日本地理学会発表要旨集
2003年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の180件中101~150を表示しています
  • 塚本 礼仁
    p. 111
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1 問題の所在 周知の通り,世界最大のウナギ・マーケットである日本において,その消費量の大部分は中国産・台湾産を主軸とする輸入ウナギによってまかなわれている.ウナギがセーフガード発動の予備調査品目とされたことからも分かるように,国内の養殖ウナギ産地(以下,養鰻産地)の動揺は著しく,業界内でも産地システムの改編が要請されてきた.こうした状況下でも成長をみせてきた養鰻産地の例として鹿児島県大隅地区を選定し(図1),水産養殖業地域の持続的発展のしくみという一般的課題(Ito(2001)のいう産地システムの自律性・安定度・回復力)に関する知見を得ることが,本研究の目的である.具体的には,(1)事例産地で開発され普及した養殖技術の普及過程の復元,(2)個別経営調査にもとづく事例産地のウナギ量産力の評価,(3)ウナギ産業関連部門の集積からみた産地組織の分析により,上述の課題への接近を図る.2 大隅式養鰻の普及プロセス 農業地域については,産地リーダーに着目した研究(堤,1995)や,産地における新しい技術の普及に着目した研究(林,1994)が蓄積されてきた.しかし,このような観点から水産養殖業地域を捉えた研究は,井村(1989)の他には進んでいない.事例産地では,進取的な産地リーダーが存在し,それをもとに他産地に類をみない資本多投型かつ集約的な生産方式を採用する生産者グループが結成されている.ここでは,その生産者グループの結成プロセスを復元していく.3 個別経営にみる事例産地のウナギ量産力 2で述べたように,事例産地では資本多投型で集約的な養鰻経営が多くみられるが,それはウナギ(活鰻)量産力の基礎をなすものである.個別経営レベルで確認される高位平準化した養殖技術は,1経営体当たりの販売金額や施設面積に反映されている(表1).それによって,新興産地である事例産地は,短期間で国内最大産地・愛知県一色地区と肩を並べる大産地に成長した.4 ウナギ産業関連部門の集積 事例産地のもうひとつの特徴は,国内有数のウナギ生産地であり,なおかつ,国内有数の加工ウナギ生産地であることである.これは,他産地に比べ大規模な加工場が事例産地内に集積したことで実現されたといえ,また,加工原料となるウナギ量産力を支えるものとして,産地問屋や飼料会社の集積も見逃せない.これに対し,前述の愛知県一色地区は産地加工の面で,加えて,国内随一のブランドをもつ静岡県浜名湖周辺地区はウナギ量産力の面で弱点をもち,その両側面を満たした産地ではない.5 まとめ 本研究で明らかとなった事例産地の発展のしくみからは,水産養殖業地域の持続的発展に関わる要素を導き出すことができる.すなわち,ひとつは新しい技術が地域に定着すること,もうひとつは水産物のフードシステムと産地を連結するチャネルとしての関連部門の集積することであると考えられる.文 献井村博宣 1989. 那賀川平野におけるアユ養殖地域の分化とその要因,地理学評論62:615-636.堤 研二 1995. 産業近代化とエージェント-近代の八女地方における茶業を事例として-,経済地理学年報41:171-19.林 秀司 1994. 栃木県におけるイチゴの新品種「女峰」の普及過程,地理学評論67:619-637.Ito, T. 2001. Self-sustained Evolution System of Agriculture from the Japanese Urban Fringe Experience,Kim,K.,Bowler,I. and Bryant,C.(eds) "Developing Sustainable Rural Systems"PNU Press,pp.305-316.
  • 菅 浩伸, 岡本 健裕, 田原 佳香, 浦田 健作
    p. 112
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに石灰岩地域における二酸化炭素濃度はカルスト地形形成に重要な役割を果たす。特に土壌中の二酸化炭素濃度は高く、土壌と石灰岩との境界付近での溶食を促している。しかし、カルスト地域の二酸化炭素濃度についての実測値は僅かであり、その収支に関する情報も限られている。本研究では岡山県北部、阿哲台地域にある2つの石灰岩台地(高梁川右岸の熊野台と佐伏川左岸の宇山台)上で、土壌中の二酸化炭素濃度を2年間にわたって計測した。2.調査の概要阿哲台のカルスト地域は、草地となった秋吉台や平尾台と異なり、古くから畑地など多様な土地利用がなされている。本研究では、土地利用が異なる4つのドリーネ(直径30_から_80m)を選び、9つの観測孔を設けて、地表から60cmの深さにおける土中二酸化炭素濃度の計測を行った。土地利用は果樹園(観測孔1, 2)、林地(同3, 4)、水田付近(同5)、畑地(同6_から_9)である。観測孔は、温度計測用の縦孔と、土中気体採取用に埋設したチューブによって構成されている。計測は2001年5月31日・6月1日に開始し、現在まで継続している。3.土中二酸化炭素濃度の経時変化と環境因子計測した土中二酸化炭素濃度は明瞭な季節変化を示し、特に夏季の高温期に上昇する。夏季の値は冬季の10倍以上を示す観測孔が多い。ただし、観測値は最大でも28‰で、大気中の二酸化炭素濃度の約80倍程度である。降水量と対比させてみると、梅雨期を中心に降水が多かった2001年の土中二酸化炭素濃度が2002年の値よりも高い地点が多い。また、降水の間隔が開いている2002年の土中二酸化炭素濃度は変動が大きく、まとまった降水の後に値が上昇する。これらのことから、気温とともに降水の量と頻度が土中二酸化炭素濃度の変動に大きく影響していることが明らかである。土地利用別に見ると、林地で最も低く、果樹園・水田での値が高い。林地は気温および土中温度が他と比べて上昇せず、土壌中での微生物などの生物活動が抑えられるためと考えられる。
  • 小野 映介, 大平 明夫, 田中 和徳, 鈴木 郁夫
    p. 113
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では新潟平野南部を対象として,ハンドボーリングによる掘削調査および堆積物の14C年代測定,考古遺跡の立地変遷の整理などを行い,特に歴史時代の信濃川の河道変遷に注目して堆積環境の変化について検討した.cal.1,100_から_1,000yrBPには,調査地(佐渡山―福島)において泥炭質層が形成されており,洪水による堆積の影響を受けにくい安定した環境にあったことが明らかになった.また,この間における遺跡数の急増は,堆積環境の安定化と関連する可能性がある.これらのことから,当時の信濃川の河道について,1)河道は調査地以外の地域,すなわち,平野西縁もしくは東縁を流れていた.2)河道は安定しており,狭い河道が分流していた.のどちらかであったことが推定される.なお,cal.1,100yrBP以前については,調査地の広域においてシルトや極細砂と粗粒砂の互層の活発な堆積が認められることから,当時の信濃川の河道は調査地付近に推定される.cal.1,100yrBP以後については,泥炭質層が埋積され,また,多くの遺跡が放棄されていることから,調査地周辺は洪水による堆積の影響を強く受ける地域に変化したと考えられる.このことから,少なくとも信濃川の河道の一部が平野東部に存在したことが推定される.なお,当地域に認められる自然堤防は,泥炭質層を覆って発達していることから,cal.1,100yrBP以降に形成されたと推定される.ただし,このような河川の堆積活動の活発化が地域的な現象なのか,平野全域にわたる現象なのかといった問題については,更に検討する必要がある.加えて,泥炭層検出深度の東西差の要因や埋没過程についても今後の検討課題である. 
  • 伊藤 悟
    p. 114
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は金沢都市圏の空間構造変容を、近年の社会構造変容、とりわけ人口の高齢化や女性の社会進出を踏まえながら考察することを目的とする。 研究対象地域とした金沢都市圏は、金沢市を中心として2市4町からなる範囲であり、その国勢調査人口は1975年51.0万人、1985年58.6万人、1995年63.7万人、そして2000年が65.0万人である。同都市圏に関わるパーソントリップ調査は、1974年を初めに1984年、1995年と過去3度実施されており、それらの結果を本研究では基本的な資料とした。 ちなみに、金沢都市圏において65歳以上の高齢者の割合は、1975年7.7%、1985年9.9%、1995年13.2%であり、同都市圏においても高齢化が着実に進行している。また女性の就業率もそれぞれ37.2%、39.0%、43.2%と、全国平均(それぞれ34.7%、36.8%、40.0%)を常に上回りながら増加する傾向にある。 このような同都市圏の社会構造変容は、パーソントリップの移動目的別・手段別構成率にもうかがうことができ、例えば女性による自動車の通勤トリップ拡大は顕著である。そこで、本研究では、高齢者、女性および全体の各時間断面に関わるOD行列を、現状で独自集計の可能な1984年と1995年のパーソントリップ調査結果から作成し、そこから描き出される空間構造を比較・検討することを試みたが、それらについては口頭発表時に詳しく報告したい。〔付記〕本研究は平成14・15年度日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究(B)(1)「21世紀の社会経済情勢下における我が国大都市圏の空間構造」(研究代表者:富田和暁、課題番号14380027)による研究成果である。
  • 海津 正倫
    p. 115
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに メコンデルタではここ数年毎年のように大規模な洪水に見舞われている.なかでも,2000年9月には400名以上の犠牲者を出す顕著な水害が発生しており,この地域における水害の実態解明と対策が大きな課題となっている.本研究では,2000年9月水害の実態を明らかにするとともに,それに関わる地形条件との関係について検討する.メコンデルタの地形 メコンデルタの地形は主として河川の影響を強く受けて形成された北部および中部の地域と,主として海の影響を強く受けて形成された東部,南部,西部の地域に分けられる.このうち,河成の堆積地形はメコン川,バサック川などによって形成された自然堤防,後背湿地,淡水湿地などからなる氾濫原の地形によって特徴づけられ,氾濫原は標高2 m以上の上位氾濫原と,海岸平野に連続する標高1_から_2 m程度の下位氾濫原に分けられる.一方,デルタ南部および西部に広く分布する海成起源の地形は潮汐平野を起源とする海岸低地,浜堤列(一部に砂丘をのせる), 泥質干潟などに区分される.とくに,バサック川の西側低地では弓なりに分布する幅の広い浜堤複合体が認められる.水害の実態 2000年9月の大水害では,デルタ北部のメコン川左岸に広がった洪水流はMy Tho市付近にまで流下し,Dong Thap省では長期間の湛水をみた.一方,バサック川右岸に広がった洪水流はメコンデルタ西部の海岸域にまで到達し,下流側に向けてはCan Tho市付近にまで到達した.また,メコン川とバサック川とに挟まれた地域では洪水流はVinh Long市付近まで達しているが,いずれの地域においても洪水の分布域は氾濫原の地域までで,海成起源の地域には達していない.  また,現地調査の結果,洪水の湛水深はデルタ北部のドンタップ省で2_から_2.5 mに達するものの,それ以外の地域ではカンボジアとの国境付近において1.5_から_2.0 mであり,それより下流側の地域ではおおむね1.0 m以下であった.水害と地形条件との関係 このような水害の地域性を地形との関係で検討すると,メコン川左岸地域では,自然堤防と北側の台地との間の盆地状の地形が他地域に比べて深い湛水を引き起こしたことが明らかである.また,デルタ末端方向への洪水流の到達範囲は上位氾濫原と下位氾濫原との境にかなり一致していた.これは下位氾濫原における水路の水面高度と地表面との高度差が小さいこととが反映していると考えられ,河岸の堤防がほとんど建設されていない地域では地形条件が水害の分布範囲と密接な関係を持っていることが明らかになった.なお,氾濫水の水位は河川流量の減少に従って徐々に低下するのではなく,周期的に変化しながら低下したが,これは潮汐の影響を強く受けたものと考えられる.
  • 市川 清次, 佐藤 宗一郎, 川島 悟, 小西 博美, 杉山 正憲, 岩橋 純子
    p. 116
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
     国土地理院では、11月に火山土地条件図「富士山」の刊行を予定している。 火山土地条件図「富士山」は、火山活動による被害予測、防災対策の立案及び各種の調査・研究・教育のための基礎資料として利活用できる。 本図の作成方法、表現方法及び精密地形測量などにより新たに確認できた富士山特有の地形について報告する。
  • 梶田 真
    p. 117
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 「過疎」概念は1960年代後半以降、わが国の条件不利地域に対する中核的な政策的地域概念として位置付けられてきた反面、その学術的妥当性については多くの批判を受けてきた。主な批判点の一つは市町村という地域スケールの問題である。また本来、適正人口の存在を前提とする「過疎」概念と人口減少率は考え方が異なる。では、なぜ市町村の人口減少率によって「過疎」が定義づけられるようになったのであろうか?2.なぜ1965年国勢調査の結果公表が問題となったのか? 過疎問題が一般に認知されるようになった契機は1965年国勢調査の公表であるといわれる。なぜ「国勢調査」の結果公表が問題となったのであろうか?報告者はそれが、国土縁辺部の市町村財政に深刻な財政問題を引き起こしたからではないか考える。税源が乏しい、これらの市町村において歳入の中核をなすのは地方交付税であるが、その配分額の基準(基準財政需要額)は主として国勢調査人口によって決定される。最新の国勢調査の結果公表はこの人口数値の差し換えを意味し、国勢調査人口が急減した市町村では配分額の大幅な減少が危惧された。この問題が当該の市町村関係者の間で極めて深刻に受け止められていたことは、過疎地域に対する特別立法制定運動の中核を担った島根県の当時の資料の中からも伺い知ることができる。国もまた、国勢調査の結果公表を受けて、いち早く翌1966年の地方交付税の基準財政需要額の算定において人口急減自治体に対する補正措置を新設している(1965年以前は人口急増自治体に対する補正措置しか存在していなかった)。1967年に経済審議会地域部会報告の場で発表された、国の「過疎」問題に関する見解には、明示的な形ではないものの、この人口減少に伴う国土縁辺部の市町村財政問題への認識が読み取れる。3.「人口激減地域」から「過疎地域」へ こうした問題の経緯より当初、特別立法制定運動において対象地域は「人口激減地域」とされていた。しかし、次第に「人口激減地域」という表現は「過疎地域」に置き換えられていく。その背景には(1)「過疎」という言葉がより世間に浸透し、強いインパクトを持っていた、(2)特別立法制定を実現していくために、より包括的な地域問題であることをアピールする必要があった、(3)問題の焦点が国勢調査人口の減少に伴う交付税削減問題,すなわち人口減少の中でいかに従来どおりの財源を確保するか、という点からいかにして社会基盤整備を進め、キャッチアップをはかるか、という点にシフトした、という3点があったものと思われる。(3)については政策文書における過疎地域の位置づけが「従来の生活パターンの維持が困難となりつつある地域」(1967年「経済審議会地域部会報告」)から「生産機能及び生活環境の整備等が他の地域に比較して低位にある地域」(1970年過疎対策緊急措置法・第1条)へと変化していることからも読み取ることができる。 特別立法制定運動の中で「人口激減地域」を「過疎地域」に改めるにあたり、「過疎地域」の厳密な操作的定義を示すことが必要となり、ここで「過疎地域」は人口減少率によって定義づけられることになる。しかし、上記の経緯を考えれば、それは自然な流れであったといえるだろう。
