地学雑誌
Online ISSN : 1884-0884
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90 巻, 2 号
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  • Taiji YAZAWA
    1981 年 90 巻 2 号 p. 51-53
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
  • シット ヴァルテル, 三上 岳彦
    1981 年 90 巻 2 号 p. 54-61
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    ノルデンショルドは, 1858年から1883年までの25年間に, 10回に及ぶ極地探険を成し遂げた。最初の2回のスピッツベルゲン調査探険は, 科学的極地探険の創始者オットー・トレルの指揮のもとに行なわれ, その後のスウェーデン極地探険の基礎を築いた。
    1868年の探険を機に, ノルデンショルドは世界的にその名を知られるようになつた。この探険では科学的にも大きな成果をあげたが, これによって彼はスウェーデン探険隊による北極点到達を雄信するようになった。1870年, 1872年の2回にわたり, グリーンランド・スピッツベルゲンへの短い調査の後, 1872年から1873年にかけて, スピッツベルゲン北岸に沿う冬季の探険に挑み, 初の北極氷床横断に成功した。
    この頃からノルデンショルドの関心は次第に北東航路へと向けられ, 1875年と1876年には小さな船でシベリア沿岸沿いにエニセイまで到達した。1878年6月, ノルデンショルドの一行を乗せたヴェガ号はスウェーデンを出航して, ユーラシア大陸周航の途についた。しかし, 2カ月後にはレナ河口付近で厚い氷に行く手を阻まれ, 翌年の7月まで越冬を余儀なくされた。解氷後わずか2日でベーリング海峡を通過したヴェガ号は, ここに初の北東航路周航に成功したのである。
    1883年, ノルデンショルドによる最後の極地探険がグリーンランドの西部を中心に行なわれた広大な氷床の旅で, 探険隊の一部は標高2, 000mの地点にまで到達した。彼自身が事前に確信していた内陸の無氷域は発見できなかったが, 数多くの地学的成果が得られた。
    ノルデンショルドの偉業が, その後のスウェーデンにおける極地研究に多大の貢献をなしたことは言うまでもないことである。
  • ホッペ グンナー, 岩田 修二
    1981 年 90 巻 2 号 p. 62-72
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    ヴァイクゼル氷期 (最終氷期) に広く氷床におおわれたスカンジナビアや北極海の島じまのなかに, 氷におおわれることからまぬがれた地域があったかどうかは, 生物学と地球科学における重要な問題になっている。この問題に加えて, 氷床の大きさと海面変化との関係, 過去の気候条件などの問題を解決するために, ストックホルム大学の自然地理学教室では, 過去25年間にわたって数多くの探険・調査をおこなってきた。
    氷河擦痕からみて, シェットランド島は, ヴァイクゼル氷期には東側から拡大してきた氷床 (スカンジナビア氷床) によって完全におおわれたことがあった。その後一時期, 島は, スカンジナビア氷床から分離した孤立アイスキャップにおおわれていた。
    スバールバード周辺では, 隆起汀線から知られた解氷後の地盤隆起と, 氷河の擦痕から, 次のような氷河の変遷があきらかになった。まず, 氷河が拡大し, それぞれの島ごとにアイスキャップをつくり, 次にそれらが合体して大きな氷床になった。最大拡張期には, バレンツ海に氷床の中心があった。その後, 氷河の拡大とは逆の変遷をへて氷河は現在の状態にまで縮小したヴァイクゼル氷期のアイスランドは, 小さなヌナタックをのぞいて, 大陸だなのへりまで氷床におおわれていたことがあきらかになった。
    これらをまとめると, ノルウェー海をとりまく地域では, ヴァイクゼル氷期には, 現在の海岸線までは確実に, おそらくは大陸だなのへりまで氷床におおわれていたといえる。しかし, バレンツ海の氷床の範囲はまだよくわかっておらず, 1980年におこなわれるイーメル80の調査に大きな期待がかけられている。
  • 木下 誠一
    1981 年 90 巻 2 号 p. 73-84
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    文部省科学研究費補助金による海外学術調査として “シベリア学術調査”(昭和47年), “永久凍土圏学術調査”(昭柏49年, 52年, 55年) が行なわれた。この調査は, 物理及び生物の両面からの総合調査で, その結果については昭和55年度のを除き, 既に報告がなされている1, 2, 3)。これらの調査で得られた知見のうち, 特にヤクーチヤ (シベリア), バロー (アラスカ), マッケンジーデルタ (カナダ) の永久凍土地域における典型的な永久凍土地形について, その若干を紹介しよう。
  • スウェーデンを例にして
    ホッペ グンナー, 岩田 修二
    1981 年 90 巻 2 号 p. 85-92
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    せまい地域から地球的規模までの自然の理解や環境悪化の監視のための重要な方法であるリモートセンシング技術の最近の発展はたいへんめざましい。この技術がもっとも有効に利用されているのは低緯度地域においてであるが, 高緯度地域においても有効な技術であることはいうまでもない。
