法,復旧後の利用状況、これまでの研究から三陸鉄道の主な利用者は高校生であることが明らかになっていることから,沿線高校生の震災前後での交通行動の変化を明らかにすることを目的とする. 
    1年以上の鉄道運休は利用者にどのような影響を与えたのか,震災以前の利用者は回復しているのか,鉄道運休中にはどんな移動方法をとっていたのか把握することは三陸鉄道の震災の影響や,新たな施策の検討につながると考えられる.なお,本報告では,国、県、沿線自治体の補助により復旧計画として掲げた第一次復旧が完了したことから、2012年4月を「現在」と定義する。
    2.研究方法 
    三陸鉄道の現状を知るために,『鉄道統計年報』,『岩手県移動報告年報』によって年間乗降人員,沿線人口を整理し,三陸鉄道の震災後の利用状況について知るために三陸鉄道利用者へのアンケート調査,旅客流動調査,沿線高等学校3年生へのアンケート調査を行い,それぞれ分析を行った.
    3.研究結果 
    三陸鉄道利用者へのアンケート調査結果は,平日の利用者の中心は、沿線に居住し、日常的に通学目的で三陸鉄道北リアス線を利用する高校生であり、休日の利用者の中心は岩手県外に居住し、低頻度の旅行・観光目的で三陸鉄道北リアス線を利用する広い年齢層にわたる観光客であった。三陸鉄道不通時の移動手段として自動車による送迎、バスでの移動である。また,旅客流動調査からは朝,夕方は高校生の通学定期での乗車が多く,日中は団体割引乗車券で乗車の団体観光客,現金や普通乗車券で乗車の通院や買い物目的の利用が多い.輸送断面は始発駅と終着駅、学校が近隣に立地する駅で利用が多い. 
    沿線高等学校に対するアンケート調査結果からは、通学や通学目的以外で三陸鉄道北リアス線を利用している生徒はごく一部である。三陸鉄道北リアス線を利用していない生徒の通学や移動手段は自動車による送迎や自転車が多く、居住地によって移動手段が変わる。震災以前から通学に三陸鉄道北リアス線を利用していない生徒が多い。 
    震災以前と震災後で三陸鉄道利用者の利用状況に大きな差はない。
  • 青山 雅史
    セッションID: 617
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに2011年東北地方太平洋沖地震により,東北地方と関東地方の広範囲において地盤の液状化による被害が生じた.関東地方における液状化被害に関しては詳細な調査・研究がなされているが,関東地方と同等以上の震度が観測された東北地方における液状化被害に関する調査・研究は比較的少なく,詳細な液状化被害分布は明らかでない.本研究では,震度5強から6強の揺れが観測された宮城県北部の大崎平野と仙北平野を調査対象地域とし,地盤の液状化の発生を示す確実な証拠となる噴砂のほか,液状化に起因すると推測される構造物被害の分布を明らかにした.さらに本発表では,噴砂の発生地点や液状化に起因すると推測される構造物被害(特に,マンホールの浮き上がり被害)と微地形・土地の履歴との関係に関する検討結果を示す.2.調査方法と使用したデータ噴砂発生地点の分布を明らかにするため,Google Earth画像の判読をおこなった.Google Earth画像の画像取得日は,2011年4月6日である.また,液状化に起因する構造物被害の分布を明らかにするため現地踏査をおこない,目視による観察に基づいて被害発生地点のマッピング,被害形態の記載をおこなった.現地踏査は2011年6月~2012年9月におこなった.さらに,Googleマップのストリートビューを用いて,おもに市街地におけるマンホールの浮き上がり被害の確認・抽出もおこなった.液状化発生地点と微地形や土地の履歴との関係を検討するため,液状化発生地点について,治水地形分類図や土地条件図,旧版地形図などとの重ね合わせをGISを用いておこなった.3.液状化被害発生地点の分布と微地形,土地履歴との関係噴砂は,鳴瀬川,江合川,迫川,旧迫川,北上川などの河川の旧河道や自然堤防(蛇行州)において,多数生じていた領域がみられた.しかし,多量の噴砂が高密度で生じた利根川下流域旧河道と比較すると,本調査地域旧河道の噴砂発生地点数は少なく,利根川下流域の旧河道・旧湖沼のような一定の面積にわたって高密度(連続的)に噴砂が発生した領域はみられなかった.利根川下流域の液状化発生地点のほとんどは,明治後期以降の比較的新しい時期に利根川河床の浚渫土砂により埋め立てられた旧河道・旧湖沼であった.仙北平野においても,利根川下流域と同様に,かつて多くの湖沼が存在したが,その多くは埋め立てではなく,昭和前期の干拓事業により陸域化し,農耕地へと変化した.そのような旧湖沼の干拓地では,噴砂の発生数は少なかった.また,登米市内の北上川と迫川に挟まれた地域には,1600年代初頭までの北上川の河道であった帯状の領域(旧河道)が連続的に存在するが,噴砂が生じていた地点はその一部の領域のみであった.本調査地域では,埋め立てや盛土などにより表層部に人為的に形成された緩い砂質地盤が存在する領域が少ないことが,液状化発生地点数がそれほど多くなかった要因の一つとして考えられる.本調査地域の噴砂は,上記の河川沿いの高水敷,氾濫平野,段丘や,大崎平野西部の田川,渋川沿いの氾濫平野上などにおいても生じていた.液状化に起因すると推測される構造物被害としては,鳴瀬川や江合川の河川堤防の崩落・沈下・亀裂,建物周辺地盤の沈下,マンホールや浄化槽などの地中埋設物の浮き上がりなどが多くみられた.堤防の被害は,自然堤防,氾濫平野,旧河道などにおいて生じていた.堤防被害の要因としては,基礎地盤または堤体内部の液状化が指摘されている(国交省東北地方整備局 2011).建物被害に関しては,沈下・傾斜といった大きな被害の発生数は比較的少なかったが,建物周辺地盤の沈下による抜け上がりが,大崎市古川地区や登米市佐沼地区の氾濫平野上に位置する1980年代以降の比較的新しい時期に造成された地域において多くみられた.本調査地域のマンホールの浮き上がり被害は,表層地盤がおもに砂質土からなる自然堤防と,粘性土が卓越する氾濫平野(後背湿地)のどちらにおいても生じていた.しかし,マンホールの浮き上がり量は,氾濫平野上において浮き上がり量が大きい傾向がみられた.その中でも,丘陵地や台地との境界部付近に位置する泥炭地において,50cm以上の浮き上がり量を示した地点が多数みられた.また,マンホールの浮き上がり量の大きい泥炭地では,マンホール周辺の自然地盤における噴砂は確認されなかった.以上のことから,本調査地域における液状化の発生は局所的なものが多く,利根川下流域の旧河道・旧湖沼のように,一定の広がりを持った領域において高密度かつ連続的に噴砂や構造物被害が生じた領域はみられなかった.マンホールなど地中埋設物の浮き上がり被害が多数の地点でみられ,1993年釧路沖地震以降の複数の地震発生時と同様に,粘性土が卓越する軟弱地盤において浮き上がり量が大きくなる傾向が認められた.