  • 渡辺 満久, 後藤 秀昭, 澤 祥
    p. 118
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.はじめに日本海東縁部に位置する高田平野は,北に開いた三角形状の平野である.最近,この平野の東西両縁が活断層に限られることが明らかになった(渡辺ほか 2002;池田ほか編 2002).活断層の詳しい調査はいまだに実施されていないが,変位地形の特徴などから,いずれも逆断層であると推定されている.平野西縁はN-S走向の逆断層に,東縁はNE-SW走向の逆断層に限ら,これら走向の異なる逆断層は平野南縁で連続しており,「逆断層トライアングル」が形成されている.逆断層の走向は,断層面の傾斜などを反映して,局地的に急変することはある.しかし,島弧スケールで見れば,走向が大きく変わることはなく,広域の応力場と調和するように,ほぼ南北の走向を示すことが普通である.高田平野の活構造を解明することは,プレートの運動方向や,島弧(の会合部)における地殻変動像に関わる重要テーマとなろう._II_ 変位地形高田平野の東西両縁部には,海成面である愛の風面(10数万年前以前)と平山面(約10万年前)が分布している.これらの海成面の下方には,岩屑なだれ堆積物から構成される平坦面のほか,複数の河成段丘面が発達している.(1) 平野西縁:平山面の汀線高度は40m程度であるが,東方向へ高度を減じ,平山面は標高10m程度の沖積面下に埋没する.上越市高田西方では,撓曲崖の幅は最大で1km程度に達する.鉛直変位量は30m以上である.また,この撓曲崖周辺においては,愛の風面構成層はほぼ直立している.西縁南部の新井市周辺では,完新統の岩屑なだれ堆積物(矢代川D.A.)からなる平坦面に,5m程度以上の鉛直変位が認められる.より新期の河成段丘面の鉛直変位量は約2mである.いずれも,西側が相対的に隆起している.(2) 平野南縁:花房火砕流堆積面(約10万年前)に,幅200_から_300m程度の撓曲崖が認められ,南側が相対的に隆起している.鉛直変位量は30m以上であると推定されるが,この火砕流堆積面にはバルジ状の変形があり,隆起側では南方へ逆傾斜している.矢代川右岸には,矢代川D.A.の流下後に形成された河成段丘面が分布し,2m程度の鉛直変位(南上がり)が認められる.(3) 平野東縁:南部ではNE-SW走向の断層トレースが,北部ではN-S走向の断層トレースが認められる.南部においては,断層トレースはさらに2_から_3条に分岐しており,最大幅で500m程度に達する撓曲崖が認められる.1つのトレースに沿っては,平山面相当面に30m以上の鉛直変位が確認できるが,比高10m以上の逆向き低断層崖もともなう.矢代川D.A.以降に形成された河成段丘面には,比高約2mの低断層崖が形成されている.東縁北部の上越市青野付近においては,保倉川の形成した若い河成段丘面が撓曲しており,鉛直変位量は1.5_から_2mである._III_ まとめと課題高田平野の東西両縁(南縁も含む)には,幅数100m程度以上の撓曲崖が形成されており,バルジ状の変形も認められる.横ずれ変位を示すような証拠は確認できていない.平野の東西両縁は,逆断層に限られると考えられる.また,鉛直変位速度はいずれも0.3mm/yr程度以上であり,最も若い地形面に記録された鉛直変位量もほぼ同じ(1.5_から_2m)である.段丘面の編年・変位量をより詳細に測定し,slip rateを明らかにすることが必要であるが,東西の活断層の活動度はほぼ同程度である可能性が高い.今後は,断層面の傾斜など地下構造を検討し,活構造の特徴を具体的に明らかにしてゆくことが必要である.また,東西両縁の最新の活動は,現河床との比高が小さく極めて若い地形面に記録されている.高田平野においては,甚大な被害を伴う歴史時代が複数発生しており(宇佐美,1996),それらのいずれかの地表地震断層を見ている可能性もある.若い河成段丘面の編年を含めて,詳しい地形・地質調査を実施し,最新活動時期を特定してゆく予定である.文献宇佐美龍夫 1996.『新編 日本被害地震総覧』渡辺満久ほか 2002.1:25,000都市圏活断層図「高田」.池田安隆ほか編 2002.『逆断層アトラス』
  • 渡邊 圭一
    p. 119
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.序論近年のわが国の労働市場は、若年就業者の完全失業率の上昇、フリーターやパートタイマーに代表される非正規労働者の増加など深刻な状況にある。特に、第二次ベビーブーム世代(BB_II_)が労働市場に参入することで、「世代混雑」を引き起こしている。わが国の労働市場における「世代効果」の存在は、若年就業者をめぐる諸問題を長期化させる可能性が高い。本研究では、主に20代の若年就業者に着目して、わが国の大都市圏における産業構造および職業構造の変容を検討する。渡邊(2001)では1985年から1995年の10年間におけるわが国の主要大都市における動向を概観した。本稿では、2000年国勢調査のデータを加味し、東京および京阪神の2大都市圏を事例として、若年就業者の空間構造を検討する。2.分析 産業別就業者の構成を世代別に見ると、サービス業の割合は増加の一途である。東京都区部の場合、20歳代の就業者の中に占める割合は男性で3割、女性は4割を超えている。また、商業従事者の割合も20-24歳階級では3割を超えている。それに対して、金融業および工業従事者の割合は低下を続けている。特に、2000年における20-24歳階級の金融業の割合は、1980年のそれと比して半分に低下している。建設業の場合1990年代にシェアを一時伸ばしたものの、2000年には再び減少に転じた。東京都市圏の場合、サービス業、商業、建設業は1990年までは、中心部とその周辺で20-24歳階級の特化係数が高かったが、1995年になると25-29歳階級が20-24歳階級のそれを上回るようになった。 同様に、世代別に職業別就業者の構成率を見ると、20歳代における事務職の割合は低下が続き、とりわけ2000年には20-24歳階級で大幅にシェアを落とした。それとは対照的に、販売職および服務職のシェアは2000年に大幅に伸びた。また、専門職はBB_II_世代でシェアを落としているのに対して、労務職はBB_II_世代でピークとなっている。これを大都市圏レベルで見ると、専門職、事務職、販売職(男性)ではサービス業と同様に中心部における20-24歳階級の特化係数が低下しているのに対して、販売職(女性)および服務職従事者では、20-24歳階級で特化係数の高い地域の外延化が進んでいる。 3.考察このような若年就業者の非ホワイトカラー化の進行は、1990年を境として確認することが出来る。就業者全体でみればサービス化、ホワイトカラー化がすすんでいるが、 その原動力となっているのは主に第二次ベビーブーム以前に出生した世代である。右肩上がりの経済成長の下では、若年就業者が専門職、事務職に十分に就職可能であった。ところが、不況下にBB_II_世代が労働市場に参入することで、一方で専門職の割合が高くなる反面、販売職、服務職の構成比も増大するという、職業構成の両極化が進みつつある。その動向は大都市圏の中心部で先行し、若年層におけるホワイトカラー職のシェアの低下とグレーカラー化が同心円状に外延化している。ベビーブーマーなどの若年就業者の増大による、1970年代における先進諸国の若年就業者の労働市場の悪化は、1980年代の若年就業者の減少した「ベビーバスト」においても解消されていない。その意味で、BB_II_世代における職業分化は、長期的に持続する可能性がある。文献渡邊圭一 2001. 大都市地域における就業者の居住パターンの分析 - 性差・年齢に着目して - . 2001年度人文地理学会大会研究発表要旨集: 36-37.
  • 立岡 裕士
    p. 120
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
     1909年8月4日から翌年4月23日にかけて徳島毎日新聞(徳毎)紙上に「日本風景写真」と題する写真が連載された。明治末期の風景観の一例として報告する。○体裁 「日本風景写真」は101回にわたって不定期に連載された(数字上では99の次が「完結」となっているが、28が重複しているため実際は101である。ただし第49回については該当日の新聞が破損しているため確認できていない)。原則として第1面(紙面は現在の新聞と同じA2版)の下部にハガキ大の写真が1日に1回ずつ掲載された。「日本風景写真(三)箱根芦の湖」という形式の表題がつけられている他にキャプションはなく、関連記事もない。○背景 この企画がいかなる意図の下で行われたかについては当時の紙上にも、また徳毎の後継紙である徳島新聞の社史にも記載がない。しかし当時徳毎は徳島日々新報(徳日)と販路競争しており、この8月3日から紙面を刷新していた(版組を改め掲載情報量を増やした)。また徳日の本格的な写真掲載が大正期であるのに対して、徳毎はすでに1904年に写真を掲載したほか、1910年劈頭の活動として写真班・製版局の設置を広告している。本企画は上記の紙面刷新と連動しいわば<写真の徳毎>をアピールするためのものであると考えられる。 しかし連載中に写真班が組織されたということは、本企画が外部の写真家に大きく依存していたことを窺わせる。それまで徳毎は立木信造と提携していた。立木はすでに「学校教授上の参考」に資することを一目的とし徳島中学・師範の地理科担任教師による解説を付した『徳島県下名勝写真帖』を刊行している(1903年。筆者未見)。また彼は営業目的で日本各地に出向いており、そのおりに各地の写真も撮影しているようである。「日本風景写真」第13回の祖谷かずら橋の写真はこの『写真帖』所収のものと同じに見える。「日本風景写真」の多くは立木が提供したものではなかろうか。○内容 このように、本企画は多分に写真掲載自体の宣伝という性格が強く、かつ立木個人の撮影活動に依存したものであると思われる。恐らくはそのため、「日本風景写真」という名称にもかかわらず、取り上げる対象・地点において何らの系統性・体系性も認めることができず、掲載順序にも明瞭な意図が窺えない。それでも、最終回に「富士」を配し北海道や台湾(うち一つは台南神社)を取り上げていることからは、確かに「日本」を意識していることがわかる。 取り上げられた風景を題名によって分類すると、いわゆる自然景よりも社寺なども含んだ人工物の方がやや多い。自然景の多くは名所図会などにも取り上げられている伝統的なものであるが、遠景ではない「立山の頂上」には近代登山との関連も想像できる。人工物のなかでは神社(10回)が最も多いが、橋(7回。うち6回は鉄橋)や公園(6回)など近代的な題材が取られている。こうした点に新しい名所観への緩やかな移行が認められる。
  • 田上 善夫
    p. 121
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ 霊場地域の分布 中世以降に,全国各地に西国霊場のような観音霊場が開創された。近世以降には,四国霊場のような大師霊場が,西日本を中心に展開した。また現代には不動霊場,十三仏霊場をはじめ,薬師霊場,地蔵霊場などさまざまな霊場が開創されている。霊場にはこうした本尊が異なるのみならず,その規模や周辺の地形,都市と地方間でも大きな差異がある。こうした特性には,地域ごとに類似性がみられる。たとえば東北地方では,盆地を中心にしてとくに観音霊場が多数分布する。一方瀬戸内地方では,島々や半島部に多くの大師霊場の分布がみられる。_II_ 巡拝路と札所の配置 霊場の特色の一つを,巡拝路にみることができる。多くの巡拝者の集まる愛知県の知多霊場は,半島部に位置している。知多霊場では,半島を周回する形で,札所が順番に配置されている。しかし同じく多くの巡拝者の集まる福岡県の篠栗霊場は盆地に位置し,とくに修験の行場に由来した滝に隣接した札所が設けられている。ここでは札所番号の配置には規則性がみられない。また千葉県の印西新四国霊場は,手賀沼と印旛沼間の東西に延びる丘陵に位置する(図1)。巡拝地はほとんどが丘陵の縁辺部にあり,番号の配置は不規則で,これらを一巡する行程とは異なるものである。さらに東京の御府内霊場は,八十八ヶ所および番外の札所寺院から構成される。武蔵野台地から荒川低地にかけて分布するが均等ではなく,また札所の配置順も規則的ではない。_III_ 霊場内の札所群と巡拝路 札所番号が巡拝の順序を示さない場合は多いが,霊場案内などではその札所寺院は「エリア別」などで紹介される(たとえば塚田・遊佐,2000)。都市近郊の霊場であれば,週末などを利用して,まとまった札所群を適宜訪ねることが多いと思われる。札所の配置にはこうしたエリアごとの地域的なまとまりがみとめられるため,クラスター分析を援用すると一般的な巡拝の順序を推定することができる。札所寺院の多くは山地や丘陵の麓,あるいは段丘や台地の縁辺部など傾斜変換点付近に位置するが,こうした順路にはそれらとのかかわりが明瞭に示される。また比較的平坦な扇状地や沖積地においても,巡拝路は自然堤防などの微高地の縁を通っている。_IV_ 傾斜を加味してみた巡拝路と霊場 札所寺院は傾斜地周辺に多いため,さらに巡拝路は上り下りや,屈曲を避けられない。開創の頃には徒歩によって巡拝されており,巡拝路はこうした傾斜の急なところを避けて選ばれたと考えられる。傾斜角をコストとして隣接する札所間の最短パスを求めると,それは多くの場合,台地上や谷に沿って通ることが示される(図2)。四国の遍路道などを除くと,札所間の道の多くは不特定であるが,推定・復元された巡拝路には,開創時を含めた各霊場の特色が示される。
  • 稲村 明彦, 安原 正也, 牧野 雅彦, 前川 篤司, 鈴木 裕一
    p. 122
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    中国地方東部における天水を対象に,その性状の現状把握と起源・流動系の解明を目的として,無降雨時の河川水ならびに湧水・浅層地下水の採取を2001年から継続している.これまで,この縦断地域において河川水293地点,湧水・浅層地下水127地点の採取を終了し,その主要水質成分,微量成分,酸素・水素安定同位体比の測定を進めている.今回は,これまでの測定結果から得られた地域の天水の性状と起源について予察的な考察を行う.