    米・ソの二大国が主導的な位置をしめるリモートセンシングの技術開発のなかにあって, スウェーデンは, ハッセルブラッドのカメラシステムとAGA赤外テレビシステムの開発という2つの重要な貢献をしている。
    スウェーデンにおける空中写真の利用は80年前に始まり, 氷河調査, 地形図・土地利用図の作製, 森林管理, 地形・地質の調査などに役立つてきた。空中写真利用の最近の興味深い例には, 北西スウェーデン山岳地域の開発計画のための組織的な空中写真判読作業や, 赤外カラー写真を利用した沿岸地域における海底地形図の作製, 森林帯における樹木の活性度の判定がある。空中写真の情報を数値化する試みも古くからおこなわれ, いくつかの映像読みとりシステムが開発された。また, 可視光と近赤外以外の波長域をカバーする装置も開発された。1973年には, リモートセンシング5力年計画として以下のものがとりあげられた。各種のセンサーを用いる全天候型のオイルもれ検知システム, 各国との協力で多様な方法を用いる海氷探知計画, マルチスペクトルスキャナーを用いた完全自動植生図化作業, レーザーを用いたばい煙検知システム。
    スウェーデンは人工衛星によるリモートセンシングにも古くから関心をもっていた。気象衛星の利用, ランドサットの映像の地質調査への応用などに始まって, 最近ではマルチスペクトルデーターを森林管理のために利用するためのコンピューターシステムが開発された。さらに, 土地利用地図のための自動図化装置の開発, バルチック海の生態系の解明のための技術開発などがおこなわれている。最近の重要な前進は, スウェーデン北部に衛星受信基地の建設が決定されたことである。あらたに始まろうとしている第二次5力年計画では, 将来打ちあげられる人工衛星からの情報の高度な利用が計画されている。なかでも, 1984年にフランスから打ちあげられる予定の衛星に対しては, スウェーデンも費用を負担しており, 高度な利用が期待されている。
  • シット ヴァルテル, 徳永 英二
    1981 年 90 巻 2 号 p. 93-102
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    スウェーデンでは, 100年前になされたA. E. ノルデンショルドによるユーラシア周航という地理学上の偉業を祝福すべく, イーメル80という名で, 北極探険が計画されている。調査には, 砕氷船イーメル (全長100m, 22, 000馬力) のほか, ノールウェイ極地研究所の調査船, ヘリコプター2機等が参加する。イーメルの航行ルートは地図に示すとおりである。調査は陸上でも行われる。本計画の前に, イーメル79と称して, 主としてシベリアの海岸に平行に航行する1979年実施の計画が立てられたが, ソ連の協力が得られなかったこともあり中止となった。しかし, 科学的な価値は本計画の方がむしろ上である。この探険での研究の対象は多岐にわたる。気象学の部門では, 大気中の汚染物質 (気体, エーロゾル, 放射性同位元素等) や流氷と接する気層の夏期の冷却およびそれに関係する層雲や霧の発生などについての調査が行われる。海洋学の部門では, まずは, 北極海をめぐる水の交換とその気候への影響, 海水の動き, さらには海洋汚染などを究明すべく, 海洋物理学と海洋化学の立場からの調査が行われる。本探険での生物学上の中心的プログラムの一つは, 北極海における種の進化である。生物学者は, 地質学者の協力を得て, 温暖な第三紀初期から第四紀の氷期にかけて, 環境と時間と種の進化の関係について考察する。さらに, 厚い氷におおわれた地域での海洋生物や環境破壊の実態を究明すべく, 数多くの生物の標本を集める。また, 生物学の魅力的な分野の一つとして, 北極熊の生態の調査も行われる。地理学者, 氷河学者は, コングカールスランドでの更新世および現世の氷河作用について研究することになろう。接地逆転と氷河の消長の関係についても研究がなされる。地球的規模での気候変化の研究がさらに前進するためには, ヨーロッパ北極での氷床の可能なつながりを知る必要がある。バレンツ海では, 海底堆積物のコアが採取される。さらに何人かの海洋地質学者と地球物理学者は, 大陸斜面と深海底の堆積物に関する問題に取り組む。15~20mのコアが回収されることが望まれる。少なくとも数百万年前までの堆積物を調べられることが必要である。このような堆積物は, 気候変化と更新世の氷床の広がりを反映するであろう。さらには, 大陸移動や火山活動の歴史も研究されることになろう。
  • 吉田 栄夫
    1981 年 90 巻 2 号 p. 103-111
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    In the austral summer of 1911-1912, Lieutenant Shirase organized the first Japanese Antarctic Expedition and explored the eastern part of Ross Ice Shelf and a part of Edward VII Peninsula. After that, only a few bibliographical studies were conducted by some scholars and people who are interested in polar expeditions. Japan resumed its Antarctic activity on the occasion of the International Geophysical Year in 1957-1958. Since then, multi-disciplinary scientific investigations have been continued within the framework of international cooperation.