  • 松多 信尚
    セッションID: 618
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    2011 年3 月11 日の東北地方太平洋沖地震により発生した津波(以後、平成津波)により東北地方から千葉県にかけての沿岸部は広域にわたり壊滅的な被害を受けた.日本地理学会災害対応本部津波被災マップ作成チーム(2011)や東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ(2012)などによって浸水範囲、津波高、遡上高が迅速に測られ、インターネット上で公表されている。平成津波の津波高を明治三陸津波(以後、明治津波)と比較すると、岩手県では大きな差がないが宮城県以南では今回の津波高が明治津波を大きく上回っており、津波を引き起こすした海底地震断層が岩手県沖から茨城県沖にまで達したことが、津波の観測データからも推定されている。一方で、よりローカルなデータを観察し、現地調査を行うと、津波高は隣接する浦ごとに大きな違いがあることがわかる。災害の社会的要因の考察や災害文化、復興などを考えるうえで、自然的要因である浦々毎の津波高の違いは重要な要素と考えられるが、ほとんどの議論が津波高の最大値に着目した議論で、同一地域での津波高の地域差に着目した検討は不十分である。 本研究は、浦々での津波高の差異を、特徴的な海岸地形ごとに検討し、明治津波と比較することで、平成津波の特徴と自然科学的な意味について考察することを目的としている。 内閣大臣官房都市計画課(1934)に従い、湾の形状を 甲類1:直接外洋に向かえるV字湾 甲類2:直接外洋に向かえるU字湾 甲類3:直接外洋に面し海岸線の凹凸が少ない場合 乙類4:大湾の内にあるV字形の港湾 乙類5:大湾の内にあるU字形の港湾 乙類6:大湾の内にあり海岸線の凹凸が少ない場合 丙類7:細長くかつ比較的浅い湾 丁類8:海岸線が直線に近い場合 と分類し、すでに湾形分類がされていた地域において平成津波と明治津波の津波高を比較した。平成津波の津波高は東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ(2012)のデータを、明治津波の津波高を内閣大臣官房都市計画課(1934)のデータを用いている。その結果、1.明治津波では甲類で津波高が極めて高く、乙類は概して津波高が低い傾向にある。それに対して、平成津波では甲類と乙類でそれほど差が顕著ではない。その傾向は特に大船渡以南で顕著で、甲類と乙類で津波高に差が見られない。逆に釜石以北では甲類が乙類より大きい傾向がみられる。2.明治津波では湾形がV字湾である甲1類、乙4類が、U字湾である甲2類、乙5類や,凹凸の少ない湾形である甲3類や乙6類と比較して、津波高が湾奥で大きくなる傾向がある。しかし、平成津波ではV字湾がU字湾や凹凸の少ない湾と比較して大きいといった特徴が無く、むしろU字湾でしばしば25m以上の津波高を記録しており、遡上で湾奥が高くなる傾向は顕著ではない。3.全体では平成津波の方が明治津波より大きい傾向にある。久慈以北では明治津波の津波高が平成津波の津波高の二倍前後に達し、逆に気仙沼以南では明治津波の津波高は小さくなる。これは、明治三陸地震の震源が東北地方太平洋沖地震の震源より北にあるためと思われる。4.湾形ごとでは、甲類では北部で明治三陸津波の津波高が平成三陸津波の津波高の2倍強に達するほか、陸前高田の根岬、集でも2倍以上に達する。そのほかの釜石~気仙沼間でも0.5-1.5倍程度でやや明治三陸津波の方が大きい傾向がある。その一方で乙類は平成三陸津波の津波高が明治三陸津波のそれを大きく上回っており、釜石~気仙沼間で最大4倍程度に達し、明治三陸津波の津波高が小さくなる気仙沼以南では10倍を超える津波が来襲したことになる。 津波解析プログラムで津波の特徴と津波高の関係を計算すると、波長の長い津波は大きな湾の中まで津波高が大きいのに対し、波長の短い津波は大きな湾の中の津波高は小さい。このことから、明治三陸地震は短波長の津波を発生させる地震であったのに対し、東北地方太平洋沖地震は長波長の津波を発生させた地震であることがわかる。ただし、平成津波は、釜石以北では甲類の津波高が乙類より高いことから、長波長と短波長の津波の両方の特徴を併せ持つと考えられる。これは、釜石沖に施設されている海底ケーブル式の地震計システムによって長波長の津波とパルス状の津波が観測された(東京大学地震研究所HP)ことと調和する。大船渡以南の女川までの区間では甲類と乙類の津波高に差がないことから、この地域ではパルス状の津波が無かった可能性がある。これは中田ほか(2012)が推定する海底地震断層による変動地形が北部ではバルジを伴うのに対し、宮城県沖ではバルジを伴わない事を支持する。
  • 山田 浩久
    セッションID: 619
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     山形大学は,2011年12月15日,宮城教育大学,福島大学と共に,学長の共同声明という形で「災害復興学」を立ち上げた。本研究は,現地視察や住民との直接対話による災害復興学の実践過程を報告するものであり,講義を通して変化していった学生の思考や授業の進行に伴って発生した諸課題を指摘することを目的とする。 本研究で報告する講義は,2012年度後期開講の「地誌学」であり,現地調査の対象地域は宮城県東松島市である。当初は自由参加型の研修のような形式での実施も検討されたが,それでは学生のモチベーションを維持できないとの判断から,成績評価による単位取得を前提にした講義形式での実施となった。しかしながら,15コマという時間的制約と片道2時間の行程によって,現地学習は10,11,12月の計3回となり,実施日も講義のない土曜日に行うという変則的な時間割になった。また,現地学習の際には,山形県内のボランティア活動家の補助を受け,事前調査や現地協力者とのコンタクトを図った。 教室内で行う座学の講義12コマのうち8コマは,オリエンテーション,現地学習の事前講義(2コマ×3),第3回現地学習後のレポート作成指導にあてた(~12月)。本要旨作成時にはまだ講義は完結していないが,残り4コマは,年明け後,冬季休業中に作成したレポートをもとにグループ・ディスカッションを行い(3コマ),2月に報告会を行う予定である。 第1回現地学習(10月)の事前講義では,東松島市の位置や地形を地形図から確認し,市史や統計資料をもとに同市の地誌学的な概況を紹介した後,本学自然地理学担当教員が東日本大震災の発生メカニズムに関する講義を行った。さらに,ボランティア活動家から震災当時の被害状況や支援の実態を伝えてもらった。同現地学習は,東松島市内で最も大きな被害を蒙った大曲地区で行った。その目的は,学生達に津波被害の爪痕を実際に見てもらうことと,その中で海苔養殖の復興に携わる人々の声を聞いてもらうことであった。津波による惨状を見て言葉を失う学生もいたが,大半は前向きに頑張る海苔養殖業者の声を聞き,「逆に元気をもらった」という感想を帰路の車内で述べていた。また,基幹産業の復興のために打ち出された国の支援事業の効果に関心する学生も多かった。 第2回現地学習(11月)の目的の一つは,震災時に住民が活用したSNS(Social Network System)の有効性について知ることであった。そのため,事前講義では,Twitter等の短文投稿サービス(ミニブロク),ブログ,ホームページといった情報伝達手段の特性やその差異を紹介し,震災時,実際にそれらを併用して復旧作業に貢献した住民の話を聞く準備を行った。このような活動は,阪神大震災時にはなかったものであり,今回の取り組みにおいても,とくに取り上げたいテーマであったため,多くの時間をかけた。日常的にSNSを利用している学生達の反応も良く,現地学習では活発な質疑応答が行われた。同現地学習のもうひとつの目的は,仮設住宅に住む被災者の声を聞くことにあった。前回の現地学習において,前向きに活動する海苔養殖業者の話や効果的な産業復興策の内容を聞いてきた学生の中には,前に踏み出せない住民の声や遅々として進まない移転計画の内容を聞き,行政と住民,あるいは住民間のズレに気付く学生も出てきたことが印象的であった。 第3回現地学習(12月)は,JR仙石線の移設問題に揺れる野蒜地区で行った。事前講義では,同地区の状況を説明した後,学生を住民側と行政側に分け,ロール・プレイによる模擬討論を行った。主張の勝敗を決めるディベートではなく,互いの意見を聞きながら一つの意見に収束させていく流れで討論を進めていくと。個人的な希望が満載された住民側の主張が,最終的な目標に向かって論理的に説得しようとする行政側の主張に圧されてしまう結果になった。住民を演じた学生は主張しているにも関わらず,それを貫き通せない難しさを実感したようである。その上で,現地学習で実際に市から復興計画の内容を説明され,現地住民の声を聞くと,まさに同様な現象が生じていることが分かり,住民活動への参加や意見集約の重要性を指摘する学生が多くみられた。
