本稿は,神戸市の湊川公園の変容過程を事例とし,米騒動後における「市民」形成によって,いかなる都市空間が形成されたのかを明らかにした。米騒動と労働争議を契機に,都市行政は,湊川公園に公設市場や職業紹介所といった施設を設置した。都市行政は,「貧民窟」や労働者地区,歓楽街と近接するがゆえに,湊川公園にこのような整備を施した。さらに音楽堂と児童遊園地が設置されたことで,湊川公園は,諸階層を「市民」へと教化する空間に変容した。このように「市民」が湊川公園の利用者として想定される一方で,不況により公園内には数多くの野宿者が姿を現していた。はじめ都市行政は野宿者を救済の対象として認識した。しかし,「市民」を想定した公園の整備が進展し,昭和天皇の即位を祝う記念事業が開催されたことで,野宿者は排除や抑圧の対象に位置づけられた。湊川公園が私生活を積極的に管理する「勤勉」な「市民」によって利用される公園に変容する過程で,野宿者はこの規範から逸脱する「怠惰」な主体として捉えられた。こうして米騒動後の湊川公園は,「市民」への主体化の成否によって,諸階層が選別される空間へと変容した。
カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー島西海岸のポートアルバーニは,アルバーニ入江というフィヨルドの湾奥に立地する都市である。当地には,その特異な地形的環境に起因する津波被害の記録がいくつか残っている。比較的新しいものでは,1964年3月27日にアラスカで発生した聖金曜日地震(Good Friday Earthquake, M9.2)で2度の津波に襲われて被害を受け,2018年1月23日のアラスカ湾地震(Gulf of Alaska Earthquake, M7.9)では夜間に津波警報システムが作動し,暗い市街地で市民が避難する出来事があった。本稿ではポートアルバーニの地震および津波防災対策にみられる特徴を明らかにする。日本の三陸地域のように大規模な防潮堤を設置しない当地では,防災知識や避難路の周知が図られているものの,とくに避難路に関しては,津波避難路や津波浸水区域が現地では明示されていないこと,海抜標高の表示が津波避難路沿いで皆無に等しいこと,歩道に段差が残存していることなど,いくつかの改善すべき課題が残っている。