    The progress of the earth science research in the Japanese Antarctic Research Expedition can be devided chronologically into four stages. In the first stage from 1957 to 1968, the research in earth science provided fundamental knowledge on the environment of the vast region around the Japanese Scientific Station ‘Syowa’ in Liitzow-Holm Bay, East Antarctica, through extensive studies conducted by oversnow traverses and field surveys in ice-free areas. General geology and geomorphology of the eastern Lutzow-Holm Bay area and the inland Yamato Mountains, surface features of the ice sheet from Syowa to South Pole, and some ice thickness profiles by seismic shooting gradually came to our knowledge through this stage.
    During the second stage in 1969-1975, the research programme became rather intensive, based on a systematic planning. The main research project was the Glaciological Research Programme in Mizuho Plateau. Glaciological oversnow traverses were carried out for the studies of mass budget in a local drainage basin of the ice sheet and the ice sheet dynamics. The drilling of the ice sheet was also conducted at the inland Mizuho Station. In addition, geological, geomorphological and geochemical studies were also made on a smaller scale. The finding of the “Yamato Meteorites” was one of the main results.
    In the third stage in 1976/1978, the main programme of the expedition was the upper atmosphere physics during the International Magnetospheric Studies. Therefore, earth science studies were done on a smaller scale, as a sort of supplementary investigation.
    In 1979, research activities entered into the fourth stage. The glaciology programme were combined together for the study of interaction in heat and mass transfer among the ice sheet, the atmosphere, and the surrounding ocean, in the international POLEX SOUTH programme. The earth science programmes, as one of the two major projects in this period, cover the integrated investigation of geology, solid earth geophysics, and marine geology and geomorphology.
    On the other hand, the research in South Victoria Land has been continued by Japanese parties since 1963/1964, with logistic support by the United States and New Zealand. The geochemistry had been the main research field, culminated in the international Dry Valley Drilling Project from 1973 to 1975. From 1976/1977 to 1978/1979 austral summer, a search for Antarctic meteorites became the main theme as the U.S.-Japan joint project, which terminated in successful results.
  • ビルンド エリック, 岩田 修二
    1981 年 90 巻 2 号 p. 112-121
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    フィンランド・ノルウエー・スウェーデンの北部に35, 000人ほどいるラップ人のうち, 山地の森林限界以上に居住する山地ラップ人と, 低地の森林に居住する森林ラップ人とは, 暮らし方がかなりちがっている。森林ラップ人の生活は古い時代のラップ人の生活様式を色濃く残している。ごく最近まで, 森林ラップ人は狩猟や漁労 (これらはラップ人の古い生業形態である) を生業にしていた。トナカイの飼育を始めたのは最近で, 飼っている頭数も少なく, 移動範囲もせまい。山地ラップ人が牧畜を始めたのもそれほど古いことではなく, 16-17世紀である。そして, およそ100年前には完全に牧畜(移牧)だけに依存するようになった。夏には高山地域へ, 冬には森林地域へ移動し, 春と秋は亜高山帯で過す。移動距離は数100kmにも達している。山地ラツプ人の生活基盤は牧畜業にあると考えられがちであるが, 現在では牧畜だけで生活しているラップ人の数はたいへん少数になった。スウェーデンの場合, ラップ人口のうちの7%ないし25%にすぎない。
    17世紀後半には, ラップランドにはラップ人だけが居住していた。そこへ, 南からの移住農民が侵入するにつれて, いろいろの問題がおこり始めた。これに対する政府の立場は, スウェーデンの場合, 土地は広大であり, 移住農民と牧畜ラップ人とは生活の場が異なるから摩擦は起きないであろうというものであった。しかし, 現実には多くの問題が起き, ラップ人はいつも不利益をこうむってきた。政府が長年ラップ人を保護し, 生活水準・教育水準を高めてきたとはいうものの, 少数民族であることと, 牧畜という不安定な生業に依存していることとのために問題の根本解決はなされていない。ラップランドからの人口流出が20世紀半ばから始まったことによって, ラップ人がラップランドとその周辺でスウェーデン人に雇用される機会が減った。いっぽう, ラップ人に対する人種偏見は減り, ラップ人がスウェーデン社会にとけこみやすくなった。しかし, これがラップの固有文化の崩壊をはやめることになった。現在では都市で生活しているラップ人も多い。
  • 北海道の先アイヌ文化
    藤本 強
    1981 年 90 巻 2 号 p. 122-136
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    The Satsumon culture was in existence in Hokkaido from 9th to 13th century A.D. as a Pre-Ainu culture of Hokkaido. The Satsumon culture succeeded the Post-Jomon culture. The Satsumon culture was formed on the basic cultural elements of the Post-Jomon culture. Some cultural elements from Japanese culture of that time were added to them. The basic cultural elements of the Post-Jomon culture had their roots in late or the latest Jomon culture in northern Japan. So, the Satsumon culture can be regarded as one of the direct descendants of the late or the latest Jomon culture in the northern Japan.