  • 陸前高田市での震災体験の聞き取りを通じて
    熊谷 圭知, 中村 雪子, 小田 隆史
    セッションID: 620
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     東日本大震災の被災地支援にボランティアとして訪ねる学生は多い。被災地と何らかの形で関わりたい、支援したいという学生たちに、大学の授業を通じてその機会を与えるとともに、新たな学びの機会を創ろうというのが、2011年度、2012年度に実施したお茶の水女子大学グローバル文化学環の専門科目「地域研究実習」の趣旨である。そこにはどのような難しさと、成果・課題が存在するのかを考えることがこの報告の目的である。 地域研究実習Ⅲ(2012年度)においては、前年度から訪ねている陸前高田市の仮設住宅住民から震災体験の聴き取りを行った。これは同仮設住宅の自治会長からの依頼によるものであり、前年度から構築した信頼関係がその背景となっている。聴き取りは、グループあるいは個人のインフォーマル・インタビューという形で行ったが、重い体験を語り、聴くことの意味、そのデータの取り扱い方、報告書のまとめ方など、その過程で見えてきた様々な課題についても報告する。
  • 石巻市立鹿妻小学校の実践事例
    村山 良之, 佐藤 健, 桜井 愛子, 徳山 英理子
    セッションID: 621
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     本発表は,東日本大震災津波被災地にある石巻市立鹿妻小学校における防災・復興教育について報告するものである。

    鹿妻小学校と学区および津波被害の概要
     同校は,石巻市中心部の東方約4km,海岸線から約1kmの沖積低地上に位置する。周辺地域は,もともと複数列の浜堤上に集落と畑,堤間低地は水田であったが,1970年代以降急激に都市化して,1986年同校が開校した。学区内のほとんどは標高2m程度で,北側の丘陵地の裾でようやく標高5mに達する。
     学区は津波によって全面的に浸水し,鹿妻小で床上10cm程度浸水した。学区の南部(海側,海岸から約300~500m)では家屋の流出もあって授業時点で更地も多く存在するが,北側(内陸側)ほど被害が小さい傾向が明瞭である。
     鹿妻小は,2012年度は全ての学年で2学級ずつ,および特別支援2学級の規模である。

    目的等の設定
     担任の萩原先生,高野先生によれば,2011年度は津波や地震には触れないようにしていたとのことであった。先生方との相談の結果,本実践のテーマと目的,目標を以下のように設定した。
    「復興マップづくり」 児童ひとりひとりが東日本大震災の体験にきちんと向き合い,この経験を今後の人生の糧にできる
    ①自らおよび身近な地域の震災経験を整理する,②身近な地域の復興の様子を記録する,③地域の未来について考え,復興のプロセスに参加する,④自分が育った地域に誇りをもつ
     本実践およびこれに先立つ夏休みの宿題(家族へのインタビュー)について,教育臨床心理学者の奥野誠一山形大准教授から助言を得た。また,児童が自らの地域を肯定的に捉えられる取組にすることに,賛同を得られた。

    実践の概要
    ○学習者:鹿妻小学校4年生全児童(2クラス,全79人)
    ○実施体制(同小以外):石巻市教育委員会,セーブ・ザ・チルドレン ジャパン(桜井,徳山),東北大学(佐藤)・山形大学(村山)
    ○復興教育用の実践プログラム:東日本大震災以前から開発と実践に取り組んでいた事前予防型の防災教育用の実践プログラムを復興教育用にアレンジ
    ○大まかな実践の流れ:オリエンテーション,まち歩き(2時間×2回,被災度の異なる南部と北部を割り当て) ,まち歩きの振り返りを含む情報整理作業,復興マップづくり,成果発表
    ○実施時期:2012年8月下旬から学年末まで(発表を含む)
    ○学習時数:担任によるフォローアップ等を含め約20時間(総合的な学習の時間を充当)
    ○活動単位:クラスの生活班(6~8名,全12グループ) でまち歩きと復興マップづくりの際の担当エリアを分担
    ○まち歩きでチェックする場所やもの:住宅やお店、公園、街灯など
    ○まち歩きのチェックポイントの分類(着眼点):(ア)震災の前にはなかったもので震災の後に新しくできたもの,(イ)震災の前からあったもので被害を受けたがこれまでに直されたもの,(ウ)いま建設中,修理中のもの,(エ)復興準備中のところ(がれきがなくなって整理された「更地」は復興のスタート),(オ)危険や不安に思う場所やもの,(カ)その他、みんなが特に気付いた場所やもの(楽しい,きれい,自慢できる場所やもの)
    ○児童の感想(ふりかえりシートより),回答児童数76,自由記述を分類,複数カウント:工事をしているところが多かった・新しい建物ができていた・思ったより復興が進んでいる=15,ゴミや雑草の更地や空き地がたくさんあった=13,楽しかった=10,危険な場所が多くて/人が少なくて怖かった=9

     発表者らは,単なる危険探しでなく子どもたちが地域に誇りを持ち,今後の復興プロセスへの子どもたちの参加を促す設計を心がけた。さらに本実践について詳細に検討,評価し,またこれを広く紹介していきたい。
  • 岩手県山田町の在宅療養患者世帯の実態調査から
    菊池 春子
    セッションID: 622
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    1.研究の背景と目的2011年3月に発生した東日本大震災の津波被災地域では,地域の公立病院や介護老人保健施設などの医療・福祉施設が甚大な被害を受け,多くが未復旧の状況にある.さらに,住民の長期にわたる避難生活や仮設住宅入居などに伴う移動,社会環境の変化に伴い,高齢者らの健康状態や介護度の悪化の問題も指摘され,被災地における医療・福祉体制の復興の問題は,今後の地域の持続にかかわる重要なファクターになりつつある.特に,入院・入所施設が被災した地域では,療養ベッドの総数が減少し,従来であれば入院・入所対象となっていた患者らが,訪問診療・訪問介護などのサービスに頼りながら,在宅での療養を続けざるを得なくなっているケースも見込まれるため,復旧期を支える医療・福祉サービスのあり方の検討も求められる.本研究では,大規模災害にともなうローカルな医療・福祉体制の変化が被災地住民の生活に与えるインパクトを実証するとともに,その結果・知見から,災害復旧期に求められる医療・福祉サービスについて検討することを目的とした.また,今後,日本各地で発生が予測される大規模津波災害に対し,課題と教訓とを提示することも可能であると考える.2.対象地域と調査の方法そこで本研究では,東日本大震災の津波被災地の一つ,岩手県山田町を対象地域に,医療・福祉機能の被災状況と住民生活の変容を明らかにした.山田町では津波によって,入院機能を唯一有していた県立山田病院(60床)と老健施設(98床)が全壊するなどして,医療・福祉機能のうち入院・入所機能の双方が大きく低下し,現在も未復旧の状態にある.調査内容としては,2012年8~12月に県立山田病院の訪問診療を利用する在宅療養患者世帯64世帯を対象に,避難状況や介護度,医療・福祉サービスの利用状況や社会環境の変化などについて聞き取りを行い,58世帯から回答を得た.町内4カ所の医療機関,介護サービス26事業所(11社・法人)に対しても,被災・再建状況について調査した.3.調査結果調査の結果,58世帯のうち,居宅が被災し,避難生活を経て仮設住宅などに移った,津波浸水域の世帯(16世帯)では,10世帯で患者の介護度・健康状態の顕著な悪化がみられたほか,経済状況などの生活条件の変化が大きかった.介護度が著しく悪化した患者の中には,一次避難,二次避難など避難場所を8回以上移動したケースも見られた.医療・介護サービスの利用をめぐっては,浸水域・非浸水域ともに,入院・入所などの施設被災にともなうサービス利用の制約がみられた一方,訪問診療・訪問介護などの訪問型サービスの利用は震災後増加しており,訪問型サービスによって震災後の療養生活が維持されている傾向が明らかになった.しかし,訪問型サービスの事業所は半数近くが被災しており,サービスを再開・継続する上では,拠点確保やスタッフ減少などの面での問題を抱え,事業の持続性が不安定な状況にあることも示された.また,患者世帯・事業者双方の聞き取りから,介護者のレスパイトが困難となっている問題も示され,訪問型サービスのみの限界も見られた.さらに,仮設住宅入居などで居住地が分散し,従来の近隣同士の声掛けや相互扶助が減少するなど,在宅療養患者世帯を支えるインフォーマルな基盤も不安定化している状況もみられる.当日の発表では,これらの事例を整理し,在宅療養患者世帯の状況とサービス提供体制の双方から,復旧期に求められる医療・福祉サービスの基盤とその再構築の必要性についても論じたい.