  • 西宗 直之, 小野寺 真一, 成岡 朋弘, 佐藤 高晴
    p. 123
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
     瀬戸内沿岸地域は温暖少雨の気候のため、日本で最も山火事の発生頻度が高い地域となっている。山火事は森林植生や生息動物などの森林生態系を改変するのはもちろん、侵食作用の増大による地形変動や土壌環境、場合によっては水理・水質などの環境に影響を及ぼすことが想定される。また、土壌侵食の活発化による土砂流出量の増加は、下流域の堆積過程に変化をもたらす可能性があり、土砂災害の防止という観点からも重要な研究課題のひとつである。したがって、山火事の発生による侵食速度の変化や流域から生産される土砂量の予測を行っていくために、現存する山火事跡地の侵食速度を算出し、火災発生後の土砂流出特性を把握することが必要となる。よって、本研究では山火事発生後の経過年数の異なる流域における山火事発生前後の流域侵食速度の変化を確認し、山火事発生後の年数の経過に伴う土砂流出パターンの変動を明らかにすることを目的とした。

    2. 研究地域及び方法
    2.1. 山火事跡地の砂防ダムにおける堆砂量の測定
     流域の全面積が山火事に遭った砂防ダムのうち、最上流部に位置するものを選定し、堆積深度を検土杖で測定した後に堆砂量を算出した。堆積速度は、上記の方法により得た堆砂量を砂防ダム建造年から経過した年数で除して求めた。山火事の発生以前に建造されたダムについては、検土杖により炭化物が認められる堆積層を山火事発生時とみなし、堆積速度を区別することにより火災前後の侵食速度をそれぞれ求めた。一連の調査は2003年3月に実施した。2.2. 山火事跡地試験流域における観測
     2.1の砂防ダム流域とは別に、3か所の山火事跡地流域において調査・観測(2000年4月から2003年5月に実施)を行った。毎回の降雨イベント後に土砂トラップに堆積した土砂量を測定した。
    1)IK:2000年8月に山火事発生(撹乱流域)
    2)TB:1994年8月に山火事発生(荒廃流域)
    3)TY:1978年8月に山火事発生(回復流域)
     これらは、植生の状況以外はほぼ同一の特徴を持つ。

    3. 結果と考察
    3.1. 山火事跡地流域における侵食速度の推定 表1に各砂防ダム流域における流域特性及び侵食速度を示す。各流域とも、山火事発生前の流域侵食速度が0.02から0.07mm/yrという低い値を示したのに対して、山火事発生後では0.33から0.42mm/yrと高い値を示した。特に、山火事の発生からあまり年数が経過していないIK1では、侵食速度は2.2mm/yrという非常に高い値を示した。これらは、発電用ダムで計測された中部地方の急峻な山地渓流における侵食速度(0.3から0.5mm/yr)(藤原ほか、1999)と比較して同等かそれ以上の値であった。特に火災発生直後の流域では土砂堆積量の急激な増加が確認されたことから、これらの侵食速度の増加は山火事に伴う活発な土壌侵食の影響を強く反映している結果であるといえよう。
    3.2. 火災時期の異なる流域における土砂流出特性の差異
     図1に各流域におけるイベント降水量と土砂流出量の関係を示す。いずれもイベント降水量の増加に伴った土砂流出量の増加が認められるが、小規模降雨イベントでは傾きが小さく、ある一定のイベント降水量で傾きが急になる傾向がみられた。IK流域ではイベント降水量に対する掃流土砂流出量の傾きが大きく、イベント降水量20mm付近に傾斜変換点がみられた。TB流域では傾斜変換点がイベント降水量40mm付近にみられ、傾きは緩やかであった。TY流域ではイベント降水量80mm付近に傾斜変換点がみられ、大規模出水時の傾きが大きかった。傾斜変換点は火災発生後の年数経過に伴ってイベント降水量の多い地点に現れた。この存在は、前後のイベント降水量の違いによって土砂流出プロセスが変化しているものと推察される。
  • 逸見 優一
    p. 124
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1、はじめに 地域調査が授業で年間計画に基づいて実施されることは、諸々の事情により困難であることが多い。今年度より実施されている新学習指導要領では、地歴科・公民科の「地理A」「地理B」「現代社会」においては、地域調査・地域学習の学習項目が従来以上に取り上げ実施の度合いを、強めている。報告者の場合はできるかぎり、これまでにも「地域調査」を授業の中にねづかせるようにしてきたつもりでいる。 今回は、珪藻分析、プラントオパール分析を導入した授業づくりへの展望を考えてみた。学び方学習、考え方学習において学習者に「成果と課題」意識をもたせ、問題解決型の学習をきづきあげてゆくものにつながってゆくものと確信する。 高校生の世代を取り巻く今日の現代社会では、地球温暖化に伴う海水準の変動や稲作の起源をめぐる論がこのところ、声を大きくしている。身近な試料の採取を通じて、分析し結果を考察する学習は、科学的に海水準変動や稲作起源論にせまる教材づくりを可能にし、学校現場ではきわめて有効である。 試料採取では、たとえば、校舎建築の際のボーリング資料・試料入手。あるいは身近な自宅の平坦地の水田や棚田水田等の耕作地。河川部などの沖積平野からの検土杖・スコップ堀などによる土壌採取や山間部の露頭等からの試料集めが可能であろう。十分な科学的成果が上がる設備の整った大学、研究所などに比較すればずいぶんと貧弱な学校の設備ではあるが、うまく活かして、教材づくりをおこなって授業で取り組んでみるだけの価値があるといえる。ただ、一定の科学的成果が発揮できないので、教材づくりでの分析結果は科学的成果の面ではねつ造化へと繋がる危険性は大きいと言わざるを得ないのが、はなはだ残念ではある。限界はあるにしろ、高校生の世代には、科学的に物事を分析・検討・認識化させてゆくことになって行く。様々な結果を通して、最も大切なことは試行錯誤してゆくことを学んでゆくことであろう。ここに、問題解決型の学習成果の結果がしだいと蓄積してゆく糸口が展開されよう。2、研究の目的・方法  本報告では、沖積平野の地形発達史において人間生活の結果の跡を検討する手段としてのプラントオパール分析、珪藻分析を中心としての成果と課題を展望した予測の動向の可否についてから、教材化へ向けてのあり方を若干考察したい。 倉敷平野とは岡山平野の西部地域の高梁川流域をさすものとしたい。岡山平野全域についてはこれまでに「岡山県史」、二宮書店版日本地誌「岡山」編、「岡山県土地分類図」、岡山文庫版「高梁川」「旭川」「吉井川」、「岡山県の地質」、「岡山の地理」等がすでに研究叙述され、ほとんどテキスト的体裁をなしているといえる。しかし、最終氷期以前のあたりから、前の氷期あたりにわたっての微化石分析にもとづく視点に立つ人類文明史的観点からの地形発達史に一歩踏み込んだものはほとんどないといえる。そうした中、1970年代前半、新潟大学の研究グループが本四連絡橋建設にともなうボーリング資料・試料分析からのものがみられ、よく引用されているが、新たな分析をおこなっていないのがおしまれる。花粉分析は、県内の研究者である岡山理科大学の三好教夫により精力的になされているが、これをもとにした岡山平野の地形発達史には深く言及されていないのが惜しまれる。岡山県古代吉備文化財センターの最新の水田址発掘の際に利用され始めたプラントオパール分析試料・資料の蓄積も地形発達史の幅を広げる。鉄穴流しについては、貞方昇「歴史時代における人類活動と海岸平野の形成」がみられる。貞方は、水島地区等で簡易ボーリングを実施して粒度分析を行い、また検鏡作業で鉄穴流しによって、高梁川方面に流されたいわゆる鉄滓等の分析をおこなっている。倉敷平野最西部域の金光町八重地域などにいたっての平野形成に、鉄穴流しの影響が読みとれよう。 岡山の沖積平野の地形発達史における人間生活の跡を見る学習の教材化では総合的な、こうした方法の援用的利用がまたれるといえる。防災対応も、この一連の学習過程の中から、学習者が個々にきづきあげることができるようになる。
  • 梶田  真
    p. 125
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 報告者はこれまで戦後地方財政に関する定量分析を行ってきたが、平行して収集した地方財政統計の地図化作業を進めている。今回の発表では市町村の地方交付税に関連した主題図(人口あたりの基準財政需要額、経常収支比率(=財政の硬直性を示す代表的な指標)など)を作成し、戦後の空間パターン変化に関する報告者の解釈を示す(解釈の詳細については拙稿(2003)を参照。本発表の内容は基本的に同稿を補完するものである)。なお、利用可能な行政境界データの問題から、現在の市町村境界に合わせてデータの合算を行っている。主題図は1960年から5年刻みに2000年まで作成しているが、過去の資料の制約などからデータが存在しない年次や代替指標を用いているケースもある。2. 戦後市町村財政の空間パターンの戦後変動:地方交付税を中心に 昭和の大合併がほぼ沈静化した1960年の段階において、地方交付税の配分額(普通交付税分)の根拠となる基準財政需要額の人口あたりの額にはそれほど顕著な空間的特化は見られない。このような状況は1965年時でもあまり変わっていない。しかし、1960年代後半以降における一連の補正制度の新設・強化により、1970年の段階では現在の原形とでもいうべき空間パターンが形成され、国土縁辺部における特化が進む。また市町村面積が著しく大きい北海道の市町村では人口規模に関わらず特化がみられる。 実際の地方交付税(普通交付税分)の配分額は基準財政需要額から基準財政収入額を差し引いた額として計算されるがオイルショック後、大都市地域の市町村では不況による税収減に加え、地方交付税の不交付団体では地方交付税を通じた減収補填も受けられないため、これらの市町村を中心に財政危機に陥る(1975年)。しかし、この地方財政危機が人口あたりの基準財政需要額の空間パターンを大きく変えることはなかった(1980年、1985年)。そしてバブル景気により大都市地域の市町村の財政状況は劇的に改善される(1990年)。さらに、地方交付税原資に余剰が発生し、この余剰財源を地域活性化事業などの形で小人口自治体に手厚く配分したため(代表的な事業が「ふるさと創生1億円事業」)、国土縁辺部における人口あたりの基準財政需要額の特化は一層強化される。しかし、バブル景気の崩壊によりオイルショック後と同様に大都市圏の市町村は再び財政危機に陥る(1995年)。地方交付税の原資が不足するようになったことを背景に地域活性化事業などのための財源算定額が削減されたため、小人口市町村への傾斜配分は90年代初頭をピークに後退に転じる。さらに平成の大合併を引き起こす契機となった、1997年以後における小人口市町村をねらい撃ちにした地方交付税の削減策により国土縁辺部に集中する小人口市町村の財政状況は急速に悪化し(2000年)、これらの市町村の多くは合併の選択を余儀無くされることになる。【文献】梶田 真 2003(印刷中).地方交付税の配分構造からみた戦後地方行財政の特質:小人口自治体に焦点をあてて.地理学評論76.
  • 早川 裕一
    p. 126
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     河床縦断面における遷急点は,急激な侵食基準面の低下により形成され,上流方向に移動することが一般に知られている.遷急点が後退すると,遷急点より下流では河床が低下し,谷壁斜面基部が不安定化することにより斜面プロセスが活発化すると考えられる.すなわち,遷急点の後退は侵食基準面の低下に対する流域地形の反応に関して,侵食の伝播の先端的な役割をもつといえる.滝は,岩盤河床における典型的な遷急点であり,滝による侵食速度はとくに基盤の露出する流域の地形発達過程において重要な要素となりうる.本研究では,房総半島の滝に基づいて提案された滝の後退速度を推定する経験式について,その追試および検証を行う.
    II 滝の後退速度とその予察式
     滝の後退速度は,河川の侵食力(F)と基盤岩の抵抗力(R)との比(F/R)から導かれた無次元パラメータを用いて,以下の式であらわされる(Hayakawa and Matsukura, 2003):
    D/T=99.7[(AP/WH)(ρ/Sc)0.5]0.73   (1)
    ここで,D :滝の後退距離(形成地点から現在地までの距離),T:滝の形成年代,A:滝から上流の流域面積,P :流域における年平均降水量,W :滝の幅,H :滝の高さ,ρ :水の密度,Sc :滝を構成する岩石の圧縮強度(シュミットロックハンマーの反発値から計算)である.滝の後退速度は,形成されてから現在まで等速として,その平均として求められている.

    III データ収集と結果
     本研究では,Hayakawa and Matsukura(2003)の扱った房総半島の9個の滝のほかに,新たに8個の滝を検討対象にした.8個のうち,2個は支流型(Type A),6個は海食崖型(Type B)の成因をもつ滝である.Hayakawa and Matsukura(2003)の方法に従いデータを収集したが,流域面積は50 mグリッドのDEMからGIS上で計算し,また降水量は既存の文献資料から得た.また,滝の形成年代は関連する段丘面の既知の形成年代から推定した. 合計17個のデータをプロットしたのが図1であるが,解析の結果,式(1)は
    D/T=166[(AP/WH)(ρ/Sc)0.5]0.77   (2)
    と改められる.これは,式(1)と同様の傾向をあらわしている.

    IV 考察と展望
     滝の後退速度と侵食力/抵抗力の比との関係を滝の成因別に比較すると,Type A(支流型)とType B(旧海食崖型)とで,後退速度の大きさの傾向に若干の違いがみられた.今後は,こうした滝の種類別,とくに侵食メカニズムによる後退速度の相違の検討を進めるとともに,他地域の滝への上式の適用性を検証してゆく.

    文献
    Hayakawa, Y. and Matsukura, Y. 2003. Recession rates of waterfalls in Boso Peninsula, Japan, and a predictive equation. Earth surface processes and landforms 28: 675-684.
  • 伊藤 悟, 根田 克彦
    p. 127
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
     今日北アメリカの大都市圏では、エッジ・シティさらにはエッジレス・シティという言葉の出現に象徴されるように、都市機能の郊外化、多核化の進行が著しい。本研究は、このような大都市圏の構造変容のなかで、既存の小中心地が、現在どのように変質しつつあるかについて関心を寄せるものである。 調査対象としたマサチューセッツ州レキシントンは、ボストン大都市圏のほぼ中間地帯に位置し、2000年現在の人口数はほぼ3万である。既に今春の大会では、レキシントンの都市計画について、2002年11月に現地収集した資料等から検討を試みたが(伊藤・根田 2003)、今回は2003年6月に行った土地利用の実態調査から報告する。 まず、レキシントン全体の土地利用について概観すると、旧鉄道駅前に発達したレキシントン・センターと、その周辺のコンパクトな住宅地、さらに外側に広がる低密度な住宅地という基本的パターンがうかがわれ、それはこの町の成長の歴史を反映している。また、高速道路のインターチェンジ付近には近年、技術・専門サービスを主体とするオフィスが進出し、他方、近隣型の商業サブセンターも各地に点在する。 そこで4カ所を選定し、土地利用の実態を詳細に調査した。調査地区はレキシントン・センターとその周辺(A)、サブセンター2カ所(B1とB2)、および縁辺部にあるインターチェンジ付近の開発地区(C)である。実態調査の結果、各地区について次のような様相が把握できた。 (A) レキシントン・センターでは、1980年代に立案された整備計画によって集合店舗化が進み、そこにはレストランや衣料品など主に買回品店の集積がみられる。それを取り囲むコンパクトな住宅地は、ボストンへの鉄道開通によって開発されたものであるが、そのなかの一部の住宅には、 レキシントンの知名度と利便性を背景に、大邸宅化(mansionalization)するものもあった。 (B1) サブセンターの1つであるイースト・レキシントンは、レキシントン・センターと同様、鉄道駅前に発達した中心地であり、従前は同センターに次ぐ役割を担っていたが、1978年の鉄道廃止以降その地位を低下させ、現在はロードサイド型の商業地に変容している。 (B2) いま一つの調査対象としたサブセンターは、レキシントン・センターから北西200mほどに位置するが、そこにはスーパーマーケットとガソリンスタンド、喫茶店などの商業機能ともに、弁護士、医者やシステム・デベロッパーなどの、いわゆるスモール・オフィスを収容する建物が現在集積している。 (C) レキシントン南縁の高速道路インターチェンジ付近では幾つもの大規模なオフィスが立地する。それらはボストンから遠心的に移動してきたものが多く、道路に直接面するのではなく、ある程度の距離をおいて位置し、それぞれが広大な駐車場と緑地を有する。 以上は今回の調査から得られた知見の骨子であり、ポスター発表の際には各調査地区の土地利用図等を提示しながら詳細を報告する。<文献> 伊藤悟・根田克彦 2003.アメリカ合衆国マサチューセッツ州レキシントンの都市計画.日本地理学会発表要旨集 63:152.
  • 佐藤 浩, 関口 辰夫, 津澤 正晴, 高 泰朋, 白沢 誠, 長嶺 達, 中島 保
    p. 128
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    従来から、斜面崩壊の多くの素因の一つである遷急線からの距離を使って斜面崩壊が発生する可能性を予測する研究が行われてきた。しかし、遷急線からの距離をどのようにして計算するかを詳細に述べた研究例はほとんど無い。本研究では、注目点よりも斜面の上方にある遷急線を考慮して、遷急線からの平面距離を計算する手法を提案する。新たな測量技術である航空レーザ測量によって、詳細な等高線図と高密度なDEMを計測することが可能になってきたため、等高線図から詳細に遷急線を判読し、DEMから斜面上方にある遷急線を効率的に探索できるようになった。将来、航空レーザ測量データを使った斜面崩壊の予測に関する研究が進むと考えられる。本研究の提案手法によって、遷急線からの距離がより説得力のある変数として改善されることから、本研究の手法は、今後の斜面崩壊の可能性に関する研究に貢献する。
  • 稲田 七海
    p. 129
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに_-_釜ヶ崎における高齢者増加の背景 1999年以降,大阪市における野宿生活者支援は,行政による公的な支援だけでなく,民間の団体や法人などによる支援が活発化してきた。本報告の調査対象地である釜ヶ崎(あいりん地区)には,これらの民間団体の多くが集中し,高齢の元野宿生活者への定住化を前提とした居住支援が行われている。このような支援をとおした高齢者の流入は,寄せ場としての釜ヶ崎に付与されていた空間的機能の変貌を加速させる要因ともなっている。とはいえ,寄せ場としての釜ヶ崎に高齢者が存在しなかったわけではない。高齢者であれ,仕事さえできれば生産する存在として期待はされる。しかし,ひとたび仕事に就けなった高齢者は,あいりん体制下での福祉行政のもと,一律に生活保護施設への入所という措置がとられ,釜ヶ崎からは姿を消していくことになる。高齢者は存在しても,生産活動の場から切り離された高齢者の問題が地域内で可視化されることは少なかったのである。しかし,ノーマリゼーションに向けた動きが高まる中で,脱施設化→居宅での生活保護適用が認められるようになり,高齢期を地域内で送る人が増加している。とりわけ釜ヶ崎においては,簡易宿泊所を転換した野宿生活者向けの住宅のストックが多く形成されたことから,野宿生活者のなかでも就労不可能とされる65歳以上の高齢者が生活保護制度を利用して入居するようになり,地域内の高齢化を促す存在となっている。_II_.目的このように高齢者が増加する中で,単身高齢者の生活支援を誰が担うか,という問題が浮上してきた。釜ヶ崎に居住する高齢者の多くは生活保護受給者であり,家族からの支援を期待できない単身高齢男性が大部分を占める。また,過酷な野宿生活を強いられてきたために,身体的にも精神的にも専門的なアフターケアが求められている。本報告では,釜ヶ崎に前述のような背景をもった高齢者が多く定住してきたことによって生じるニーズと,このニーズに地域がどのように対応しているかという点について,とりわけ介護にかんするニーズと支援体制について着目する。また,釜ヶ崎では,高齢者の流入に合わせて,営利系の介護事業所の参入が活発化したのと同時に,地域内を熟知している既存の支援団体が非営利事業所の形態をとり,介護事業への参入を見せている。ここでは,非営利系の事業所の取り組みを行政の補完的役割として位置づけし,それがいかに地域の高齢者支援に結びついているかを提示することを目的とする。_III_.NPO法人A事業所の取りくみ 本報告では,釜ヶ崎を中心に介護事業を展開しているNPO法人Aを取り上げる。NPO法人A(以下A事業所)は,2000年に設立し,2001年より介護事業を開始している。介護保険サービス以外にも,生活支援や生きがい対策事業として,病院へのお見舞い,デイサービス,配食サービスなどのボランタリー部門を展開しており,介護保険制度内のケアプランでは手の届きにくい部分をカバーしている。このA事業所の大きな特徴は,ここに所属するホームヘルパーの半数以上が野宿生活経験者である点と,サービス利用者8割が元野宿生活者を含む生活保護を受給している世帯であるという点にある。ヘルパーの多くは,大阪市の野宿生活者自立支援事業の一環として行われた技能講習制度によりホームヘルパー2級の資格を取得し,A事業所に雇用された経緯を持つ。_IV_.おわりにA事業所は,野宿生活の経験という釜ヶ崎に暮らす高齢者特有の問題に対応できるヘルパーの存在と,介護保険+ボランタリーの複合型による柔軟なサービス供給によって,地域のニーズへの対応が可能となっている。また,ヘルパーと利用者の野宿経験の共有は,介護される側とする側相互のセルフヘルプにつながるという期待ももたれる。一方で,ヘルパーの現場教育や,元野宿生活者としてまなざされる中での信頼の獲得など,課題も多く存在している。
  • 朴 宗玄
    p. 130
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    在日韓国人企業の事業所展開からみた日本の都市階層の特徴は、次の5点に要約される。第1は、東京・大阪・京都の格差が顕著に現れなかったことである。とくに在日韓国人企業の事業所展開が本格的に行われた発展段階(1965年、1975年)以降、大阪・京都は、事業所数が急増し、在日韓国人企業の事業所設置の拠点都市として評価されたといえる。第2は、名古屋の位置づけが相対的に低いことである。3大都市として位置づけられてきた名古屋は、在日韓国人企業の集積からみた都市評価では、2大都市よりも神戸・横浜などに近い。第3は、広域中心都市への事業所配置は相対的に低く、拡大段階(1995)になって事業所配置の拠点都市として出現されたことである。とくに広域中心都市の中でも、広島と札幌・仙台・福岡との格差が存在しており、国内企業の事業所配置の空間形態とは異なる傾向を示す(阿部,1987,1997;日野,1996)といえる。第4は、初期段階以降、神戸・尼崎・東大阪は在日韓国人企業の事業所配置において主要拠点地として高く評価されてきたことである。この点は、初期段階から在日韓国人企業の事業所展開の拠点として位置づけられた川崎とは対照的結果であるといえる。第5は、地帯別・地方ブロック別の都市階層の偏りが認められたことである。下位都市階層に当たる第_IV_階層、第_V_階層の都市は、北海道・東北・北陸・四国地方が多く、関東・近畿地方の多数の都市とは対照的であるといえる。また、3地帯別にみると、地方圏の都市は第_III_階層以下、周辺圏の都市は第_IV_階層以下にそれぞれ分類され、3大都市圏との違いが明瞭であることが明らかになった。
  • 阿子島 功
    p. 131
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    吉備高原には、従来、数段の侵蝕小起伏面が想定され、その成因として侵蝕基準面支配が予想されてきた。【吉備高原の侵蝕小起伏面の成因を侵食基準面支配による準平原遺物とする根拠が薄弱】 単に小起伏であることの説明は,ほかにもありえる。 被覆層と基盤岩との差別侵食にもとづく組織地形としての説明はそのひとつである(岡山県西部高山市付近の例,阿子島,1979日本地理学会春大会;ほか)。 【説明対象の定義のあいまいさ】従来の説明対象は,仮想的な復旧面(=接峰面の少し上空)_から_現在地表面,それらの(任意ともいえる)中間のいずれであろうか。仮想的な復旧面とその成因には合理的説明の根拠がない。国外でも事情は同じである(Speight,1986の紹介,東北地理,38-1,p.39)。 剥離面である場合に限っては,説明対象地形を定義できる。その起伏量の規模はさまざまである(阿子島,1984JGU)。 【古い地形面が保存される可能性のあやうさ】すでに岩塚(1970 気候地形シンポジウム)によって提起された問題である。仮に平均面的低下速度0.1mm/年を外挿すると, 1myの間に低下量は100mになるから,1Ma前の実体のある地表面は残り得ない。Akojima(1975,東北大理科報告)は吉備山地で現在の貯水池の堆砂速度を外挿したときに中新統備北層群が残りうる隆起過程を論じた。 【地形面の広がりにかかわらず共通に適用できる剥離面の認定基準】阿子島(1984JGU)の剥離面の認定基準は;『説明しようとする地形面の起伏量と基盤岩をおおう被覆層の基底面の起伏量とがほぼ等しいときに,その地形面は基盤岩をおおう被覆層の基底の剥離面であるとみなす。この両者の起伏量がほぼ等しいとは,残存する被覆層の厚さが,説明しようとする地形面を表現する地形図の最小の等高線間隔より小さい場合をいう。』すなわち、1/25,000図で厚さ10mの被覆層は地質図には表現されるが地形には表現されない.より広い、地域的な説明には15'×10'単位で被覆層基底と現地表の起伏量の比較を用いた(図1 阿子島,1978,当会)。 両者がほぼ一致する地域を示すことができる。 【縮尺1/25,000以上の,あますところない現在地表面成因区分図】岡山県井原市浪形のカキ殻石灰岩の詳細な岩相区分と分布が矢野ほか(1994)によって報告された。ここで中新統の残存状態と小起伏地形(図2a)との関係を検討した。図2bには、(1)残存被覆層の層厚10m以下の斜面および被覆層基底から比高10mまでなめらかにつづく斜面//(2)被覆層が10m以上残存する尾根線//(3)新しい開析谷斜面(被覆層最下部基底から10m以上深い)の3区分を示す。(1)が剥離面とみなせる地形面である。
  • 高田 明典
    p. 132
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    本研究では,耕作放棄地面積の拡大に着目し,その地域的背景を群馬県吉井町上奥平を事例に,農業センサスや集落カード,農家台帳,農地台帳,土地台帳,および聞き取り調査等をもとに明らかにしていく.