    About two thousands years ago, rice cultivation began in Japan. At first, rice cultivation was practised in southwestern Japan and it gradually expanded to the east. Finally, it reached the southern Tohoku district, but it could not penetrate into northern Tohoku and Hokkaido. In the northern Tohoku and Hokkaido, people lived on fishing, gathering and hunting as was the case in the previous Jomon period. After the introduction of rice cultivation, the livelihood of people in Japan was separated into two different ways. In most parts of Japan, in southern Japan, people depended on rice cultivation and in the northern extremity of Japan, people lived on fishing, gathering and hunting.
  • 饗場 徳衛
    1981 年 90 巻 2 号 p. 137-139
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
  • ビルンド エリック, 中村 和郎
    1981 年 90 巻 2 号 p. 140-145
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/11/18
    ジャーナル フリー
    ラップ人の文化は, 伝統的な遊牧と16世紀以降に始まったトナカイ飼育とによって特徴づけられる。海岸と高山の間の長距離を移動するトナカイ飼育は18世紀にはラップ人の強い経済的基盤をなし, 装飾や銀製品などに芸術的作品を産み出すにいたっている。
    トナカイ飼育には季節性があり, 中には季節的に道路工事・林業・鉱業に従事するラップ人もいる。夏から初冬にかけて, トナカイは山地で放牧されるが, 冬には針葉樹林に移動する。移動の前にトナカイを駆り集め, 耳に目印をつけて小群に分つ時期が最も忙しい。最近では家畜の管理を牧夫に任せて, 冬の集落に留まる家族が多くなった。
    雪が軟らかいときは, トナカイが地表の苔類を掘り出すのに支障がないから, 牧夫の仕事も楽であるが, 雪が多いときには雪の少ない土地を求めて移動しなければならない。雪が凍結すると餓死するトナカイが少なくない。ラップ人が屡々運命論的人生観をもつ所以である。
    ラップ人は, このように戸外活動が多いところから, 自然を表現する語彙が豊富である。たとえば, 山に関する語や, 雪に関する語がすこぶる多い。
    ラップ人はつい最近まで文字で書かれた文学を持っていなかったが, 口伝を文学に含めるとユニークな特色をもっているということができる。yoiksはラップ人の生活のあらゆる面を感情を込めて歌い上げたものである。
    日用品と銀製品のデザインや装飾に, ラップ人の芸術的才能がうかがわれる。日用品は身近にある材料を用いて作られるが, 巧みさに目を見張らせるものがある。トナカイの角製品やししゅうにも優れたものがある。
    16世紀に制定された教会法によって, ラップ人は毎年何回かは教会へ行くことが義務づけられた。遠隔地から行くラップ人のために, 教会の近くには宿泊所もでき, スウェーデン内に多数の教会町ができたが, 現在は10余りにすぎない。今でもラップ人は色とりどりの晴着を着て教会を訪れ, この町で買物をする。
    ラップ文化はどこから来たのか。確かにこの地方の環境や, 彼らの生活様式が文化を特徴ずけているとはいえ, スカンジナビア北部に分布するようになったのは比較的新しい。移動生活の間に, ノルディックその他との接触も考えられるし, 遙か東方の文化との関連の可能性も否定できない。
  • 1981 年 90 巻 2 号 p. 152-155
    発行日: 1981/04/25
    公開日: 2010/12/22
    ジャーナル フリー
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