  • 被災地再建研究グループによる研究
    磯田 弦, 庄子 元
    セッションID: 623
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    甚大な津波被害のあった南三陸町の仮設店舗におけるインタビュー調査にもとづき、商業者の復興にむけた意向と議論を報告する。
  • - 被災地再建研究グループによる研究 ‐
    庄子 元, 磯田 弦, 小金澤 孝昭
    セッションID: 624
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
     未曾有の被害をもたらした東日本大震災からおよそ2年が経過した現在、住居や産業施設などの本設が徐々に進み、本格的な復興に向かいつつある。このような中で本設の意向を整理し、復興のプランを検討することは喫緊の課題である。そこで本研究では仮設商店街における本設の意向を対象に考察を行った。対象である仮設商店街はマスメディアによって、観光客やボランティアによる賑わいが取り上げられている。しかし、仮設商店街を構成する商店の業種や規模などは様々であり、こうした店舗が一律に外部客の賑わいを享受しているとは考えがたい。そのため本研究は32の仮設商店に対し、被害状況、震災前後の経営状況、本設の意向についてヒアリング調査を行った。その結果から商店のタイプ分けし、調査者のロールプレイングによる本設のプランに対する検討を行った。
     震災以前における各仮設商店の客層は、全店舗において客層の80%以上が地元客であった。しかし震災後では地元客の割合が80%以上である店舗は1店舗のみであり、ボランティアや被災地観光といった外部客の割合が増加していた。これにともなって、売り上げに店舗間での格差が生じている。震災前と比較して、売り上げが増加したと回答した店舗は9店舗であり、これらの大部分は水産物や気仙沼の特産品を取り扱っている小売店や飲食店であった。一方で減少したと回答した12店舗は、理容店や八百屋、刃物屋といった地元客向けの店舗である。つまり、外部客の需要に対応できた店舗は売り上げを伸ばし、対応できなかった店舗では売り上げが減少している状況にある。
     そして本設に関して、多くの店舗で職住分離を希望していた。こうした中で、職住分離を不可と回答した3店舗は全て飲食店であり、不可である理由として、職住分離では通勤が必要なため、営業時間に支障をきたすと回答していた。次に本設後の店舗所有について、大規模経営の店舗は自己所有を望んでいた。これらの店舗は、いずれも本設に対する資金の目途がたっていることに加え、従業員数が多いために広い店舗面積が必要であることや、店独自の外観や店舗設計を求めているため自己所有を希望している。一方で経営主の高齢化が進み、かつ後継者がいない店舗では、いずれも資金の目途がたっておらず、経営の継続を不安視している。この結果、自己所有ではなく、共同建て替えや貸店舗を望んでいた。
     このような経営状況、本設の意向を踏まえて、大型店誘致、商店街再建、個別再建、共同建て替え、テナント入居の6プランについて、ロールプレイングによって商店タイプごとに対応可能であるか検討を行った。その結果、本設に対する意向が複雑化おり、この複雑化は震災以前からの経営状況、震災後の客層変化による経営変化に加えて、仮設商店街の運営に対する不満も原因となっていた。このように、本設の意向が様々であるため、多様な本設のプランを模索する必要がある。また、意向の複雑化を防ぐために、仮設商店街運営の見直しが必要となっている。
     なお、本研究は東北大学災害科学国際センター特定プロジェクト研究「津波被災地の商業機能モニタリング調査」(研究代表者:磯田弦)として行った。
  • -被災地再建研究グループによる研究-
    岩動 志乃夫
    セッションID: 625
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    宮古市田老地区は東日本大震災による地震と津波により甚大な被害を受け,田老スタンプ会に加盟する39会員中37会員の店舗も流出して全壊した。同会の会員により2011年5月15日に仮設テントによる共同店舗の運営が開始され,9月25日には22事業所が入居する共同仮設店舗が開店した。同施設は約400戸の仮設住宅が立地する敷地に隣接して軽量鉄骨2階建て3棟からなり,1棟に約49㎡の店舗スペースが8区画設置されている。業種は食品,飲食,理美容,学習塾,企業の事務所等から構成される。2012年8月に全事業所を対象にして聞き取り調査を実施し,開設の経緯,小売機能特性,仮設住宅居住者の利用特性,仕入れ形態の変化,直面する課題について明らかにした。
  • -マウエスの自然条件と農業的土地利用-
    山下 亜紀郎, 丸山 浩明
    セッションID: 701
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の目的と方法 本研究ではまず、大縮尺の官製地図が入手困難な地域として、ブラジル・アマゾンのマウエスを対象に、GIS・GPS・リモートセンシングデータを活用して、フィールドワークのためのベースマップを作製することを試みた。具体的には、ALOSデータから合成画像を作製し、それを用いた現地での聞取り調査によって、主な河川や支流の名称を記入した(図1)。また、SRTMデータから標高段彩図も作製した。 次に、マウエス郊外にある日系農場を対象に、現地踏査によって農場全体の土地利用図および母屋周辺の施設配置図を作製することを試みた。農場全体の現地踏査では、GPSとコンパスを携帯し、農地の角や牧柵の縁、独立樹などのところでウェイポイントを取得し、その周囲のどの方角に何があるのかをノートに記録していった。母屋周辺の現地踏査では、各建物の角や牧柵の縁・木戸、電柱などのところでウェイポイントを取得しながら、手書きの平面図を描いていった。そして、GIS上でウェイポイントデータを表示し、ノートに記録した情報や平面図を参照しながら、土地利用図と施設配置図を作製した。2.研究対象地域の概要 研究対象としたマウエスは、アマゾン川の中流域、ブラジルのアマゾナス州とパラ州の州境に位置する。アマゾナス州の州都マナウスからは、ハンモック船に揺られて約18時間のところにある(帰りはアマゾン川を遡上するので24時間かかる)。人口は52,236、人口密度は1.31人/km2である(2010年)。3.マウエス周辺地域の自然条件 熱帯に属するブラジル・アマゾンの1年は、降水量の多寡によって乾季と雨季に分けられ、河川の水位もそれによって大きく季節変動する。地形的には、現地でヴァルゼアと呼ばれる低地部(氾濫原)とテラフィルメと呼ばれる台地部に大別され、それぞれ異なる動植物相や水文・地質条件を有する。ヴァルゼアはさらに、年間通じて浸水している地域、雨季にのみ浸水する地域、雨季でも浸水しない地域に分けられ、多様な生態空間を形成している。マウエスの人々は、そのようなブラジル・アマゾンの多様な生態空間を季節によって巧みに利用しながら、日々の生業・生活を営んでいる。4.事例農場における土地利用 事例とした農場は、地形的にはテラフィルメにあたるププニャル河畔と、ヴァルゼアにあたるパラナウラリア河畔にそれぞれ位置し(図1)、肉牛の牧畜を中心とした農業が営まれている。雨季に浸水するヴァルゼアの農場では、乾季の間のみ牛を自然放牧し、雨季になるとテラフィルメの農場へ移動させている。年間通じて浸水しないテラフィルメの農場では、牛の放牧以外にも、焼畑によるガラナや自給用作物の栽培が行われている。
  • ファゼンダ・サンタ・セシリアにおける住民の生活様式
    丸山 浩明, 山下 亜紀郎
    セッションID: 702
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    本研究では,ブラジルアマゾナス州マウエス市から,さらに自動車とモーターボートを乗り継いで1時間ほどの奥地にある,マウエス・アス川支流のププニャル河畔に立地するファゼンダ・サンタ・セシリアを事例として,住民の生活様式の特徴を,おもに自然環境との関係に着目しつつ実証的に明らかにした。 本農場の生業複合は,昨年まで続けてきたインディオ集落への行商,テラフィルメとヴァルゼアの双方に所有する牧場(それぞれ約60ha)間での移牧による120頭の牛飼育,焼畑(3ha)での自給的農業(マンジョカ,バナナ,パイナップル,カライモなど),ガラナ栽培(1ha)である。 また,母屋の周辺には家庭菜園が作られており,おもに食用となる多様なヤシ類や果樹・野菜類,堅果類,薬や香辛料に利用されるさまざまな薬用植物が認められた。有用植物は家庭菜園だけでなく,牧場内でも伐採されずに残されている。さらに,きわめて多種類の野生動物が捕獲されて,住民の貴重なタンパク源になっている。
  • -その2-水質特性
    田瀬 則雄, 山中 勤, 林 久喜, 田村 憲司, 瀧澤 紗史, 小野寺 真一, 仁平 尊明, ヒラタ ヒカルド, サライバ フェルナンド, ...