    2.研究対象地域
    今回の研究発表地域である群馬県多野郡吉井町は市町村別の農業地域類型では平地農業地域であり,かつ,耕作放棄地面積が1975年・1985年・1995年にそれぞれ4ha・18ha・206haと拡大している.
    3.吉井町における耕作放棄地面積の変化
    耕作放棄地率の変化を,農業集落別にみてみると,1975年には5%を超える所はなく,1985年になると,5%を超える農業集落が, 4農業集落でてくる.1995年になると,耕作放棄地率が20%を超える集落が半数近くにのぼり,そのなかでも上奥平地区は,耕作放棄が他の地域より早く,上奥平東・西をあわせた耕作放棄地面積の変化は,1975年67a・1985年216a・1995年1,310aと1985年から1995年の10年間で6倍以上拡大している.
    4.上奥平地区における農家世帯員数の減少と高齢化
    1980年から1999年までの農家世帯員数の変化を農家台帳をもとにみてみると,1980年における上奥平の農家戸数は63戸で,世帯員の総数は300人であったのに対し,1999年には農家戸数が59戸,世帯員の総数は211人に減少している.特に若年・中年層の減少が著しい.転出先としてもっとも多いのが,高崎市への転出である.また,1戸あたりの平均世帯員数も4.8人から3.6人へと減少しており,それに伴い農業従事者の高齢化が進んでいる.
     5.耕作放棄が始まる以前の農地利用
    1980年の農家台帳により,上奥平地区で耕作放棄地が拡大し始める以前の経営形態をみてみると,収入順位の第1位はほとんどの農家が養蚕で,2位が米という,養蚕+稲作の複合経営農家がほとんどを占めていた.他には少数ながら畜産やしいたけ栽培,果樹栽培が存在した.また,農地を一筆ごとにみてみると,1980年代中頃までは桑園としての利用もなされていて,減反政策の中,水田を桑園に転作したり,農家間において桑園の賃借関係が結ばれていたりした.また,地域外へ転出する者から水田や桑畑を購入する農家も見られ,この頃は,農家間における農地の流動化や利用集積が盛んに行われていたと考えられる.
    6.耕作放棄の拡大とその背景
    生糸価格の下落によって養蚕からの収入が激減し,養蚕を辞める農家が増加した.このことから,耕作放棄された桑園が拡大していった.また,1980年代後半に,ゴルフ場の計画が持ち上がり,この地域の一部の山林・原野を中心に地上げが行われ,買収された.農地は売買が認められなかったため,ゴルフ場側とその農地の賃貸契約を結ぶ農家がみられ,農家はその農地の耕作を放棄していった.しかし,バブル崩壊とともにゴルフ場計画は宙に浮き,現在のところその建設は凍結されたままである.
    7.耕作放棄地の現状
    上奥平にある4つの谷にある水田を中心とした農地を,東側の谷からA・B・C・Dとし,いくつかの耕作放棄地についてみてみると,Aにある農地は支谷を中心に耕作が放棄されている.また,不在地主による耕作放棄地もみられた.Bでは,バブル期のゴルフ場建設計画に伴い,周辺原野はゴルフ場所有となり,水田のままゴルフ場に貸与し,耕作を放棄しているているケースがみられた.CやDは,中山間地域等直接支払制度の協定農地を含んでいる.耕作されているのは協定農地を中心とした部分だけで,支谷を中心とした水田・桑園が耕作放棄されている.支谷では,天水を貯めておくだけの小規模なため池を使用している水田がほとんどを占めている.また,排水路も脆弱なものが多く,ため池の機能不良からくる耕作放棄もみられた.
    8.事例農家
    A農家を例に耕地面積や農業労働力,耕作放棄の理由や時期についてみる.この農家は専業農家で,主な農業従事者は70代の男性と60代の女性である.耕地面積は水田が約40a,普通畑が約10a(自家消費),桑園が約80aで,このうちBの支谷にある水田の4aほどを耕作放棄している.この水田は耕作放棄から10年以上が経過していて,書類上は自己保有だが,水田のままゴルフ場に貸与し,耕作を放棄している.養蚕を辞めてから10年以上経つが,桑園のほとんどを耕作放棄している.養蚕を辞めた理由としては,繭の価格が安くなったこと,後継者がやりたがらないことをあげている.しかしながらBやCの本谷にある水田は,後継者の退職後のために耕作を維持していくとのことである.
  • 河角 龍典
    p. 133
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.はじめに古代から中世にかけての土地利用と地形環境との関係については、主に条里プランの施行された村落地域を対象として検討が行われている。金田(1993)は条里型地割内部の土地利用と微地形の関係について、高橋(1994)は古代末に生じた河床低下と農業的土地利用変化との関係について明らかにした。他方、同じ方格地割を持つ条坊地割が施行された都市地域の土地利用と地形環境との関係については、河角(2001)が平安京を事例に、河床低下に伴う河川氾濫区域の変化と市街地変遷との関係について論じている。しかしこれまで、条坊地割内部の土地利用と微地形の関係については、不明な点が多かった。そこで本研究は、平安京を事例に、条坊地割内部の市街地の分布と微地形との関係について検討する。_II_.研究方法平安時代の地形環境は、1万分の1空中写真の判読より作成した地形分類図、50mDEMから作成した1m等高線図、ならびに埋蔵文化財発掘調査トレンチにおいて記載した表層地質断面図から復原した。他方、平安京の土地利用は、文献史学および考古学の研究成果を用い復原した。本研究では、これらの復原図をもとに、市街地の分布と微地形との関係について分析する。_III_.結果と考察 平安京の市街地の分布は、河川の氾濫区域の分布と関係しており、微地形よりもむしろ地形面レベルのスケールに対応するものであった。このように市街地と微地形との関係は不明確であったが、天皇に関係するの邸宅、すなわち院の分布は、地形帯_から_微地形レベルのスケールの地形環境と対応していることが認められた。ここでは、天皇に関係するの邸宅(院)の立地環境に焦点をあて分析を進める。まず、地形分類図との関係について述べる。天皇に関係するの邸宅は、地形面レベルからみると、段丘面_I_(中位段丘面)、段丘面_II_(低位段丘面)、段丘面_III_(完新世段丘面)に立地する。これらの地形面は、平安時代を通して洪水氾濫の影響を受ける頻度の少ない地形面であった。地形帯レベルからみると、宇多院を除くすべての天皇に関係するの邸宅(院)は、鴨川の扇状地帯に分布する。微地形レベルからみると、淳和院、朱雀院、神泉苑、四条後院は、旧河道を敷地内に取り込む。次に1m等高線図との関係について述べる。地形帯レベルからみると、淳和院、朱雀院、冷泉院、高陽院、堀河院、閑院、東三条院は、扇状地帯の傾斜変換点付近に立地している。微地形スケールからみると、高陽院、冷泉院、神泉苑、朱雀院は、北東から南西に伸びる谷地形上に立地している。一般に、こうした扇状地帯の傾斜変換点、すなわち扇端部分は地下水面が高くなる傾向にある。また、扇状地帯の谷地形、すなわち扇状地の旧河道も、淘汰の良い砂礫から構成される場合が多く、透水性が良いため地下水の通り道になりやすいという特性を持つ。これらの地形特性を踏まえると、平安時代の天皇に関係する邸宅(院)は、地下水面が比較的高い土地を宅地内に取り込むことを考慮して選定されている。平安時代の貴族にとっては、大内裏との近接性はもちろんのこと、水の得やすい土地を選定することも宅地を選定する上で重要な条件であったと考えられる。これまで、天皇に関係する邸宅(院)跡では発掘調査が行われており、園池を伴う寝殿造り庭園を付属していることが判明している。こうした宅地内に池を造営するという邸宅様式が、土地の選定に大きな影響を与えていたと推定される。_IV_.まとめ1)平安京条坊地割内部の土地利用は、様々なスケールの地形環境と密接にかかわる。その中でも特に天皇に関係する邸宅(院)の分布は、微地形に対応する。2)平安京の天皇に関係する邸宅(院)は、現在の価値観では宅地としては不適当な土地条件として評価される旧河道・谷地形を取り込みながら選定されており、土地に対する価値観の相違が認められる。文献金田章裕 1993. 『微地形と中世村落』吉川弘文館.高橋学 1994. 古代末以降における臨海平野の地形環境と土地開発. 歴史地理学167 : 1-15.河角龍典 2001. 平安京における地形環境変化と都市的土地利用の変遷. 考古学と自然科学42 : 35-54.
  • _-_ドイツ大都市郊外における"aging in place"_-_
    岩垂 雅子
    p. 134
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    “aging in place”とは、高齢者が出来る限り住み慣れた住宅や場所に住み続けることを意味し、加齢によって低下した身体的機能を補う様々な住宅機能の開発にともなって1980年代以降アメリカで急速に普及した概念である*。近年わが国でも、地域社会における高齢者の生活支援のあり方に関する議論で耳にする機会が増えている。本研究では、ドイツの大都市郊外に住む高齢者の“aging in place”と、彼らが住み続けることを可能にしている地域社会について考察を試みる。ヨーロッパの中でも高齢化の進展が著しいドイツでは、「相対的な」団塊の世代ともいえる1940年前後生まれの世代**がちょうど高齢期に突入し、とりわけ大都市圏郊外で急速に高齢化が進んでいる。もともと、ドイツの都市部では単身または夫婦のみで暮らす高齢者の割合が高く、日常的に自立した生活(とりわけ子どもからの自立)を強く指向する傾向にある。一方、彼らがかつて世帯形成期に住み始めた郊外の住宅地、あるいは住居そのものは、身体機能の低下や子どもの転出という加齢による住要求の変化にともなって、余分な居住空間の維持・管理、庭の手入れ、外出の際の移動手段の確保など、高齢期の生活に様々な不都合をもたらしている。にもかかわらずドイツでは、完全看護が必要になる段階に至るまで長年住み慣れた地域に住み続けることを大多数の高齢者が望んでいる実態が報告されている(Friedrich,1995)。そこで本研究では、ドイツの大都市郊外に住み続ける高齢者が、住み慣れた住宅地で自らの居住環境にどのように働きかけ、また、子どもや近隣・友人との繋がり、地域社会の福祉サービスなど彼らの生活を支える物的・人的環境がどのように構築されているのかという点について、ハンブルク市で実施した調査結果や資料をもとに多角的に検討する。注*“aging in place”の定義は必ずしも明確ではないが、一般的に”growing older without having to move”と解されている。最近では、救急通報システムや配食サービスなど自宅で生活を続ける高齢者向けの商品や、要介護になっても居住を継続して必要なケアが受けられる高齢者向け住宅商品などの総称として“aging-in-place products”や“aging-in-place technology”という表現もみられる。**本来、ドイツにおけるベビーブーム世代は1953年_から_64年生まれであるが、1930年代は経済恐慌の影響で、また1940年代半ばから1950年代初頭までは第二次世界大戦の影響で一時出生率が低下したため、相対的に1940年前後のコーホート集団が量的に突出する形になった。文 献Friedrich, K. 1995. Altern in raeumlicher Umwelt. Steinkopf, Darmstadt.
