人文地理
Online ISSN : 1883-4086
Print ISSN : 0018-7216
ISSN-L : 0018-7216
68 巻, 1 号
選択された号の論文の8件中1~8を表示しています
論説
  • 三浦 尚子
    2016 年 68 巻 1 号 p. 1-21
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー

    本稿は,障害者自立支援法施行に伴って制度化された東京都の通過型グループホームが,精神障害者の地域ケアにおいて果たす役割について,R 自治体内における通過型グループホームの事業者および入居者に対する質的調査に基づき,「ケア空間」「あいだの空間」という分析概念を用いて検討した。その結果,以下の知見が得られた。通過型グループホームの入居者は,精神科病院の退院条件であるか,家族との関係が悪い場合が多く居住地を選べない,ほかに生活環境を転換する術をもたないことを入居の理由としており,必ずしも本意に基づく選択ではないことが明らかとなった。しかし入所後,入居者は施設内に設置された交流室にて,職員や他入居者との間で無条件の肯定的配慮や共感的理解の態度で形成される「ケア空間」を通して,新たな主体性を出現させて自尊を獲得し,生への希望を見出していた。事業者は通過型グループホームを「あいだの空間」と位置づけ,単身生活への移行を障害者の自立とみなす国や行政機関の見解に即してその役割に肯定的であったが,入居者にとっては別の希望の空間へと向かうために重要な物理的・社会的な空間であるといえる。

  • 森川 洋
    2016 年 68 巻 1 号 p. 22-43
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー

    本稿は人口移動の分析によって日本の都市システムを考察し,その結果に基づいて,地方圏の活性化を目的とする連携中枢都市圏構想や定住自立圏構想の問題点について検討したものである。人口の最大(総および純)移動先からみると,日本では東京特別区,広域中心都市,県内中心都市(県庁都市),中小都市からなる階層構造がみられ,1980年に比べて大阪市の著しい衰退により,大阪市や名古屋市は広域中心都市に近づいているようにみえる。大都市圏内や都市密集地域では県内中心都市は階層的に特異な位置となる。隣接の広域中心都市間では緊密な人口移動があり,改良プレッド型構造がクリスタラー型階層構造の下に隠れた存在として認められる。こうした都市システムのなかで,周辺から人口を吸引して東京へ大量の人口を供給する「吸水ポンプの役割」を果たすのは広域中心都市や県内中心都市である。したがって,連携中枢都市圏の61の中心都市の振興は「人口のダム」形成には役立つだろうが,中小都市や農村的町村からの人口吸引を強めてその衰退を助長する可能性が高いので,中心性をもった中小都市の振興が望まれる。

研究ノート
  • 荒木 一視
    2016 年 68 巻 1 号 p. 44-65
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー

    戦間期の日本とその植民地の食料供給がどのようにして支えられたのかという問題意識から,朝鮮に仕向けられた大量の満洲粟に着目し,当時の東アジアの食料貿易の一端を明らかにした。具体的には朝鮮・満洲間の主要貿易港である新義州税関の資料を用い,食料貿易の地理的パターンを描き出した。その結果,魚類や果実類,米,大豆と比べて粟が特徴的なパターンを有していることが明らかになった。すなわち,前者が主要な産地から主要な消費地である大都市に向けて仕出されるのに対し,後者は朝鮮各地に少量が仕向けられ,農村の需要に対応したものと考えられる。仕出地,仕向地の地域的な検討からは,日本の影響の強い満洲南部からの仕出,従来から粟の卓越する朝鮮北部向けの仕向という性格が認められた。特に朝鮮北部の仕向の多い地域は,当該期間に米の生産を伸ばした地域でもあり,春窮農家の相対的に少ない地域でもあった。以上から,戦間期に目指された植民地を含めた帝国の領域内での食料自給体制は,決して完全なものではなかったといえる。米に限れば自給体制は整えられたが,それを支える米以外の穀物自給は決して域内で完結していなかったのである。それは米以外の多くの穀物を海外に依存する今日の日本の穀物供給体制を考える上でも,重要な示唆に富む。

フォーカス
  • 井田 仁康
    2016 年 68 巻 1 号 p. 66-78
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー

    高等学校地理歴史科において,地理が必履修科目となろうとしている。高等学校での地理の必履修化は,多くの地理関係者の悲願であった。本稿の目的は,高等学校地理必修化までの過程と現在の審議の動向を示し,地理の必履修の可能性を探ることである。小学校から高等学校までの地理学習は,人間形成および国際社会の理解,生涯教育,キャリア教育といった観点からも極めて重要である。現在は,文部科学省で高等学校の地理必履修化が前向きに検討されているが,これが実現されれば,小学校から高等学校までの地理カリキュラムが整理および再構造化され,一貫性のある地理教育が可能となる。高校地理の必履修化の可能性は高いと思われるが,他方で,その実現に向けては,今後とも多くの地理関係者が協力していかなければならない。さらには必履修化された後にも,地理を永続的に維持していくためには,より一層の協力体制が必要不可欠となる。

  • 川村 博忠
    2016 年 68 巻 1 号 p. 79-93
    発行日: 2016年
    公開日: 2018/01/31
    ジャーナル フリー

    江戸幕府は慣例的に全国から集めた国絵図に基づいて日本総図を集成していた。国土の地図づくりが制度の存立や機能と関って国家権力により組織的に遂行されていた。だが従来研究不十分のまま,幕府が編纂した日本総図は最後の伊能図を除くと慶長・正保・元禄・享保の4回であるとみなされてきた。だが,近年の研究によりとくに江戸初期において,慶長図の編纂はなく,寛永期の2度の編纂など,従来の通説を大きく改める成果を生むに至った。幕府編纂の日本総図は順を追うと,最初は寛永10年,同15年,正保初回,正保再製,元禄,享保とつづき,最後は文政の伊能図にいたる全部で7回に及んでいた。伊能図は国絵図に基づく集成ではなく,成立経緯が他とは異なることから本稿では除外している。しかるに,江戸幕府の日本総図は時々の政治や社会情勢を背景にして図示・内容に違いはでているが,全国の国絵図をいかに接合するかの技術面でも各期工夫があった。寛永期には巡見使が持ち寄った国絵図には各国,寸法や様式にばらつきがあったので,それをおおよそ統一した二次的写本が作られた。正保に至り,初めて国絵図の全国的な縮尺の統一があって日本総図の編集作業は大きく進展した。元禄の国境縁絵図の厳密な突合せはかえって人為的な妥協を生んだ。八代将軍吉宗は,数学者を登用して遠望術(望視交会法)による国絵図接合を果たすなど,国絵図接合技術の進展過程を明らかにしている。

書評
学会情報
feedback
Top