    セッションID: 703
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     成長速度が著しく速いユーカリの植林が世界の多くの地域で行われ、ブラジルでは、南東部を中心に350万ha、国土の0.6%がすでにユーカリ林となっており、世界最大のユーカリ植林国となっている。ユーカリの木材資源としての有用性は高いが、環境への悪影響-水・栄養塩消費、多様性破壊、発生有害物質などが懸念され、オーストラリアなどの半乾燥地では弊害が出ているところもあるが、ブラジルではこれらの問題がほとんど顕在化していない (桜井、1996)。一方、ブラジル南東部はサトウキビの主要産地でもあり、農地での施肥による地下水の硝酸性窒素汚染が顕在化ししつあるとともに、近年強度の激しい降雨頻度が増加する傾向にともない畑地からの土壌侵食・流亡も深刻である。本研究は,ユーカリ林の環境・生態学的悪影響などが顕在化していない科学的根拠と影響発現の閾値(条件)を現地調査と文献で行いながら、ユーカリの特性を利用し、農地からの栄養塩溶脱による地下水汚染とサトウキビの大規模耕作による土壌侵食の防止などを、ユーカリ林の植林地の配置-土地利用連鎖系-、営農方法の最適化により構築することを目的としている。今回は地域の地下水・湧水・河川水の水質について報告する。 研究対象地域はサトウキビ畑とユーカリ林が隣接し,地下水面が浅いサンパウロ州のRio Claro市郊外(22°25'30.67"S,47°37'51.29"W)を選定した。調査地一帯は風成のシルト質砂層からなる標高500~600 mの波状の準平原で,Piracicabaでの年平均気温は21.4℃,年降水量は1279mmである。2012年については,降水量は平年並であったが,7~10月は降水量がほとんどなく,そのためその間の気温は高めであった.本サイトは上流側にサトウキビ畑が存在し,下流側にユーカリが植林され,その樹齢はおよそ5年(通常7年で伐採)、樹高は15m程度である。また,下流側に閉鎖性の池が存在している.両土地利用の境界を挟んで100m x 200mの範囲で,深度1~18mほどの地下水観測井網を設置し,地下水位,水質,表層土壌の理化学特性などを調査している。また,周辺地域で,湧水,井戸水,河川水なども採水・分析している。 サトウキビ畑が広がる周辺地域の地下水・湧水,河川水は溶存成分,栄養塩類が概して少なく,貧栄養の状態(土壌も交換性塩基などが少なく)で,水質は概して良好である.サトウキビ畑や一部のユーカリ林内では施肥と考えられる地下水中の硝酸性窒素濃度の上昇が認められたが,ユーカリ林や深層の地下水では硝酸性窒素濃度は低くかった。 観測網が整備でき,系統的な水質データが得られつつあり,ユーカリ林による窒素吸収実験なども計画しており,サトウキビ,ユーカリの間での水,栄養塩の動態を明らかにしたいと考えている(本発表は科学研究費補助金基盤研究 B [課題番号 23401003]の成果の一部である)
  • -その3- サンパウロ州におけるさとうきび生産の展開と課題
    仁平 尊明, 林 久喜, 田瀬 則雄, 小野寺 真一, 山中 勤, 田村 憲司, 瀧澤 紗史, シロタ ヒカルド, ヒラタ ヒカルド, サラ ...
    セッションID: 704
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     本研究は、持続的な土地利用連鎖系を解明するための研究の一環として、ブラジルにおけるさとうきび生産の課題を、サンパウロ州の事例から考察することを目的とする。 現地調査は、サンパウロ州のほぼ中央に位置するピラシカーバとその周辺地域で2011年と2012年に実施した。その結果、さとうきびの生産構造は、土地所有、栽培技術、生産者、政策などの要素において、複雑かつ合理的であることが分かった。今後も、機械化と生産単位の大規模化を軸として、さらなる合理化が進むと予想される。ブラジルのさとうきび生産には4世紀の歴史があり、連作障害は無いと考えられている。しかし、現在の経済性を追求した現在の生産構造には、地下水汚染や土壌侵食の懸念がある。使用される肥料の多くも、輸入に依存している。農業の持続的な発展のためには、ユーカリなどの林地を含めた複合的な土地利用の展開を目指して、内発的な取り組みが必要であると考えられる。
  • 白坂  蕃, 渡辺 悌二, 劉  潔, 宋  鳳, 宮原 育子
    セッションID: 705
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    ● 目的  世界のかなりの地域では厳しい気候条件の結果として、家畜飼養がたったひとつの合理的土地利用としてあらわれる。それにはさまざまな形態があり、定住して営む牧畜のひとつの形態が移牧transhumanceであると筆者らは定義する。 本稿では中央アジアのキルギス南部およびタジキスタン北部(パミール高原北部)における移牧をとりあげ、山地と人間との共生関係を考えたい。● 結果   厳しい気候条件のもとで営まれる家畜飼養には様々の形態があり、あるところでは定住した家畜飼養であり、あるところでは遊牧である。地球上には、山地の高度差を利用して、つまり低地と高地との気候の差異を利用した特色あるさまざまな営みがみられる。なかでも、移牧は低地と高地との気候の差異を利用した生業の代表である。 中央アジアのパミール高原北部は標高が高く、とくに厳しい自然環境のなかで牧畜にしか生業を見出しえない地域である。このパミール高原北部では、その主要家畜はヒツジ・ヤギ・乳牛・ウマであり、場所によってはヤクも飼育されている。 この地域は1920年代にソ連に組み込まれたが、それ以前の生業は遊牧であった。 ソ連時代になり、この地域の遊牧民はソホーズ に組み込まれて、定住を強制された。その結果、この地域の遊牧は定住して牧畜を営む「ある種の移牧」に変容した。 キルギス共和国南部のthe Alai Valleyはパミール高原の北部で3,200mの高地にあり、こんにち、そこでは、ほぼ水平に広く空間を利用する「ある種の移牧」がみられる。集落内に居住する人びとも、ある程度の家畜を所有しており、数家族から数十家族がまとまってヒツジ・ヤギを、冬季を除き毎日、周辺の山地に放牧すること(kezuu)もみられる。 一方、the Alai Valleyに接するタジキスタン北部のthe Kara-kul地域では、高低差を利用する、いわゆる正移牧ascending transhumanceが営まれている。 キルギス共和国もタジキスタン共和国も1991年にソ連の崩壊により独立したが、経済的貧困に直面している。本来であれば保護の対象とされるべき植物や動物という自然資源が消費されている。 このような自然資源の消費を阻止し、牧畜を生業として確立するための方策が求められている。
  • 旧「10月革命40周年記念」コルホーズを事例として
    渡邊 三津子, 中村 知子
    セッションID: 706
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    1. 目的
     中央ユーラシア乾燥・半乾燥地域の農業について考えるとき、旧ソビエト連邦(以下、ソ連)の果たした役割を軽視することはできない。特にカザフスタンにおいては、ソ連が押し進めた第一次産業の社会主義的近代化により、近代以前の長い時間をかけて個別地域の生態環境に応じて培われてきた生業の在り方はもちろん、それらと密接に関係していた人々の生活も根本から作りかえられていった。当該地域において、20世紀以降に顕在化してきた問題の中にはこうした生業の質的あるいは量的な変化に起因しているものも多い。その変化を個別具体的な事例に即して、いろいろな観点から明らかにしておくことは重要な意味を持つ。しかし、当該地域においてはソ連時代以降の地域のあゆみを多角的にみた研究例は決して多くない。
     発表者らは、カザフスタン共和国アルマトゥ州を対象に、コルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)を調査の基本単位として、ソ連時代の農業開発が当該地域の景観や人々の生活をどのように変化させてきたのかを、聞き取りやアーカイブ史料の分析、衛星データの解析などを通して明らかにしようとしてきた。本報告では、カザフスタン共和国アルマトゥ州パンフィロフ地区にある旧「10月革命40周年記念」コルホーズを対象として、農業開発を支えた労働力としての中国からの移民に焦点を当てる。
    2. 対象地域
     パンフィロフ地区は、天山山脈やジュンガル山脈など、氷河を戴く急峻な山地に囲まれたイリ盆地の中ほどに位置する。ソ連時代以前、この地域ではイリ河河畔の草地と山の上の草原を季節によって移動する牧畜が本地域のおもな生業であったが、ソ連時代以降、豊富な水資源と水はけのよい扇状地の上に灌漑農地が拓かれ、1950年代後半からは旧ソ連圏でも屈指の種トウモロコシの生産地となった。なかでも旧「10月革命40周年記念」コルホーズは、トウモロコシ採種業において優秀な成績を収め、カザフスタンのみならずソ連全土に名を知られたコルホーズである。