  • 田口 雄作, 中澤 努
    p. 135
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 荒川扇状地は、埼玉県寄居町岩崎付近を扇頂とする東_から_北西に開き、荒川によって形成された扇状地である。本扇状地は解析扇状地で、現扇状地面にはいくつかの段丘が発達している。本扇状地の不圧地下水については、従来から多くの研究があるが、これらの段丘を考慮して地下水のあり方を検討した例は少ない。演者らは渇水期と豊水期に相当する2002年3月と7月に、本扇状地の不圧地下水の測水を行い、従来とは異なる結果を得たので概略を報告する。また、扇端部に存在すると考えられる深谷断層との関係についても予察的な考察を加えたので、合わせて報告することにする。2.地下水面図について 本扇状地面を3つに大きく区分し、時代的に新しい方から、低位面(現扇状地面)、中位面(立川面)、高位面(武蔵野面)と呼ぶことにする。いずれの面の不圧地下水も地下水が河川を涵養するような地下水面形状を示している。地下水面の傾きは高位面に於いては比較的緩いようであるが、中位面及び低位面に於いては比較的急である。この傾向は、渇水期及び豊水期ともに同様であった。3.地下水位の年変動について 扇頂部及び扇央部における渇水期と豊水期の水位差は2m未満であったが、高位面ではそれ以上を記録したところもあった。とくに、荒川沿いの低位面及び中位面では、その差が1m以下のきわめて水位が安定している地域が帯状に連なっている。 一方、中位面及び低位面では、その差が1.5mを超え、1.5mの水位差を示す等値線は、深谷断層の位置にきわめて近いところに引かれる。4.地下水位と深谷断層との関係扇頂部から扇端部にかけて地質断面を切り、渇水期と豊水期の地下水位とを比べてみると、明らかに、深谷断層の位置する辺りで地下水位が極端に低下するように見える。これは深谷断層が、地下水瀑布線としての役割を果たしている可能性もあることを示唆していると考えられる。本報告ではその可能性を指摘するに留め、今後さらに研究を進めて行くつもりである。5.湧水について本扇状地の段丘崖や扇端部には多くの湧泉が存在するが、渇水期には涸渇するものが多い。豊水期における湧水は、扇状地面の水田からの漏水によって成立しているものがほとんどである。6.水質について扇状地面に位置する井戸から採水をし、水質分析をした結果、本扇状地の不圧地下水は硝酸イオン濃度が高く、農業起源の人為的な汚染が見られることが判明した。7.まとめ 本報告の概要は以下の通りである。(1) 荒川扇状地に於いて、測水調査を実施した結果、地形面ごとの地下水面の形状を明らかにした。荒川から地下水への涵養はほとんど見られず、逆に、地下水が河川を涵養するような地下水面形状をしていることが判明した。(2) 深谷断層を境にして下流側の地下水位は極端に低く、断層が地下水瀑布線として機能している可能性を示唆した。(3) 本扇状地の不圧地下水には、農業起源と考えられる地下水汚染が見られる。
  • 文京区寿会館の事例
    西 律子
    p. 136
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに今日,施設から在宅へという福祉政策の流れのなかで,地域(社会)の役割が重要視されている.地域福祉を推進するにあたって,三本松(1998)らが提唱するのが福祉コミュニティ(論)である.三本松(1998:240-241)は,都市型社会のコミュニティについて,「住民が『生活』という点で関係をつくっている地域の範囲」において取り結ばれる「主体的な選択に基づく人と人との関係性」を表わすとし,そのうえで福祉コミュニティを,福祉社会を具現化する場としてのコミュニティであり,他者との絆を求めるという連帯意識に基づく開放型のコミュニティであると定義している.エイジングの経験は歴史的,社会的,地理的に特徴付けられる(パイン他2000)のであり,報告者は,都市居住高齢者にとっての福祉コミュニティを考えていくうえで,生産_-_再生産から離脱した者,さらに単身といった属性を押さえ,高齢者が生活するなかで関わってくる地域やそこでの関係性を捉えることが必要であると考える.ここでの地域は実体としての地域であり,物的環境,地表に刻み込まれた資本,歴史の記憶といったことを含む.2. 文京区寿会館での調査報告者は高齢者が関係を取り結ぶ場として寿会館(老人いこいの家)に着目し,2003年1月から3月にかけて,大都市圏内部にある文京区内の寿会館5ヵ所において利用者41人(うち単身高齢者24人)を対象に,寿会館の利用目的,そこでの社会関係についてインテンシブな聞き取りを行った.文京区の寿会館は,1971年に策定された「文京区基本構想」におけるコミュニティ構想のなかで,地域に開かれた,高齢者(60歳以上の区民)のための施設として位置づけられ,住区(コミュニティを形成するエリア)ごとに1館,距離にすると500メートル圏内に1館の割合で設置する計画で,現在17館に至っている.会館での事業は1972年から開始され,週4日無料で入浴ができるほか,月1回無料の健康相談,健康教室,さらに地域で結成された高齢者クラブの活動拠点ともなっている.会館によって差はあるが,1日平均約40人の利用がある.3. 緩やかな「高齢者の社会」の構築聞き取り調査の結果,単身高齢者の寿会館を媒体として取り結ばれる社会関係については次のことが明らかとなった._丸1_利用のきっかけは「知合いに誘われて」が8割,「自分で探して」が1割,「親族が探して」が1割である.ここでの知合いは居住年数が長い人は近隣における顔見知りであり,居住年数の短い人は日常用品を購入する商店主や通院中の病院のスタッフなどである._丸2_利用の目的は入浴のみが4割,入浴とサークル活動が4割,サークル活動のみが2割である.入浴にかかる費用節約のためだけではなく,入浴を通したふれあいも通所の動機づけになっている._丸3_寿会館が徒歩圏内にあるという近接性,簡易な登録手続きによって使用できるといった利便性が使い勝手のよさを提供している._丸4_会館で催される高齢者クラブ主催のサークル活動へは,居住年数が長く,町内会の老人会で親しい高齢者同士がメンバーとして参加しており,居住年数の浅い単身高齢者は活動に参加するきっかけを得にくい状況にある._丸5_エイジングによって,旧友との死別,また自身の体力が低下し,社会関係や行動範囲が狭まるなかで,対面接触による関係性構築の機会や場が生活圏域に開かれていることが利用者にとって意義深いものになっている.寿会館では高齢者クラブのように閉ざされた関係と入浴を通した開かれた関係が重層しており,利用者はそういったことを理解し,総体として地縁より緩やかな「高齢者の社会」が形成されている.単身高齢者が関係を取り結ぶ場の一つであり,福祉コミュニティ実践の一つの拠点となりうる.文献三本松政之1998.ボランティア活動と福祉コミュニティ.古川孝順編『社会福祉21世紀のパラダイム』誠信書房,231-248.Pain.R.,Mowl.G. and Talbot.C.2000.Difference and the negotiation of ‘old age’.Environment and Planning D:Society and Space:377-393.  
  • 峯 孝樹, 小野寺 真一, 重枝 豊実, 吉田 浩二, 齋藤 光代, 竹井 務
    p. 137
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    今日、都市からの生活廃水や農地起源の化学肥料の流入により河川の水質の悪化が問題になっている。本研究では農地と都市部が混在する流域において河川中の溶存窒素と溶存有機炭素に着目し、流量の変動にともなう成分濃度の変動を明らかにすることを目的とする。

    2.研究地域及び方法
    広島県のほぼ中央部を流れる黒瀬川を対象とした。河川延長50.6km、流域面積238.8km2の二級河川である。東広島市の並滝寺池を源とし、西条盆地、黒瀬盆地を南流し、呉市広から瀬戸内海に注いでいる。地質は主に広島花崗岩類、高田流紋岩類からなり、西条盆地、黒瀬盆地には西条湖成層が分布している。主にモニターした地点は並滝寺池より約17km流下した地点にある落合橋である。特にここでは5月14日から15日にかけて発生した総降雨量37mmの降雨イベント時の結果を示す。また洪水時には流量を測定し、採水も行なった。採水したサンプルはその場で電気伝導度とpH、水温を測定し、また実験室に持ち帰り、イオンクロマトグラフィーを用いて主要陰イオンの濃度、全有機体炭素計を用いてDOCを測定した。流量は河床断面を随時測量しながら水位-流量曲線をもとめ、水位を自記記録した。

    3.結果と考察
    1)降雨による窒素成分の変化
     降雨時及び無降雨時の陰イオン濃度の比較を表1に示す。無降雨時においてはNO2‐N濃度がNO3-‐N濃度をはるかに上回っているが、降雨時においてはNO2‐N濃度が消失し逆にNO3‐N濃度が上昇している。
     またCl濃度は約3分の1に低下していることから、降雨によって河川水が約3分の1に希釈されていることが示され、イベント時において消失しているNO2‐N濃度の変化は、3分の1程度の希釈低下では説明することができない。一方でNO3‐N濃度は上昇している。以上の結果、洪水時、酸化的な水の増加にともない急激に硝化が生じていることを示唆している。
    2)降雨時の濃度変化
    図1に各成分の濃度と流量の時間変化を示す。流量が増加するに伴い各濃度は減少しており降雨による各成分の希釈が起きていることが示された。
     図2に各成分のフラックス及び流量の時間変化を示す。流量にかかわらずNO3‐Nフラックスは一定であることからNO3‐Nの起源は降雨にかかわらず変化しないと推察される。DOCフラックスにおいては流量とともに増加していることから降雨イベントの発生とともにDOCの起源も増加していると考えられる。
  • 神楽坂地区を事例として
    牛垣 雄矢
    p. 138
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1 江戸・東京の都市発達にともなう外郭における見附の役割と見附地の性格 江戸城外郭の見附は,外堀建設当初から市街地が急激に拡大する明暦の大火以前においては,城下町を外部から守る外郭の城門としての役割を担っていた.しかし明暦の大火以後,市街地が外堀を越えて拡大すると,外郭は城下町の中でも城郭内外を区分する役割を担い,城門である見附も,通行を厳重に取り締まった.明治になると,通行上,郭内外を区分する外郭・見附の意味はなくなるが,明治以降の都市施設の配置,都市基盤の整備などが,城郭の内外の区別を明確にして行われたために,外郭・見附の影響は明治以降も存続していた. 見附の性格は場所により異なり,新橋付近から浅草付近まで広がる下町の商業地の中間に設けられた浅草見附や筋違見附は通行が自由であるのに対して,山の手方面の見附は,郭内外を明確に区分するために,厳重な取り締まりが行われた.また,見附の外側に展開する地域(以後,見附地とする)の性格も場所により異なる.下町においては水陸交通・運輸の要所として,市や盛り場を形成したのに対し,山の手方面は,河岸地として商業的に賑わうことがなかった.しかし,江戸の拡大にともない,外郭を越えて展開した武家地に生活物資を提供すため,また治安や風紀の乱れにつながる歓楽街などの必要性により,山の手方面の外堀の見附地には,中小規模の町屋が形成された. 明治になると,浅草見附・筋違見附・数奇屋見附など下町商業地の見附地は,水陸交通の要所で,広い交差点を有し,経済的に重要な役割を担ったのに対して,山の手方面の見附地は,住宅地や軍事関係その他の公共施設として利用され経済的な機能の集積は遅れていたため,下町商業地における見附地に優れた研究蓄積があるのに対して,これまであまり研究されてこなかった.しかし,小石川,牛込,四谷,赤坂など,旧東京市の区名が見附の名前を用いていることからも分かる通り,これら山の手方面の区域における町屋の集積は,見附地において展開し,現在に至っている.しかし,これらの見附地は時代ごとに都市内部における位置づけを変化させており,それにともなった地域の変遷が見られる.2 江戸から現在にかけての神楽坂地区の変遷 神楽坂地区は,慶長年間の江戸城の重要な5つの出入り口の一つである牛込御門から伸びる街道沿いに位置していた.しかし,江戸期において街道の重要性は低く,町屋は拝借地にわずかにできたにすぎず,明治になってからも主要街道として発展することはなかった.しかし,明治中期の日清戦争以後になると,江戸期に岡場所のあった寺社境内から起きた料亭が,周辺の軍事施設や大学の軍人や学生を対象として栄えた.戦災復興は非計画的に進行し,昭和20年代後半には料亭街としても活気を取り戻し,高度経済成長期まで栄えた.料亭とその関連業で栄えたため,料亭が衰退した現在では,商業的集積は進行せず,江戸からの街道や建物割の影響を受けた形で,部屋単位で入居するオフィステナントの進出や個人経営の飲食店が集積している.
  • 山梨県早川町赤沢集落を事例として
    向井 真行
    p. 139
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    高度経済成長期以降の都市部への人口の過度の流出が続いた山間地域では,家並み保存・再生によって集落の旧態を維持したり,観光開発を目的とした歴史的な家並みを活かした取り組みにより,地域活性化を図っている地域がある.しかし,それらの地域の多くは,結果として,山間地域に一般的に具現している過疎化・高齢化を抑止するには至っていない.そこで,本研究では,家並み保存・再生が地域存続のための主要因となっている山梨県早川町赤沢集落を研究対象地域とし,_丸1_集落の歴史的変遷による空間構造・生活形態の変化の様態,_丸2_過疎化・高齢化の進行や,歴史的・社会的変化の中で,家並み保存・再生を行う必要性と意義,_丸3_家並み保存・再生が地域に対して,どのような効果を与えたのか,_丸4_家並み保存・再生活動に対する居住者意識・評価について明らかにしていく
  • 寺園 淳子, 大森 博雄
    p. 140
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 台地面上に降った雨水が地下に浸透し浅層地下水となって流下し湧出する過程で,雨水から湧水への水質の変化は,水―地質(岩石)相互作用による自然変化過程と台地面上の人間活動に起因する負荷による人為的変化過程とに大きく分けて見ることができる.人間活動による水質変化を理解する上では,これらニ過程における水質変化を把握する必要があると考えられる. 本研究では,東京都市圏東部に位置し,都市化が急速に進展している下総台地北西部を対象とし,湧水水質と地質(段丘堆積物)や流下距離との関係を吟味してみた.2.調査地域 研究対象地域は千葉県の下総台地北西部である.標高15~30mの台地面と樹枝状に入る谷の沖積低地(標高2~9m)からなり,両者は急斜面で接する.台地面は,北部は下総下位面,南部は下総上位面に区分され,上位面と下位面は高差3~5mほどの緩斜面で接する.坂川‐手賀沼構造帯と呼ばれる相対的な低高度域も地域内に存在する.湧水は谷沿いに見られるが,湧水地点の高度および台地面との比高は多様である.台地の地層は下位より上岩橋層・木下層・龍ヶ崎砂層・常総粘土層・武蔵野/立川ローム層となる.3.調査方法湧水採水・水質分析:台地上の各種土地利用が網羅され,空間的に分布が均質になるように湧水地点を選定し,60地点で採水を行った(2002年7月).採水時に水温・EC・pHとアルカリ度を,実験室でNa+・K+・Ca2+・Mg2+・Cl-・NO3-・SO42-の主要無機イオン濃度およびSiO2濃度を測定した.台地の比高の計測:浅層地下水が通過する堆積物層序や流下経路の長さを反映する指標として,台地面と湧水地点との比高を取り上げ,都市計画基本図と地形図から湧水地点の標高,台地面との比高を計測した.段丘堆積物の採取と抽出水の水質分析:流山常磐新線建設現場の露頭(下位面)および千葉ニュータウンの国道464号線沿いの露頭(上位面)で各層準の土層を採取し,抽出水を作製,主要無機イオン濃度およびSiO2濃度を測定した.4.結果と考察台地の比高と湧水水質との関係:湧水と台地面との比高が大きくなるにつれてSiO2濃度が増加し,各無機イオン濃度の増加が見られる.比高_-_濃度散布図の基底部に見られる変化「基底水質線」は,浅層地下水が段丘堆積物中を通過する際の自然的水質変化を示すと判断された.地質層序と抽出水水質との関係:地表面からの深度が大きい土層ほど,SiO2濃度が増加する.無機イオン濃度については,層序による明確なまとまりは見られない.抽出水水質と湧水水質との関係:抽出水水質と湧水水質との関係で最も問題になるのは以下の2点である.1)抽出水ではNa+の割合が大きいが,湧水水質では,Na+はCa2+よりも少ない.2)水_-_地質(岩石)相互作用が進むと,イオン交換によりCa2+/(Ca2++Na+)比は減少すると言われているが,本研究の湧水において推定された基底水質線では,Na+濃度よりCa2+濃度の増加率が高く,かつ,Ca2+/(Ca2++Na+)比も下方ほど増加する.各層準の抽出水の化学特性から推測される水質と湧水水質との間の「矛盾」については,地層中の鉱物による溶出速度の違いと地層中での滞留時間の大きさが関与すると考えられる.
  • 知念 民雄
    p. 141
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1 目的マクロファブリック(macrofabric、レキの空間的配列構造)にもとづいて地形プロセス(レキの集合体の流動や運搬様式)を推定あるいは復元する研究がある(山本, 1990ほか)。一方、地形プロセスがすでに判明している場合の特徴的ファブリックを検討することも重要なアプローチである。後者に主眼をおく本研究(予備的踏査)の目的は、フランスアルプスのエギュイグリーヴ(Aiguille-Grive)山地において、岩石氷河の表層を構成する岩塊の2次元ファブリックの特徴を明らかにし、ファブリックと岩石氷河上面の微地形との対応関係を検討することである。2 研究地域と方法エギュイグリーヴ山地はブールサンモーリス(北緯45°37′東経6°46′)の南東に位置する。その最高峰は標高2732mであり、南北にのびるアレート状の分水嶺は約2500mの定高性をしめす。地質はおおむね、標高2000mより下部は頁岩、山稜の急崖部は硅岩、その間は片麻岩で構成される。硅岩からなる山稜には割れ目が密度高く縦横に走っている。山稜の直下には岩塊地がひろがり、表層が硅岩からなる化石型岩石氷河--平面形は耳たぶ状と舌状をしめす--が分布する(知念, 1995, 2000)。岩石氷河上に8個、崖錐に1個、成因不明瞭な岩塊地に2個の方形区(ほとんどが20mX20mの正方形)を設定した。岩石氷河上面の場合、航空写真判読と現地調査にもとづいて微地形を把握したうえで、畝?溝状微地形が等高線方向と斜面傾斜方向に卓越する場所を選定した。各方形区から大きい岩塊(平均径は50cm以上)を約50個抽出し、各々の長軸方向を8方向に区分して記録した。岩塊長軸の平均方位(vector mean)と平均方位への集中度の指標としてのベクターマグニチュード(vector magnitude)(Krumbein, 1939)を算出して考察に供した。3 結果岩石氷河上面の岩塊長軸が斜面最大傾斜方向に一致する度合い(平均方位とベクターマグニチュード)は崖錐や線状岩塊地より低かった。岩石氷河上面の岩塊のファブリックは構成岩塊の運搬距離や斜面最大傾斜方向より局所的な微地形に左右される傾向を示した。しかし、いずれも資料数が少ないのでさらなる検討を要する。
  • 高木 哲也, サーカー M.H., マーチン M.A., 小口 高, 松本 淳
    p. 142
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. 研究の意義
    バングラデシュの国土の大半は,ガンジス・ブラマプトラの二大河川によって形成されたデルタ地帯に位置するため,地形が非常に平坦である.また,雨季と乾季が明瞭なモンスーン地帯に位置するために,河川の流量の年変化が大きい.雨季には毎年のように洪水が発生し,大洪水の際には国土の約70%が浸水する.