     ところでイリ盆地は、地形的にみるとひとつの閉じた空間をなしているが、地政学的には中国-カザフスタン国境によって二分されている。このため、特に近現代において、中国に属する東側地域とカザフスタンに属する西側地域とで、それぞれ異なった開発の道をたどってきた。とはいえ、両者が全く無関係であったわけではない。
    3.農業開発を支えた労働力としての移民
     カザフスタンの農業開発の初期においては、もともと人口密度が希薄な地域であったことに加え、戦争の後遺症による働き手の不足などが農業開発の足かせとなっていた。発表者らの聞き取りにおいても、人々が口をそろえて「戦後の男手の不足」に言及したことからも、同時の状況をうかがい知ることができよう。この状況を打開するためカザフスタンでは農業移民が奨励された。アルマトゥ州内の別の事例(現エンベクシ・カザフ地区の旧ソフホーズ「社会主義カザフスタン」)においても、ウクライナなどからの農業移民たちがワイン醸造を目的とした果樹栽培の担い手として大きな役割をはたしてきたことが明らかになっている。
     他地域の事例の多くが旧ソ連圏からの移民に負うところが多いのに対して、パンフィロフ地区のトウモロコシ採種業の場合には、1950年代の終わりから1960年代にかけて大量の移民が中国から流入し、その存在が労働力として大きな役割を担ったことが明らかとなってきた。
     本報告では、資料調査により新たに明らかになった旧「10月革命40周年記念」コルホーズにおける1960年代の移民に関する記録と聞き取り結果をもとに、農業開発を支えた人々の移動の状況について報告する。

     本研究は、総合地球環境学研究所・研究プロジェクト『民族/国家の交錯と生業変化を軸とした環境史の解明―中央ユーラシア半乾燥域の変遷(リーダー:窪田順平)』による成果の一部である。
  • パリ、グット・ドール地区を例に
    荒又 美陽
    セッションID: 707
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    1.社会的混合による都市計画事業 近年、フランスの住宅政策や都市政策においては、「社会的混合(mixité sociale)」という表現がしばしば用いられる。多様な人々が存在する状態を意味するdiversitéとは異なり、混ざり合った状況を物理的に作り出すという積極的な意味を含んでいる。大都市郊外の社会住宅が貧困化し、家賃収入の減少によって維持管理に支障をきたすようになったことから、この考え方に注目が集まるようになった。 社会的混合は、右派にも左派にも支持者がいる(寺尾2004)。右派から見れば、貧困層の集まる地区を解体すること、左派から見れば、富裕な地区に貧しい層を受け入れさせることを意味するからである。しかし、後者は進まず、前者のみが推進されてしまい、結局はジェントリフィケーションの口実となっているという批判もある(ドンズロ2012、Bacqué et al. 2006ほか)。 2001年以降、左派が政権を担うパリ市では、社会的混合政策が積極的に進められている。本報告では、特に移民の多い地区として知られるグット・ドール地区において、この政策による都市計画事業がもたらす影響を考察する。2.グット・ドール地区の歴史と現在 グット・ドール地区は、パリ北部の18区、観光地として名高いモンマルトルの丘を東に下ったところに位置している。パリ市に編入されたのは1860年のことだが、19世紀前半の鉄道建設事業に伴い、工場労働者の居住地として都市化が始まった。第二次大戦以降、北アフリカからの移民が多く居住するようになり、1980年代からはサハラ以南のアフリカからの移民も多くみられるようになった。 パリ市は、1980年代初頭から衛生状態の改善を理由にここで都市計画事業を始めた。当初はスクラップ・アンド・ビルド型の計画であったが、市民団体からすぐに反対運動が起き、行政は「フォーブール的な」地区の特性も考慮する形で都市計画を進めるようになった。とはいえ、警察署を建設し、地区の一部を文化施設やブティック街にするなど、移民が集まる地区を監視し、その実態を変化させようとする意図は各所にみられる。 左派政権になってからは、そこに「社会的混合」という趣旨が加わり、一つの建造物をすべて社会住宅にするのではなく、中間層をより積極的に受け入れる事業が始まった。現在、地区の景観的な変化は著しい。ワインショップやバー、オーガニック食品店など、それまでの住民生活にはかかわりの少なかった店舗も増え続けている。統計的にも、「カードル層」に区分されるもっとも収入の高い人々が急速に増えている。3.文化と宗教の区別による社会的混合 とはいえ、パリのジェントリフィケーションは都市全域で進んでおり、グット・ドールの都市計画事業による直接的な影響を測定するのは難しい(Barthélémy et al. 2007)。この地区においてより注意が必要なのは、行政が多様な人々の共生のために移民の宗教への介入を行っていることである。 2006年にパリ市によって開設されたイスラム文化協会は、地区の仮設建造物でイスラム圏の文化を紹介する活動を行っている。他方で、この地区でモスクに入りきれない人々が路上で祈りをささげることは、2011年9月に禁止された。パリ市はイスラム文化協会の恒久的な建造物を建設中であり、礼拝室も計画に含まれているが、文化的なもの(culturel)と宗教的なもの(cultuel)を区別し、公金で支援できるのは前者のみとしている。他方で、地区の生活に必要なのが後者であることは言うまでもない。 社会的混合が注目されるようになった背後には、貧困の問題だけではなく、宗教的・文化的相違が格差の解消を困難にしているという問題があった。グット・ドールの事業は、住民を懐柔しながら、差異を扱いやすく、そして見えなくしていく。社会的混合という一見ポジティヴな表現は、多様性をわかりやすく取り入れつつ、実態的には地区の特性を解消するレトリックといえる。
  • 高橋 昂輝
    セッションID: 708
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
    会議録・要旨集 フリー
    本発表の対象は,トロントのポルトガル人街である。当該地域の出現とその空間的移動,および質的変容の過程を明らかにすることが本発表の目的である。トロントにおけるポルトガル系移民の歴史は,1950年代以降に確認される。単身男性を中心とした初期のポルトガル系移民は,トロントに定着するとポルトガルから家族を呼び寄せた。これにより1960~70年代において,トロントのポルトガル系移民は急増する。同時期におけるポルトガル系移民急増の背景には,ポルトガル国内の政治情勢が大きく関係した。1930年代以降,ポルトガルではサラザールを中心とした独裁的政権体制が執られており,ポルトガル国民は貧困に窮していた。さらに,1961年アフリカ植民地において開戦された独立戦争は74年まで続き,ポルトガルの財政および国民生活を苦しめた。また,徴兵制度により,多くの若年男性は戦地に出兵することとなった。このようなポルトガル国内の政治的・社会的問題を背景とし,貧困からの脱出,サラザール政権への反発,出兵の回避を目的としてポルトガル人は国外への移住を選択した。1950年代および60年代において,ポルトガル系移民はケンジントンマーケットに集中して居住した。ケンジントンマーケットは,移民集団の最初の居住地として著名な地区であり,ポルトガル系移民の到着以前はユダヤ人,アイルランド人,イタリア人などが居住した。1960年代後半,ポルトガル系移民の居住地域は約2Km西方に位置するリトルポルトガル周辺に移動した。現在,同地区を中心とするトロント市中西部は,ポルトガル系人の集住地区である。リトルポルトガルは商業地区であり,ポルトガル系地区の核心部として位置づけられる。1960年代末以降,同地区にはポルトガル系経営者による商店が相次いで開業した。ポルトガル系人にとって居住,商業の中心地となったリトルポルトガルは,集団内外においてポルトガル人街として認識されていった。2003年において,トロント市からBIA(Business Improvement Area)の指定を受けると,同地区はリトルポルトガルと命名された。リトルポルトガルにおける経営者の過半数は,依然ポルトガル系人である。これらの商店では,従業員としてポルトガル系人が雇用される。このことは,顧客の大半が英語を十分に解さない,ポルトガル系一世であることを示す。移住最盛期から約50年が経過した現在,一世は高齢化しており,トロントのポルトガル系コミュニティは二世または三世へと世代交代しつつある。リトルポルトガル周辺には一世が集中する一方,二世以降は郊外に居住域を拡げる。また,近年ポルトガル系経営者による商店は減少し,新たに発生した空き店舗には非ポルトガル経営者が出店している。先述したBIAは官民一体の地域経済活性化事業であり,地元経営者・土地所有者の参画が求められる。有志の経営者らはBIA委員会を組織し,月次会議において活動内容を策定する。2003年の指定以来,ポルトガル系二世の経営者Rが,BIA委員会の代表を務めてきた。しかし,2012年において代表は非ポルトガル系経営者Kに交代した。BIA委員会の人選は,地域の発展の方向を左右する重要事項である。近年における非ポルトガル系経営者の進出,および域内における権力の掌握は,リトルポルトガルの性格を変容させる要因として捉えられる。
  • コンフリクトから観光資源へ
    大石 太郎
    セッションID: 709
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    英語とフランス語とを公用語とするカナダにおいて、フランス語を母語とする人々(以下、フランス語話者)はケベック州および隣接するオンタリオ州とニューブランズウィック州に集中している。そのため、一般にカナダ西部はフランス語と無縁という印象を持たれがちであるが、2011年センサスによると、マニトバ州で3.6%、サスカチュワン州で1.6%、アルバータ州で1.9%の人々がフランス語を母語としている(単一回答のみ)。また、歴史的にみても、毛皮交易の時代に内陸部に進出したフランス語話者と先住民とのあいだで混血がすすみ、メティス(メイティ)とよばれるようになるが、彼らはフランス語とカトリックを継承していた。そこで、1870年に州となったマニトバ州ではフランス語が英語と並ぶ公用語の地位を占めていた。その後、公立学校でのフランス語の使用が禁止されるようになり(マニトバ学校問題)、カナダ西部においてフランス語は急速に衰退していく。 カナダ西部のフランス語系コミュニティに関する従来の研究では、英語への言語シフトに焦点があてられてきた。しかし最近では、都市におけるフランス語話者の存在も注目されつつある(Gilbert 2010)。報告者も、英語圏の都市におけるフランス語話者による言語維持の要因をかつて検討した(Oishi 2003)。本報告では、現地調査に基づいて、おもにマニトバ州ウィニペグのフランス語系コミュニティであるサン・ボニファス(St. Boniface)を中心にカナダ西部のフランス語系コミュニティの最近の実態を、とくに観光や都市再生とのかかわりから検討する。現地調査は2011年9月および2012年8月に実施した。 現在ではマニトバ州の州都ウィニペグの一部となっているサン・ボニファスはレッド川の東岸に位置している。1818年にフランス系カトリックの宣教団により建設され、1840年代以降になると教育施設等が充実するようになり、早くからカナダ西部におけるフランス語系コミュニティの中心として発展した。一般に、ケベック州外のフランス語系コミュニティは隔絶地域に多く存在し、空間的隔絶が言語維持の主たる要因とされてきたが、サン・ボニファスは例外的に古くから都市的な地域に存在するフランス語系コミュニティである。1908年に市制施行され、長く独立した自治体であったが、1972年にレッド川対岸のウィニペグ市に編入されている。 サン・ボニファスでは、その長い歴史を反映して、宗教施設や旧市庁舎、あるいはフランス系カナダを代表する作家ガブリエル・ロワの生家などが重要な観光資源であり、整備がすすめられてきた。これらに加え、最近ではウィニペグ中心部と結ぶ橋から続くプロヴァンシェ大通り沿いにフランス語系ビジネスが集積し、散策を楽しめる魅力的な街づくりがすすんでいる。
  • 中国長春フィールド調査報告(1)
    小島 泰雄
    セッションID: 710
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    20年ほど前まで日本の地理教育では、中国の農業地域区分において東北地域は「大豆・こうりゃん地区」とされてきた。現在の地図帳では「おもにトウモロコシ」と表記されている。本報告の目的は、この農業における変化の過程と背景を考え、東北地域の構造的な変化の一端を明らかにすることである。加えて、単に農作物の転換としてだけでなく、そこに暮らす農民の意識レベルでの変化を、農民の語りを通して理解することをめざす。中国の穀倉地帯である東北地域における農業は、大豆・高粱からトウモロコシへと、20世紀の後半に大きな転換を経験した。この変化には農業技術の改良が関与しているが、農民の語りからは、東北農業のイメージでは後退しがちな自給的側面が、作物の選択に影響してきたことが見えてくる。このことは中国の農業が人口の関数としての側面を内包することを再確認させる。
  • 中国長春フィールド調査報告(2)
    柴田 陽一
    セッションID: 711
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    【はじめに】公共サービスの地理学は,公共サービスの地域差や公共施設の立地問題などを研究テーマとしている。こうしたテーマを追求する上で,小中学校は一つの研究対象となりうる。その理由は,小中学校は義務教育であるがゆえに,どこに居住する児童・生徒にとっても通いやすい地点に立地するのが望ましいにもかかわらず,実際は必ずしもそうなっていないからである。そこで,小中学校の最適立地地点はどこか,いかに通学区域を設定すべきかといった問題に関して,これまで多くの研究が行われてきた。なかでも児童・生徒の総通学距離の最小化が,これらの研究の焦点であった。/日本の法律をみると,「義務教育諸学校等の施設費の国庫負担等に関する法律施行令」(2007年改正)には,「通学距離が,小学校にあってはおおむね4km以内,中学校にあってはおおむね6km以内であること」とある。また,小中学校施設整備指針(2010年改正)には,児童・生徒が「疲労を感じない程度の通学距離を確保できることが望ましい」とある。しかし,都市部はさておき,児童・生徒数減少のため学校の統廃合が進んだ山間部では,上記の距離以上を通学する児童・生徒も少なくない。/では,1986年の義務教育法施行以降,義務教育(小学校6年と初級中学3年)の普及を急速に進めてきた中国(小学校就学率1965年=84.7,1980年=93.0,1990年=97.8,2000年=99.1,2010年=99.7%)において,小中学校の立地はいかに変化したのか,その立地は適正な通学距離を確保しるものなのか。本報告では,昨夏にフィールド調査を行った吉林省長春市近郊農村の事例を中心に,これらの問題を検討することを通じて,中国農村地域の特徴の一端を考察してみたい。【東湖鎮黒林子村におけるフィールド調査】フィールド調査は,2012年8月16-18, 21, 25日に,小島泰雄氏,中科院東北地理所の張柏氏・劉偉傑氏と共に実施した。黒林子村は,長春市の東に位置する九台市東湖鎮(長春市街地から約20km,戸籍人口3.2万人)の1行政村である(鎮全体の行政村は12)。村中心部は長春市街地から約10kmに過ぎず,近年,近郊農村化しつつある(野菜生産の開始,幹線道路沿いへの企業の立地)。村は8つの村民小組(隊,社とも)から構成され,2012年時点の人口は423戸・1,452人である(1990年=372戸・1378人,2000年=391戸・1418人)。/村委員会での聞き取りによると,現在の黒林子小学は全学で6班約40人であり,教職員と生徒の数はそれほど変わらない。1960年代に開校(市志→1964年)する前は,北東約2kmに位置する双頂子小学へ通学していた。中学校は村になく,現在も昔も10km強離れた鎮中心部の中学校(現在の東湖鎮中心学校,市志→1957年開校)へ通学しているという。また,農民(1932~1951年生まれの6人)への聞き取りからは,1940~60年代初頭は,村に小学校がなく別村に通学していたが,通学先は同じではない(双頂子,大頂山,大何屯など)といった情報が得られた。通学先に違いが生じた理由は,就学時期・個人的事情を除けば,各農民の居住する小組の村内における位置にあると考えられる。【長春市周辺における小中学校の立地変化】市志に基づき,長春市周辺における小学校の立地地点を調べると,(日本の基準であるが)学校から4km以上離れた地域は,周辺の農村地域でも多くないことが判る。中学校の立地地点をみても,ほとんどの地域は6km圏内に含まれている。ただ,市志のデータは1988年のものであることに注意が必要である。/というのも,1980年代半ば以降,政府は農村の小中学校の分布調整に着手し,多くの学校を統廃合する政策を実施してきた。2000年代に入ると,政策は「撤点併校」と呼ばれ,統廃合がさらに進められた。その結果,2000年から2010年の間に全国の農村小学校数は約半分に減少し,ある調査によると,平均通学距離は小学校で5.4km,中学校で18kmにもなり,多くの中途退学者を生み出す原因になっているという。そのため,現在の長春市周辺の小中学校の立地地点も,1980年代末とは異なる。【おわりに】中国政府は義務教育の完全普及を目指し,義務教育法を2006年に改正した。その中では,義務教育無償の原則や農村と都市の教育格差是正の方針が明確に打ち出されている。しかし,農村地域を小中学校の立地変化からみると,むしろ農村と都市の格差は広がっている。今後は,特定地域の小中学校の統廃合過程をより具体的に明らかにしたい。