    ブラマプトラ川では網状流が発達しており,その流路は年々変化している.また,1950年に上流域で大地震が生じて多量の土砂が河川に供給された結果,ブラマプトラ川の河道が不安定化したと考えられている.しかし,ブラマプトラ川の河道変遷を詳細に検討した研究は少ない.本研究では,衛星画像とGISを活用し,従来よりも詳細な河道変遷過程の解析を試みた.ブラマプトラ川の中州は乾季における人々の居住場所でもあるため,河道変遷解析の結果は洪水対策の基礎情報としても重要である.

    2. データおよび方法
    1973,76,78,80,84,87,89,92,94,96,98,99の12年について,バングラデシュ領域内のブラマプトラ川に沿う乾季のランドサット画像を入手した.このうち1987年以前の画像はMSS(解像度80 m),1989年以降の画像はTM(解像度30 m)である.教師つき分類を用いて,「川原」(現在の氾濫原と流路を含む範囲)の土地被覆を水面,砂地,草地に区分した.次に,解像度が異なるデータを同一の基準で処理するために,辺長240 mのグリッド内で最大の面積を占める土地被覆を判定し,解像度240 mのデータを作成した.
    対象地域のブラマプトラ川は,ほぼ南北方向に流下しているため,上記のグリッドのうち南北方向の座標が等しいものを連ねた帯状の範囲を「区間」と定義し,得られた833個の区間ごとに土地被覆データを集計した.

    3. 川原の幅の時系列変化
    1973年以降,川原の区間のうち当初は幅が狭かった部分が側方侵食によって拡幅した.とくに,1980年代中盤から1990年代前半にかけて急激な拡幅が生じたために,川原の左岸と右岸を連ねた線が直線的になった.その結果,全区間における川原の平均幅は8.3 kmから11.7 kmに増加し,川原の最大幅と最小幅の差は12.2 kmから8.9 kmに減少した.

    4. 流路の特徴の時系列変化
    全年次のデータを解析したところ,川原の幅が約7 kmよりも広いと幅が500 m程度の狭い流路が多く形成されるが,川原の幅が7 km未満になると幅が1200 mを上回る広い流路が生じやすいことが判明した.これは,川原がある程度狭くなると流路の分岐が制限されることを示す.前記のように,狭い川原の区間は1980年代に減少し,1990年代には幅が7 km未満の川原がほとんどなくなった.これにともない,幅の広い流路の分布も減少した.
    1970年代には,各区間における川原の幅と流路の数との間に比較的明瞭な正の相関が存在した.しかし,川原の狭い区間が急激に拡幅した1980年代には,流路の分布が複雑に変動し,上記の正の相関が不明瞭になった.その後,川原の侵食が沈静化すると,河川が川原の幅に見合った分岐をするようになり,川原の幅と流路数との正の相関が再び明瞭になった.

    5. 草地の分布の時系列変化
    土地が相対的に安定していたことを示す草地の割合は,川原の幅が元々大きかった区間で全期間を通じて高く,安定な中州を形成可能な空間の存在を反映する.一方,川原の幅が新たに増加した区間では,流路が不安定な時期を経たために,川原の幅が大きくても草地の割合が低い.

    6. 結論
    ブラマプトラ川では,1980年代から1990年代前半にかけて,川原の区間のうち元々は幅が狭かった部分が顕著に拡幅し,川原の中における流路の分布も不安定になった.しかし,川原の拡幅が沈静化した1990年代後半には,流路の幅と数が川原の幅に対応した一定の傾向を示すようになり,河川が新しい平衡状態に達したと考えられる.
  • 財城 真寿美, 松本 佳子, 塚原 東吾, 三上 岳彦
    p. 143
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに 今日,気候の過去の動向把握・将来予測が求められているなか,その解析のベースとなる全球規模のデータセットの整備が行われてきた.さらにその基盤となる地域ごとの,長期気候データベースの構築とその解析を行うプロジェクトがヨーロッパ諸国を中心に行われている. 一方日本では,1880年代以降の気象庁による気象観測データが一般的なデータセットであった.1880年代以前の観測記録については,ほとんど知られていなかったが,最近,財城ほか(2002)・Können et al.(2003)によって,1818年から1883年に出島(長崎)でオランダ人医師らによって行われた気象観測記録が報告された.その後,我々の研究プロジェクトによる追跡調査で,さらに東京・横浜・大阪・神戸での気象観測記録が明らかとなった.こうした19世紀以前の観測記録の汎用化によって,気象庁の観測記録と連結させ,より長期にわたる気候変動の解析が可能となる. 本研究では,19世紀の気象観測記録を気象データとして使用するために補正・均質化し,データベース化を行う.そして,19世紀の観測記録と気象庁の記録とを連結させて,19世紀以降の気候変動に関して考察を進めることを目的とする.19世紀の気象観測記録 財城ほか(2002)・Können et al.(2003)は,オランダ人医師らによる長崎(出島)での気象観測記録に関して報告を行った.その後,江戸(東京)での観測記録(1825-1827,1838-1855,1872-1874)の所在も明らかとなった.1838-1855年の記録は『霊験候簿』と呼ばれ,徳川幕府の天文方によって行われたものである(天野 1953).観測は主に,1日最低3回(不定時)行われ,気温は華氏,気圧はイングリッシュインチで記録されている.
  • 畑屋 みず穂, シアク ジャン, 小口 高, ジャービー ヘレン
    p. 144
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに
    地形学や水文学の分野では,河川の懸濁物質(suspended sediment)に関する研究が世界各地で行われてきた.懸濁物質の供給源は、斜面や河道沿いでの侵食,農地での表面流出,家庭・工業排水,建設活動など多様である.このため,地形,地質,気候,土地利用などの流域の諸特性と河川の懸濁物質濃度との関係が検討されてきた.このような自然・人文環境の多様な要素の解析には,電子データとGISの利用が有効である.日本では河川の懸濁物質と流域環境との関連を論じた研究は少ないが,この課題に関連するデータのデジタル化が官公庁によって進められている.英国では1990年代のLOIS(Land Ocean Interactive Study)プロジェクトにより,東部イングランドの水質と流域環境に関するデータベースが構築された.
    本研究では,懸濁物質濃度と上流域の諸特性との関係を検討するために,日本と東部イングランドに関する電子データとGISを用いた解析を行った.
    II.調査地域と使用データ
    日本については関東から中部地方の主要8河川(阿賀野川・荒川・信濃川・多摩川・天竜川・利根川・那珂川・富士川)の流域を検討対象とした.環境省の電子ファイルを用いて,1970年代末期以降に懸濁物質濃度の計測が150回以上行われた460地点における平均懸濁物質濃度を算出した.また,国土地理院のDEMを用いて各地点の上流域を表すポリゴンを発生させ,各流域の平均標高と平均傾斜を求めた.さらに,環境省の土地利用データと総務庁統計局の人口データを用いて,各流域の土地利用構成比率と平均人口密度を求めた.
    東部イングランドに関しては,この地域で最大の流域面積を持つハンバー流域(Humber Catchment)を検討対象とした.この流域には,Aire,Derwent,Don,Hull,Ouse,Trentの6つの主要河川が存在する.LOISプロジェクトを通じて整備されたデータベースを用いて,1986年から1996年に懸濁物質濃度の計測が100回以上の行われた339地点を抽出し,各観測地点の平均懸濁物質濃度を求めた.また,GISとDEMを用いて各観測地点の上流域を抽出し,各流域の平均標高と平均傾斜を求めた.さらに,LOISのデータベースに収録された土地利用と人口分布のデータを用いて,各観測地点の上流域の土地利用構成比率と平均人口密度を求めた.
    III.データ解析
    各観測地点の平均懸濁物質濃度は2から65mg/lであり,値の範囲は日本とイングランドでほぼ同一であった.平均懸濁物質濃度と上流域の諸特性との関係を,日本の8流域とイングランドの6流域ごとに調べた.その結果,大半の流域では,懸濁物質濃度が流域の標高,傾斜,自然植生の比率と負の相関を示し,人口密度と居住域の比率とは正の相関を示すことが判明した.ただし,天竜川,富士川,およびHull川の流域では上記の相関が不明瞭である.また,日本では懸濁物質濃度と農地の比率が正の相関を持つ場合が多いが,イングランドでは正の相関を持つ場合と負の相関を持つ場合がある.
    IV.考察
    懸濁物質濃度と流域特性との一般的な関係からみて,調査地域における懸濁物質の主要な供給源は,自然の侵食ではなく家庭・産業廃水や農地での耕作といった人間活動と判断される.一方,日本の山地では,崩壊などの自然の侵食によって粗粒物質が多量に生産され,河道沿いでは多量の掃流物質が運搬されている.したがって,日本の懸濁物質濃度の空間分布は,掃流土砂濃度の分布とは大きく異なるといえる.ただし,南アルプスや富士山という急峻な山地に沿って流下する天竜川と富士川の流域において,流域の諸特性と懸濁物質濃度との相関が低いことは,急斜面での自然の侵食による細粒物質の供給がある程度活発なために,自然と人為の影響が相殺している可能性を示す.
    イングランドの流域の標高と傾斜は日本に比べてかなり小さいため,懸濁物質濃度に対する自然の侵食の影響は,日本よりもさらに小さいと考えられる.懸濁物質濃度と農地の比率とが正の相関を示すDerwent川とOuse川の流域には都市が非常に少ないが,明確な負の相関を示すTrent川の流域には多数の大都市が含まれる.Trent川流域の大都市近郊では,家庭・産業廃水の影響により懸濁物質濃度が上昇しているが,これらの地域では都市化により農地の比率が顕著に低くなっており,そのために懸濁物質濃度と農地の比率に負の相関が生じたと判断される.なお,Hull川の流域は非常に平坦で,全域で農地が卓越するため,各観測地点の上流域の特徴が酷似している.このために,流域の諸特性と懸濁物質濃度との関係が不明確になったと考えられる.
  • スーリ ババク, 渡邊 眞紀子, 森島 済, ロンダル ホセ, コラード マリオ
    p. 145
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    フィリピンの丘陵地帯では水稲の増産を目的として乾季の水不足を解消する小規模ため池灌漑プロジェクトSWIPが国策として展開されている。しかしながらその社会経済効果は必ずしも期待通りとなっていない。SWIP建設をとりまく自然、社会・経済環境を把握し、問題点を明らかにする。
  • 老人福祉センターの設置状況を事例として
    和田 康喜
    p. 146
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
     本発表では,老人福祉センターの設置状況について報告する.老人福祉センターは,老人福祉法(1963年制定)で定義された高齢者向けの余暇施設である.おおむね60歳以上の人の利用を念頭においており,無料または低額の料金で,入浴・カラオケ・囲碁・将棋などを楽しむことができる.報告者が,2002年7_から_8月に埼玉県川口市と上福岡市に居住する老人福祉センター利用者を対象として行った聞き取り調査より,_丸1_ブルーカラー層(低所得者)の利用が多く,_丸2_身体機能が衰えている人や身の回りに友人がいない人にとって,老人福祉センターが人と接触する貴重な場となっていることが明らかになった.つまり,老人福祉センターは,外出が制約される人や社会的接触に恵まれない人の余暇の受け皿となっていると判断できる.
     上記した高齢者の老人福祉センターまでのアクセシビリティを考える際には,老人福祉センターの設置状況を明らかにする必要があるが,既存研究では十分に検討されていない.そこで,本発表では,老人福祉センターの利用状況などを考慮して,市町村内における老人福祉センターの設置状況に関して考察を加える.
    2. 調査の設計
     この点を考察するため,都市化が急速に進展した地域がある一方で,農山村としての性格を有する地域が存在するという地域の多様性を考慮して,埼玉県を事例として取り上げた.埼玉県内にある全市町村(90市町村)を対象に,2002年7月と9月の2度,各市町村の担当部署宛てに調査票を郵送した.質問項目としては,老人福祉センターの設立年,利用者の定員,2001年度の開館日数および利用者数,設立の経緯,送迎バスの運行状況,利用料金などを用意した.90市町村中85の市町村から回答を得ることができた.
    3. 埼玉県内の老人福祉センターの設置状況と利用状況
     回答のあった85市町村のうち66市町村に103件設置されていることが確認された.ちなみに,全国では,2001年現在,東京都・大阪府・愛知県などの大都市圏を中心に, 2,270件設置されている. 85市町村を「都市部」(DIDが設置されている自治体)と「非都市部」(DIDが設置されていない自治体)とに大別してみると,全国同様,「都市部」に位置する自治体に多く設置されており,「非都市部」では設置されていない自治体も散見された.
     老人福祉センターの利用状況に関しては,利用者の定員と,2001年度の開館日数および利用者数に関する回答のあった69件を対象としてみると,「都市部」の方が利用率(利用定員に対する1日あたり利用者数の比)が高くなる傾向が見られた.しかし,「都市部」に位置する老人福祉センターの中でも,市町村内の設置場所により利用率に差異があった.DIDの範囲内(「中心部」)に位置する老人福祉センターに関しては,利用率の高い施設が多いのに対し,DIDの範囲外(「周辺部」)に位置する施設に関しては,利用率の低い施設が多い.なお,「都市部」に位置する老人福祉センターの約半数は,市町村内の「周辺部」に設置されている.
     当日の発表では,巡回バスの運行状況を考慮した分析結果や,老人福祉センターが「周辺部」に設置されている市町村を事例として取り上げ,設置の経緯などを紹介する.
  • 重枝  豊実, 小野寺 真一, 藤崎 千恵子, 成岡 朋弘, 西宗 直之
    p. 147
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに近年、酸性雨問題や森林環境保護への対応のため森林流域における渓流水の水質形成に関する研究が精力的に行われてきた。水質の決定要因は、流域内の水文過程、地形過程、生物地球化学過程及びそれらの相互作用によるものである。土壌中では、CO2の水への溶解によって生じたH+が化学的風化作用により消費されることによる結果として、CO2は絶えずHCO3-として固定されている。すなわち、この生成された渓流水のHCO3-フラックスは酸中和能としての意味をもちアルカリ度と定義される。本研究では、酸緩衝能が比較的小さい花崗岩からなる流域で、渓流水のアルカリ度の変動を評価することを目的とした。2.研究地域及び方法試験流域は花崗岩が広く分布する広島県竹原市に位置する山地小流域である。標高30_から_130mにあり、流域面積は約1.55haで、年平均降水量1187.5mm、地質は花崗岩となっている。また、この地域は過去に山火事などの土壌撹乱にあい、二次林で覆われている。調査方法として、渓流水が定常的に存在する場所にVノッチ堰を設け、そこで渓流水の採水及び流量測定を行った。採水時にはpH、電気伝導度の測定も行った。調査は1999年から現在まで継続している。採水した試料水は実験室に持ち帰り、pH4.8アルカリ度硫酸滴定法によりアルカリ度を定量した。基盤地質が花崗岩であり炭酸塩鉱物をほとんど含まないこと、また渓流水のpH5_から_7の間であることから大部分 HCO3-の形態であると考えられる。3.結果と考察1)渓流水中のHCO3-濃度の季節変化 ここでは、2000年のデータで解析した。HCO3-濃度は5月中旬から10月中旬まで濃度が上昇し (0.08_から_0.15meq/l)その後低下傾向となり、他の季節では約0.07meq/lと一定の濃度を形成している。この原因としては、夏季において動植物の活動及び有機物分解の活性と温度上昇による風化速度の上昇が考えられるが、この年は一年を通して降水量が少なかったため、より滞留時間の長い深層の地下水が流出している影響もあると考えられる。2)雨季における渓流水中のHCO3-濃度変動渓流水中のHCO3-濃度は雨季の影響もあり、全体的に平年よりも小さくなっている (Fig.1)。これは、平水時には河川水が地下水から形成されているが、雨季における連続した降雨により継続的に地下水との混合が生じ、雨季を通してHCO3-濃度が比較的低くなったと考えられる。また流量が比較的大きい時、つまり降雨イベントの規模が比較的大きい時は多少のHCO3-濃度の低下が見られるが、ある一定濃度(0.04meq/l)よりは低くならないことがわかる(Fig.2)。以上より、イベントが連続する雨季における渓流水の形成には、イベントの大小に関係なく降水が飽和地下水と混合し徐々に希釈されながら流出することが明らかになった。-3)イベント時における渓流水中のHCO3-濃度の変化 2003年7月3日の累積降水量が25mmのイベントの結果をFig.3に示す。渓流水中HCO3-濃度は,降雨開始時に3時間後で低下しているが、それ以降は降雨が強くなってもほぼ一定の値を示す。以上のような小規模なイベント時には地下水流出が渓流水の水質形成に主に寄与していることが明らかになった。すなわち、イベントでは地下水中の希釈は生じないことが確認できた。
  • 大久保 茂子
    p. 148
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに 琵琶湖東岸地域は隆起する鈴鹿山脈と沈降する琵琶湖との間にあり,河成段丘は湖岸東方の沖積低地で埋没している.当該地域の段丘ではテフラのなどの対比指標が少ないため,湖岸段丘の編年は進んでいない.沖積面下ではATテフラとそれを挟む腐植土層や泥層が確認されることにより,低位段丘と湖底段丘との連続性が報告されている植村・横山(1983).本発表では植村(1979)や植村・横山(1983)以降に得られたボ_-_リングデ_-_タや河成段丘堆積物のデータから、琵琶湖東岸地域の地形発達史に関わる二、三の新知見について報告する.
    チャネル堆積物・河道変遷 調査地域における沖積低地のボ_-_リングでは,類似した深度に腐植土層やシルトが連続的に確認され,これらの中にはテフラが挟在する(図1).このテフラには無色透明のバブルウォ_-_ル型火山ガラスが多量に含まれ,その屈折率からATテフラであることが確認できた.腐植土層の上位には部分的にチャネル堆積物とみられる砂礫層が存在する.ATテフラの層準から最終氷期後半以降における日野川の河道変遷がある程度推定できる.
    埋没段丘と湖底段丘との連続性 河床縦断面図によると腐植土層の上位と下位の砂礫層は,日野川沖の湖底段丘との連続性がよく,埋没段丘礫層と考えられる.ATテフラより上位の砂礫層は2層に分かれ,下位の礫層は愛知川低位段丘_II_面と共に第2湖底段丘との連続性がよく(図1),上位の砂礫層は第3湖低段丘との連続性がよい.また,上位の砂礫層と同層準のシルト層中には,無色透明と淡茶褐色のバブルウォル型火山ガラスが混在し,これらはK-Ah由来の火山ガラスの可能性がある.以上のことから最終氷期後半や完新世に現在よりも湖面が低く,低位段丘や沖積段丘が現在の琵琶湖まで伸張していたことが推定できる.
    湖底段丘・河成段丘からみた第四紀後期の地形発達 琵琶湖東岸地域における沖積低地のボ_-_リングデ_-_タと段丘堆積物との層序関係を細かく追うことによって,湖底段丘と河成段丘との関係,第四紀後期における地形発達史に関わる二・三の新知見を得た.すなわち,植村(1979)の日野川低位段丘_II_面はATテフラ降下以前に発達し,植村(1979)の愛知川低位_II_面よりもむしろ低位段丘1面に対比される可能性がある.また,日野川は現河口の北東方に第3湖底段丘を発達させ,その後,南西に流路を変え,現在の河口位置となったことが考えられる.ボ_-_リングデ_-_タからは既知のATテフラ以外にもいくつかのテフラが検出され,現在,その対比に関わる作業も進めている.これらのデータからさらに新たな時間軸が加われば,琵琶湖東岸地域の地形発達史の解明に役立つことが期待できる.
  • 神奈川県厚木市を事例として
    田島 幸一郎
    p. 149
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 鉄道駅前を中心に発達してきた日本の都市の多くは、現在中心商業地の衰退という問題を抱えている。それらの多くでは、1960年代以降、人口が急増した郊外地域を中心に、主要幹線道路沿いに新たな商業の集中が見られるようになった。郊外ロードサイド型店舗が発達した要因として、自動車普及率の増加や、中心市街地の地価の高騰、住宅地の拡大などが挙げられる。また、モータリゼーションの進展に伴い、道路の幅員が狭く、駐車場を確保することが困難な中心商店街は消費者のライフスタイルの変化に追いつくことができず、住民の最も重要な商業拠点としての役割を果たしてきた中心商店街が全国的に衰退してきているといえる。その一方では、中心商店街から郊外ロードサイドへの店舗の移転や支店の設営など、新しい局面も出ている。郊外ロードサイド型店舗は、中央の大手資本によるフランチャイズ店を中心に、さまざまな業種や形態の店舗が立地しているのが現状である。2.研究対象地域と目的本発表では、神奈川県厚木市を取り上げ、郊外ロードサイド型店舗が集中している地区の現状とその形成過程を明らかにするため、店舗の出店年代、業種、系列の有無、従業員数などを指標とし、郊外ロードサイド型店舗の実態を明らかにする。また、中心商店街との関係を、中心商店街からの出店動向などから分析する。方法は、店舗の開設年度や系列の有無を指標に、郊外ロードサイド型店舗と中心商店街のそれぞれの店舗分布図を作成し、また、双方を利用する買い物客の属性と意識に関する調査を行い、併せて分析した。 研究対象地域のある厚木市は都心から約50kmの距離に位置し、東京都心部への交通アクセスに優れている。また、一方では工業集積地としての性格を持つことから、人口吸引力のある都市である。市内を通過する小田急小田原線の本厚木駅周辺は大規模な小売店舗の集積が見られ、郊外ロードサイド型店舗は、駅から1km_から_3kmの距離に集中している。3.結果 郊外ロードサイド型店舗は、自動車による来店客を主な対象としており、買い物客は自動車によって駐車場の整備された店舗を自由に選択することができる。また、業種によって商圏が大きく異なっているのも特徴である。郊外ロードサイドのように、店舗が大規模になればなるほど店舗間の距離も広がることから、中心商店街のように軒を連ねることはない。また、商店街に見られるような組織が形成されにくく、各店舗の独自性が強いといえる。厚木市の事例では、郊外ロードサイド型店舗に中心商店街からの出店を含めた地元資本の進出が盛んであることがわかった。
  • 高島 淳史
    p. 150
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 中心市街地の衰退は、人口の郊外流出やモータリゼーションの進展を背景に全国的な問題となり、はや数十年が経つ。しかし、いまだ有効な対策がなされていないため、中心市街地の空洞化は進行している状況にある。そのため、現在中心市街地活性化の必要論、不必要論が議論されている。中心市街地再開発・再編成の必要性は以下のようにまとめることができる。_丸1_交流拠点としての「都市の顔」の役割、_丸2_コミュニティの保持、_丸3_都市のコンパクト化、_丸4_高齢者にとって住みよい環境、_丸5_環境に配慮した車に過度に依存しない生活の場である。以上のような観点から、全国各地で中心市街地活性化が行われている。本発表では、沼津市中心市街地活性化区域内の商店街を対象とし、中心市街地の現在までの経過を把握し、問題点を明らかにする。また、商店街の機能を把握した上で、商店街の活性化がどのように進められてきたのかを経年的に追う。その結果、商店街にもたらされた影響について考察し、活性化への問題点を探る。2.沼津市中心市街地の変遷1930年代の沼津市における商業の中心は、沼津港を核として旧国道1号以南にあった。しかし、1932年の西武百貨店をかわきりに、駅周辺に大型店が進出し、買い物客は交通の面でも便利な駅前に集まるようになり、旧国道1号以北に商店街が形成され、アーケードを整備し、商業の中心は移っていった。高度経済成長期が軌道に乗った1960年頃から70年にかけて中心市街地の人口は急激に増加したが、70年代に入るとモータリゼーションの影響を受け、中心市街地では人口流出が始まった。大型店(1000_m2_以上)については、1970年以降中心市街地に7店舗、郊外に38店舗と郊外化の傾向が強まっているといえる。 3.中心市街地活性化に向けての商店街の役割と活動大手町商店街、仲見世商店街の商店数、年間販売額は高く、依然商業の中心は駅南にあるといえる。一店舗当たりの年間販売額では、大手町商店街だけが際立って高い。仲見世商店街は店舗数が多いことで商店街の年間販売額を引き上げているが、各店舗の年間販売額は決して高くはない。一方、駅北は商店街ごとの商店数、年間販売額において、全体的に停滞もしくは減少を示している。また、駅北にあるイトーヨーカドーをキーテナントとしたイシバシプラザは、大型駐車場を完備しており、徐々に売上を伸ばしている。駅南の大手町商店街、仲見世商店街と駅北のイシバシプラザを活性化の核として、以上の現状より中心市街地の各商店街は、さまざまな年間行事を企画実践し、中心市街地のイメージアップと認知度の向上を図っている。また、若手を中心とした商店主の間に、まちづくりNPO設立の動きもあり、本格的な活動が始まっている。
  • 山田 功, 木村 富士男
    p. 151
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
    雲の存在は日射の遮蔽や放射を通して大気に影響を与えるため、雲量に関する研究は気象学、気候学にとって非常に重要である。水平スケールの小さな雲であっても大気放射への影響は大きい.しかし,陸上に出現する小さな雲は,大規模な雲に比べ衛星による観測が難しく十分な解析が行われていない。また下層にできる積雲は、地形の影響を強く受けると考えられるが、空間分解能の制限から数値モデルでの取り扱いも難しい.このため観測データを用いて小さな雲の雲量について明らかにすることが重要である。
    これまで、晴天日の山岳域を対象とした日照率(一時間のうち日照があった時間の割合)の研究がなされており、日照率は山では午後に急激に低下すること、盆地では一日を通して高いことが指摘されている(木村、1994)。しかしながら平地を対象とした日照率の研究は行われていない。そこで本研究では夏季晴天日の関東平野における日照率について明らかにすることを目的とする。
    解析方法
    データはアメダス日照時間の一時間値を用いた。解析に用いた晴天日は、対象領域内のアメダス観測点における一日の日照時間の平均が6時間を超える日とした。また観測点を地形によって沿岸、内陸(平地)、山、及び盆地の4種類に分類し、日照率を比較した。さらにゾンデ観測のデータから相対湿度の鉛直プロファイルと日照率との関係について考察した。
    結果
    各観測点における晴天日の平均的な日照率を地形別に平均した(図1)。以前から指摘されていたような山岳域における地形依存性に加え、平坦な地形であっても日照率に有意な差のあることが明らかになった。平坦な地形である沿岸(COAST)と内陸(INLAND)の日照率を比較すると沿岸のほうが一日を通して高い。特に銚子のような岬で高い傾向にあった。
     ゾンデ観測データにより輪島と館野の相対湿度について比較したところ、より内陸に位置する館野では下層で相対湿度のピークを持つことが多かった。このことから日照率の差と混合層の発達との関係が推測される。
    しかし、沿岸と内陸の日照率の差は山と盆地の日照率の差より小さい。また夕方以降は山沿いで日照率の低下が強く見られた。
    参考文献
    木村富士男 1994. 局地風による水蒸気の水平輸送-晴天日における日照時間の地形依存性-. 天気 41:313-320.
  • 銚子電鉄を事例として
    土’谷 敏治
    p. 152
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 現在,日本の公共交通は大きな転換期に立っているといえる.自動車交通への依存度がさらに高まる中で,規制緩和と国による助成の削減が実施され,とりわけ大都市圏以外の地域では,各事業者の経営判断と地方自治体による政策的決断の必要性が増している. このような事態は,自らのインフラストラクチャーを維持・管理しなければならない地方鉄道事業者にとって,より深刻である.地方鉄道事業者の経営環境が,極めて深刻な状況におかれていることは周知の事実であるが,旧国鉄の地方交通線問題が一応の終結をみて以来,鉄道の存廃問題はしばらく沈静化していた.しかし,上記のような動きの中で再びその存廃問題が論議され,実際に廃止される鉄道路線がみられるようになった.このことは,従来の独立採算制の枠組みの中では,既に経営の限界に達している事業者が現れていることを示している.他方,いずれの鉄道路線にも,日常生活を営む上でその路線を必要とする利用者が存在する.今後は経営補助の視点ではなく,都市計画や地域の交通政策の中で,鉄道をはじめとする公共交通機関を位置づけていかなくてはならない段階にきているといえよう. ところで,鉄道路線の存廃を論議するにしても,また助成制度や交通政策を検討するにしても,まずその鉄道路線のおかれている現状や利用状況の把握が不可欠である.そのうち経営側の視点に立った分析は,当該事業者の経営上の資料から可能であるが,利用者側の分析は利用者や沿線居住者に対する新たな調査が必要であり,一部の鉄道路線を除いて十分な資料が入手困難な状況にある.今回,千葉県銚子市の銚子電鉄について,利用者に対する調査の機会を得た.本研究では経営側の資料とあわせて,この調査結果をもとに銚子電鉄利用者の特徴やその利用状況についての分析を行い,銚子電鉄が抱える課題や展望について検討を加える.2.銚子電鉄の旅客輸送パターン 銚子電鉄は,営業キロ6.4km,地方鉄道の中でもとりわけ小規模な鉄道である.その路線は,銚子市の中心部に位置しJR線との接続駅でもある銚子を起点に,市域の南東端に位置する外川を結んでいる. したがって,旅客輸送パターンは,銚子とその他の各駅間の輸送が中心であり,定期外の輸送ではとくに銚子・犬吠間の観光客の輸送が顕著である.このような輸送パターン以外では,沿線に立地する高等学校や小学校への通学輸送や,旧市街への買い物・用務客の輸送が注目される.時間帯別にみると,もちろん通勤・通学時間帯に輸送量が集中するが,とりわけ午前の通学時間帯における,上記の学校最寄り駅付近での集中が顕著である. しかし,このような旅客輸送の営業収入は営業経費を下回って欠損を生じている.他方,旅客輸送以外のいわゆる副業による収入は旅客収入を大きく上回り,それによって旅客収入の欠損を埋め合わせている情況にある.3.利用者特性 銚子電鉄利用者の特性を明らかにするため,乗客の性別・年齢などの属性や,利用目的・利用頻度・乗降駅・他の交通機関との乗り継ぎなどの利用状況についてのアンケート調査を実施した.その結果,調査時1日の銚子電鉄利用者総数の1/4強と考えられる回答を得た. 回答者の約3/4は銚子市在住者であったが,その半数以上が通勤・通学を利用目的として挙げている.その数は,利用頻度が週4日以上の回答者数とほぼ一致し,両者の対応関係は明らかである.しかし,定期乗車券利用者数はこれよりも少なく,通勤・通学利用者の定期乗車券購入率低下を裏付けている.通勤,通学に次いで,買い物や遊びに出かける際の利用が多いが,これら利用目的でも週単位の利用者が多く,全体として銚子電鉄利用者の利用頻度は高いといえる.このことは利用者の銚子電鉄に対する評価にも表れ,好意的な評価や存続を望む意見が多い.また,パークアンドライドに代表される自家用車や自転車との連携は不十分であるが,銚子駅におけるJR線との乗り継ぎ需要はかなり存在すると考えられ,両者の連携強化が求められる. 銚子市以外の在住者では,そのほとんどが観光目的の利用で,11月の調査時期から考えても,銚子電鉄に対する観光需要は大きいと判断される.また,観光客の多くに,銚子電鉄自体を観光対象の1つとして評価する傾向が見らる.これらの観光客は,主としてJR線を経由して訪れており,観光面でもJR線との連携が望まれる.