  • ―中国長春フィールド報告 (3)―
    秋山 元秀
    セッションID: 712
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    満州国の首都であった新京(現在の長春)の都市景観の形成を、植民地時代の都市構造と都市計画から明らかにしようとする。現在の長春には、新京時代の都市構造や都市施設の痕跡をみることができるが、解放以後作られた一連の都市計画にも検討を加え、現在の長春の都市景観の変貌がどのように起こってきたのか、歴史地理的に明らかにしてみたい。
  • 中国長春フィールド調査報告(4)
    小野寺 淳
    セッションID: 713
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    Ⅰ はじめに 中国の都市の近年の変容を、グローバル化との関連で理解することを本研究の目的とする。グローバルシティとしてしばしば取り上げられる世界的な大都市や、その次によく俎上に載せられる香港、上海、北京といった中国の主要都市と比較して、長春のような地方中核都市についてはグローバル化の文脈で検討されることが少なかった。しかし、グローバリゼーションの本質として、その影響が大都市ばかりでなく地方都市へ、さらには農村地域にまで及んでいることを想定するならば、そのような検討は不可欠であろう。今回の発表では、統計データの分析や現地での聞き取り調査などの成果を用いつつ、長春の最近の変化をグローバル化の顕現ではないかとの仮説から考察する。Ⅱ 長春の概要 長春市は中国の東北地方のほぼ中央、長白山脈から東北平原へ遷移するところに位置し、吉林省の省都である。新中国の計画経済期においては自動車などの機械製造業や映画産業の集積地となり、大学や研究機関も数多く置かれた。国有企業を主体とする重工業地域であることから市場経済化の動きには立ち遅れ、「東北病」などと揶揄された東北地方であるが、2003年には国務院から東北振興政策が打ち出されている。長春市においては、国有企業の改革が行われ、日系企業を含む外資企業の投資も自動車関連を中心に進められている。すでに1990年代に設置されていた経済技術開発区やハイテク技術産業開発区の開発が近年さらに進行し、外延的な都市化が急速である。長春市の市街地の人口はおよそ329万人、面積は約394㎢に及んでいる(2010年)。Ⅲ 統計データの分析 都市のグローバル化の特徴的な現象として、グローバル経済の指令・仲介機能を体現する企業家・管理者・技術者などの新中間層あるいは上層のホワイトカラー層の増加が指摘され、他方、そうした諸機能を下支えする低賃金で不安定な雇用の増加と域外からの労働力の流入も指摘されている。長春市街地の近年の人口センサスデータ等を分析すると、製造業が比率を下げて商業・サービス業が比率を上げるという産業構造の変化が見られる中で、とりわけ高学歴者や専門技術職が増加しており、しかもそれらが特定の地区に集中する傾向を見せている。また、域外からの出稼ぎ労働者が多数と見られる流動人口も顕著に増加している。Ⅳ 社区居民委員会の状況 都市の行政機構の末端には社区居民委員会が組織され、それぞれの地区の状況に応じた行政が運営されている。例えば、旧来の市街地においては、高齢化が進む中で住宅の修理維持にも社区居民委員会が関与し、出稼ぎ労働者に対して空いた部屋を賃貸することが盛んに行われていた。自動車製造の国有企業が立地する地区では、住宅制度改革を通じてかつての単位住宅が従業員へ払い下げられた後、出稼ぎ労働者の流入もあり、社会階層や所得階層に対応した住宅小区ごとの格差が際立ちはじめている。ハイテク技術産業開発区では、高級住宅の開発や外資系企業の誘致が活発に進む中、一部にかつての農民が残っており、その集団資産を管理し経営することが引き続き行われていた。Ⅴ おわりに 長春の事例が中国においてどのように位置づけられるかは議論の余地があるが、そこには国有企業の改革、外資系企業の進出、市民の生活水準の向上、出稼ぎ農民の流入といった中国の都市に特徴的な諸現象が十分に観察される。それらのグローバル化との関連を具体的に考察していきたい。
  • 中国長春フィールド調査報告(5)
    柳井 雅也, 阿部 康久, 小野寺 淳
    セッションID: 714
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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    Ⅰ はじめに中国の長春市おける日系自動車会社及び同部品産業の立地展開と当地における事業活動について調査を行った。対象となる会社は10社、うち現地で面接調査(2012年8月17日~23日)を行った会社はトヨタ自動車、IHI,一汽光洋、ワイテックの4社(全体の40%)である。ここではトヨタ自動車(以後、トヨタ)の実態を報告し、発表では残りの会社の分析を含めて報告する。Ⅱ トヨタの長春市進出の経緯中国では、外資系自動車会社は2法人までしか合弁会社が作れない。このことが、トヨタはじめ外資系自動車の、中国における立地と事業活動に制限と工夫が求められているといる。トヨタが天津自動車夏利と組んで本格的に中国進出を果たしたのは1995年のことである。さらに、四川旅行車製造廠(成都:小型バス「コースター」生産)と合弁(2000年)で四川トヨタを設立した。ここで第一汽車(以後、一汽)に資本参加してもらい四川一汽トヨタ(SFTM)を設立し、トヨタはもう1社と組めるようになった。そこでトヨタは広州汽車(2006年)と組むことになった。このやり取りの中で、一汽の本拠地、長春に進出(2002年)が決まった。2003年に一汽が長春一汽豊越(一汽資本100%)を設立して技術指導とV6エンジンの生産を開始した。2004年には一汽豊田(長春)発動機を設立した。長春一汽豊越は2005年、SFTMの分工場(SFTM長春豊越)となり、ランドクルーザー生産(約3万台/年)を始めた。また、プリウスも少量ながら生産している。さらに、新工場(2012年)を建てカローラ(年間10万台予定)の生産を計画している。Ⅲ 部品調達一方、天津で一汽はトヨタと組んで天津自動車夏利に経営参画し、夏利天津一汽トヨタとして規模拡大を続けた。日系関連企業の集積も進んでいる。このため、部品(日本からの輸入も含めて)は、天津経由または大連港(一部)経由で長春に送られている。この物流コストを吸収するには、付加価値の高いV6エンジンやランドクルーザーの生産を行うしか選択肢がない。例えば、ランドクルーザーの物流に関して、名古屋港から部品をコンテナ船で大連港に運び、仮通関後に荷降ろしを行って、陸路または列車で長春に運ぶ。ここで本通関を行う。もし、完成車を輸入しようとすれば関税が25%かかる。そのため、CKD(Complete KnockDown)生産方式で行わざるを得ない。Ⅳ 長春工場の課題長春工場の課題として、①労務コストが高い、②労働者の質の確保、③物流コストが高い、④東北三省の下請工場が無いことと、仮にあっても品質保証が難しい。こと等があげられる。トヨタの長春生産はコスト高になっている。そのジレンマを解決するため、日系の自動車部品企業の集積を徐々に図り、今後は東北三省市場(1億3000万人をマーケット、寒冷地仕様)に発展の余地を見出そうとしている。
  • ―中国長春フィールド調査報告(6)―
    高橋 健太郎
    セッションID: 715
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/09/04
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     回族[Huizu]とは,中国の少数民族の一つで,その生活習慣や価値観はイスラームの強い影響を受けている。モスク(清真寺)は地域社会の核で,宗教活動のみならず日常生活全般で重要な役割を果たしている。本発表では,2012年8月のフィールドワークにもとづいて,長春市の回族地域社会の持続と変容を考察する。 長春市の回族人口は約4万人で,4つのモスクがある。そのうちの2つ,長通路モスク(1824年創建)と二道モスク(1946年創建)の周辺では,回族が集まって居住し明瞭な地域社会が存在した。しかし,2000年代の再開発により集合住宅が建設され,回族住民の分散と新住民の流入が進んでいる。回族のモスクの利用が減り,イスラーム信仰が薄れることにより,民族としての回族らしさもなくなってしまうのではないかと宗教知識人は懸念する。他方,人的交流や刊行物,インターネットなどを通して,他地域のムスリムとのネットワークが確認され,これは地域社会の持続と活性化に一定の役割を果たしていると考えられる。
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