  • 沼尻 治樹, 野上 道男
    p. 153
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の概要DEMと気候値メッシュデータ(1km×1km,月値)を使用して,グリッドタンクモデルによって流域水収支を推定する研究で必要となるタンクモデルの最適パラメータを河川流量データから推定する研究を行った.対象流域は,北海道の26流域である(Fig. 1).1km×1kmのグリッドに1つのタンクを置くタンクモデルを考案し,グリッドごとに算出される流出量を流域単位で集計して,月単位で河川流量データと照らし合わせを行い,その差異が最小になるように流域ごとにグリッドタンクモデルの最適パラメータを探索した.2.使用データとその処理 使用したデータは,空間解像度1kmの気候値メッシュデータ(気象庁)の月平均気温,月降水量,250m_-_DEM(国土地理院)を使用した.また,流量データは,1990_から_1999年の流量年表(国土交通省)から月平均値を計算した.データの処理にはC言語による自作プログラムを使用した. 流域の抽出は,先ず,250m_-_DEMの5×5範囲の最小値を用いて洪水法アルゴリズムによって落水線方向マトリックス(1km_-_DDM:Drainage Direction Matrix)を生成し,流域面積ファイル(水系図)を作成した.次に,DDMを逆順にたどるアルゴリズムを用いて流量観測所の上流域を特定し,流域コードで対象流域を確定した.3.流域水収支モデルについて 流域水収支は,分散型のグリッドタンクモデルの入出力を流域ごとに集計するという方法によって計算した.このグリッドタンクモデルは,飽和流出口,中間流出口,基底流出口の三つの流出口を備えている.このうち,中間流出口,基底流出口には流出率を設け,貯留高に比例した流出があるとした.また,タンクの上限から底までを第1容量(深さ),中間流出口より底までを第2容量(深さ)とした.すなわち,このモデルのパラメータは,中間流出率,基底流出率,第1容量,第2容量の4つである.4.積雪・融雪モデルについて 開発した積雪・融雪モデルは,これまでに構築したグリッドタンクモデルのサブモデルである.積雪と融雪は,気温によってのみ影響されるという単純なものを考えた.このモデルのパラメータは,降雨・降雪判別気温と融雪係数である.5.パラメータ探索法 冬季の北海道の流域では入力(降雨+融雪)がなく,流出は基底流出が主であると考えられる.そこで,融雪が始まる直前である2月の河川流量データとの適合が良くなるように,対象流域の基底流出に関わるパラメータ(第2容量と基底流出率)の自動探索を行った.次に,融雪流出のない月について河川流量データとの適合が良くなるように,流出に関わるパラメータ(第1容量と中間流出率)の自動探索を行った.
  • 加藤 内藏進, 野林 雅史
    p. 154
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
     1. はじめに 1990年代以降は,20世紀の中でも全球規模の温暖化傾向が顕著であったが,逆に8月になっても梅雨前線が本州から北上仕切れない年が多かった。しかし一方では,例えば2001年のように,本来なら日本列島全体を亜熱帯高気圧が覆うようになる7月下旬頃から(本来ならば,Ueda et al. (1995))の指摘したconvection jumpの起きる頃),東北日本で急に低温傾向へと転じる年が多く見られるようになった(例えば,図1の仙台における2001年夏の日平均気温の時系列参照)。但し,南西諸島_から_西日本では猛暑傾向が持続した。更に興味深いことに,7月のはじめ頃には平年よりも気温の高い状態を経た後,この様な冷夏傾向に変化するという特徴を2001年などは示している。 そこで本研究では,この様な気温の季節的経過の特徴が他の年についてもどの程度見られるのか,幾つかの地点の日平均気温の時系列を1971_から_1998年について解析した上で,2001年に関する地上天気図上の梅雨前線の位置や出現頻度,大気循環場などについて解析した。 2. データ等 日平均気温の時系列は,気象庁編集のSDPデータ(CD_---_ROMび収録)から抽出した。なお,「平年値」に関しては,カレンダーの日付毎に28年平均したものを5日移動平均して各日の値を得た。また,気象庁作成の「印刷天気図」の各層天気図,「気象衛星観測資料」中の半旬平均GMS上層雲量(2゜×2゜毎),「気候系監視年報」中の各年の月平均500hPa高度や海面気圧,及び,同じく2001年の半旬平均値(5゜×5゜格子)等を解析に用いた。 札幌における月平均地上気温の平年偏差の7月と8月との散布図によれば(図は略),1章で述べたような気温の経過が1990_から_1998年の9年間で6つの年について見られた。それらの年について日平均気温の時系列を合成すると,東北日本での暑夏傾向から冷夏傾向へのアノマリーの反転が,7月下旬頃にかなり急激に起きることが示された。 3 .2001年における日々の地上前線の出現状況 1日2回の地上天気図上の前線出現位置の時間緯度断面によれば(図は略),6月下旬以降,大陸側では熱帯擾乱なども含む対流活動域が華南付近まで北上に伴い(大陸の梅雨前線は南下して熱帯の雲域と区別がつかなくなる)九州付近に亜熱帯高気圧が北偏し,梅雨前線が北上,その後ゆっくり南下して西日本の南海上で活動を弱めるというイベントが何サイクルか起きるようになる。このような亜熱帯高気圧の北偏傾向に対応して,7月前半には,東北日本でも平年よりも気温の高い状態が持続した。しかし,7月下旬頃には,前線の北側にオホーツク海高気圧が強まり東北日本で気温が急激に低温傾向に転じ,更に8月前半になると,フィリピン付近から南シナ海の熱帯収束帯は逆に若干南下し,日本付近の梅雨雲帯自体も弱まった。 4. 7月下旬以降の東北日本での低温傾向への転換の過程 図は略すが,7月下旬の気温のベースの低下は,東シベリアの(高温)500hPaリッジと東方の海域(低温)のトラフとのコントラストに対応して明瞭になった地上のオホーツク海高気圧の形成に同期していた。このような場の転換は,総観的には,7月22日頃に_から_60N/130Eに発生した850hPaでの低圧部が南東進して24日過ぎに140E以東に進むと同時に,50N/130E付近に高圧域が発達(ゆっくりとした移動),このため地衡風的な北東風が強まり,東北日本は冷たい海域からの寒気移流が間欠的に強化された(図2)。この25日頃の寒気移流に対応して,より下層である地上付近のオホーツク海高気圧の中心示度が高まるとともに,東北日本で急に冷夏に転じた点が興味深い。 その後は,一旦気温が上昇しても,「平年値」程度までしか上昇せず,その後の何回かの同様な北東からの寒気移流による気温低下イベントが起こり,8月半ばまでの顕著な低温傾向を維持していたことが分かった。今後は,7月前半までの前線帯の振る舞いに関係した過程が,この章で述べた内容の背景をもたらす過程と何がしかの強い関係があるのか否か,等についても調べていく必要がある。
  • 群馬県大泉町を事例として
    藤井 篤仁
    p. 155
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 1980年代後半からの景気拡大によって生じた労働者不足は外国人労働者の日本への流入をもたらした。1990年6月に行われた出入国管理および難民認定法の改正により不法就労者の締め出しが行われるようになる一方で、慢性化していた労働者不足を補う措置として3世までの日系人に対して定住者資格が与えられ合法的に就労できるようになった。1990年以降の日系人入国者は急増し、現在も増加傾向にある。本研究は、日系ブラジル人を対象とした。日系ブラジル人は集住している地区が限られている。集住している都市の特徴は、自動車・バイク、家庭用電気機器の生産が多い都市だということである。これらの職種が日系ブラジル人の来日直後の主な就労職種となっているためである。 日系ブラジル人の集住している地区の中から本研究では群馬県大泉町を研究対象地域として選び、日系ブラジル人の生活実態と生活圏について明らかにした。2.調査方法日系ブラジル人の実態の把握と行政の取り組みについて調査を行った。日系ブラジル人対象のアンケート調査を行い、属性(年齢、性別、日本語能力、家族構成、買い物をする店舗とその内容)を行った。そのデータをもとにブラジル関係の店舗の分布とその利用実態、生活圏を考察した。3.大泉町と日系ブラジル人 大泉町は総人口の約11%がブラジル人登録者である。これは全国的に見て、もっとも高い割合を示す地区であり、入管法改正以後、急増する外国人居住者に対し迅速な対応が見られたことで、今日に至るまで日系ブラジル人集住地区の先駆者的な自治体となっている。 大泉町では1989年に東毛地区雇用安定促進協議会が設立され(1999年解散)、合法的かつ人道的に日系人の雇用を行った。1990年の9月には町の外国人登録者数が1000人を突破し、学齢期の子供も増加したため10月には町内の小学校2校に日本語学級を設置した。1991年からは行政サービスや交通ルールのポルトガル語表記など生活に即した面での施策が進められた。その後、ブラジル製品を扱う店舗が増え、1996年には日系ブラジル人らが経営する店舗が一堂に集まったブラジリアン・プラザというショッピングセンターが開業し、日系ブラジル人にとって生活の便利さが向上した。1998年から現在にいたるまで、地域役員、外国人居住者、行政担当者による地区別三者懇談会が各地区で順に行われ、地域行事への参加などについての意見交換がされている。4.結果 大泉町に居住する日系ブラジル人は、年齢層の低い人たちや来日から日の浅い人、日本語の能力の低い人ほどブラジル製品を扱う店舗での買い物が頻繁である。また、ブラジル関係の店舗の分布では国道354号線沿いを中心にその立地が多く見られる。業種としては、食料品店、飲食店、衣料品店、人材派遣会社などである。これらの店舗の中には日系ブラジル人の情報交換などの場となっているものもあり、大泉町は日系ブラジル人にとって日常生活環境の整っている町であることがわかった。また、日系ブラジル人の生活圏はブラジル関係の店舗によって規制されていることもわかった。
  • 森田 圭, 野上 道男
    p. 156
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに日本の空中写真は1940年代から撮影され、100万枚以上の蓄積があり、地形・地質、災害、土地利用、植生などさまざまな調査、研究に利用されてきた。従来の植生図作成方法では、空中写真を判読し、その結果を地形図にプロットしていた。しかし、この手作業による方法では、中心投影で撮影された空中写真と正射投影の地形図との位置ずれによって、精確な位置を転写することができない。本研究では、空中写真を用いたデジタル写真測量によって高解像度DEMを作成し、そのDEMを用いて空中写真のオルソ補正を行った。これによって、過去の空中写真・衛星画像・地形図など異種データとの重ね合わせも可能となる。本研究では、カラー空中写真をRGBの3バンドに分解することで、衛星データ同様に扱い、データ処理を行った。ここで注意しなければならないのは、空中写真のRGBは可視域のみで、植生調査に重要な近赤外域は領域外である点である。オルソ化空中写真の判読から目視で植生図を作成し、これを真のデータとして、衛星データの場合と同じ自動分類によって作成した植生図と比較し、植生図作成方法の問題点を検討した。2.対象地域 対象とした地域は、飛騨山脈の南端に位置する乗鞍岳である。乗鞍岳は、日本の火山としては富士山・木曽御嶽山に次ぐ高さの火山であるが、有史時代の噴火記録はない。植生帯の概略は、2400m以上はハイマツ帯、1500m_から_2400m間は亜高山帯、1500m以下は山地帯となっている。しかし、局地的な植生分布は、傾斜の程度、日射や卓越風の様相、方位および土壌水分収束を決定するラプラシアンのような地形条件の影響を受けているものと思われる。3.使用データ・解析ソフト 解析には以下のデータ及びソフトウェアを使用した。・1977年9月_から_10月に撮影された空中写真61枚・ERDAS社製 IMAGINE 8.5 OrthoBASE Pro 8.5.1・自作Cプログラム、VBプログラム4.解析方法 解析方法の手順を示す(図1)。・テクスチャ分析においては、トレーニングエリア内で9×9ピクセル(パッチ)ごとの平均・標準偏差を計算し、画像全体のパッチごとの平均・標準偏差を正規化した上で類似パッチを探索する方法を採用した。・教師無し(付き)分類においては、ピクセル単位の分類画像(詳細すぎて植生図には不適)に、9×9の空間フィルターをかけ、植生図を作成した。以上の方法で作成した植生図と「真のデータ」とを比較し、精度検証を行った(図2)。
  • 野上 道男
    p. 157
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    公的制度上の地理学 いうまでもなく、研究分野の存在意義は学問的に評価されるべきである。しかしながら研究は社会や国と無関係に行われているのではないので、社会や国が外形的な制度として研究分野をどのように扱っているかは、評価として重要な部分を占めている。 地理学についての公的制度上での評価として、以下のような項目をあげることができる。1)初等中等教育における教科としての扱い2)研究科・学部・学科・専攻など大学制度上の位置づけ3)科研費制度における分科細目などの分類表上の位置と  採択件数・金額など4)日本学術会議において、研究分野を代表する会員数・  研連委員数などの配分率5)国・自治体による関連機関・研究所などの設置状況 学校教育地理教科の地位低下、主要国立大学大学院に於ける地理学専攻の消滅など、各種の制度改革が行われるたびに、制度上の地理学の評価は低下している。このことは科研費の配分制度や学術会議の機構のようにきわめて守旧的な制度のもとでは地理学が一定の地位を占め続けていることと対照的である。しかしながら、いわば最後の砦ともいうべき学術会議も現在機構改革のまっただなかにある。 現行の学術会議では、一部(人文社会学)に人文地理学が、四部(理学)に地理学が分野(代表)研連として位置づけられている。課題別研連として地図学研連がある。もちろんそのほか第四紀研連、太平洋学術研連など地理学の研究者が参加している課題別研連もある。現在検討が続いている学術会議改革案によれば、旧帝大の制度に倣った7部制は廃止され、新たに3部制(人文社会、生命、理工)をとるとされている。とにかく学問の分類が行われる限り地理学の分断は続くことになる。 さらに改革案によれば、これまでの研連は廃止され、連携会員(仮称:ほぼ現行研連委員数)によって課題別委員会が構成される。注意すべきは歴史的に固定されていた分野を代表する研連がなくなり、必要に応じて弾力的に作られる課題別委員会だけになるということである。時代や社会の要請に柔軟に対応するという方針のもとで、小さな分野が統合廃止されることは国立大学の改革をみれば明らかである。そのような状況ではあっても、地理学に携わるひとは地域・環境・情報をキイワードに、社会あるいは科学者コミュニティ、大学内において、地理学の認知度や評価を高める努力をすることが求められよう。 制度としての地理学の衰退にも拘わらず、学問としての「地理学」は非常な隆盛にある。多くの地理学研究者が細分化された孤立的研究課題に閉じこもろうとするいっぽうで、歴史的に地理学の分野であった古典的な課題に、隣接する多くの分野の研究者が参入してきている。その多くは、リモートセンシング、GIS、観測・分析手法など社会で通用する技術をもち、学問的伝統がない故に単純な決定論に陥ったりすることはあっても、環境・地域・計画などの面で「地理学」の内容を豊かなものに変えつつある。パネルディスカッションの内容 18期の地理学研究連絡委員会は、上記のような認識から、地理学は現在大きな転換期にあると考え、通常の任務に加えて、以下のような3のワーキンググループを組織し、1)物の豊かさから心の豊かさへという価値観転換期にお  ける地理学のあり方を検討する「地理的倫理」WG  座長: 中村和郎、戸所隆、小泉武栄、山口幸男、  安部征雄、中田高2)地理学の発展を支える技術的基盤を明確にし、実効あ  る方策を探る「技術基盤」WG  座長:岡部篤行、  鶴見英策、近藤昭彦、清水英範、春山成子、  (森田喬地図研連委員長)3)地理学の研究動向を見通し、適切な指針を与える「研  究動向」WG  座長:田村俊和、氷見山幸夫、  漆原和子、田辺裕それぞれ検討を深めてきた。 今回のパネルディスカッションでは、上記の3つのWGごとにテーマを定め、各WGの座長が司会、グループの委員がパネラーとなり、公開で討議を行う。時間が許す限り会場からの発言も取り入れたい。
  • 蒔苗 耕司
    p. 158
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     海成段丘面の形成は,地盤の隆起と海面変動の相互作用によることが明らかとなっている(吉川ほか,1964).しかし,その発達形態については,高海水面期に形成された段丘面が広く発達すると考えられているが,それに関する十分な検証はなされていない.本研究では,海面変動と地盤隆起,海食作用という3つの要因を対象とした海成段丘形成シミュレーションを行い,異なる諸条件のもとで形成される海成段丘面の縦断形について考察を行うものである.
    2.シミュレーションの方法 今回のシミュレーションは,海食作用の卓越する地域における海成段丘の縦断面形の算出を目的とする.段丘の縦断面形におけるシミュレーションを行うにあって,定義すべき条件として,原地形,隆起速度,海食速度,海面高度,海況がある.
    a)初期条件の与え方
     現地形を正確に復元することは困難であることから,ここでは任意の勾配を有する一次直線により定義する.
    b)隆起速度:第四紀を通じて地殻変動の様式・量は大きく変わっていないという考えから,隆起速度は一定とする.
    c)海食速度:海食速度は一定であったと仮定する.
    d)海面高度:海面高度は町田ほか(1980),Chappell and Shackleton(1986)の2種類の曲線を適用した.
    4.シミュレーションの方法
     シミュレーションの計算間隔は1KA,対象期間は400KAとしてシミュレーションを行う.図1に示すように,隆起速度Upに対し時間dt間に隆起させた地形面が海面高度に達した地点から海食速度Erだけ海水面レベルで水平に後退させる.従って汀線のx座標値は,海面高度と地形との交点のx座標値x1(ただしx1 ≦0)に海食速度Er(ただしEr ≧ 0)を加えた値x1 + Erとなる.この計算を繰り返すことにより,海成段丘の縦断面を得る.  一方,隆起後の斜面変化の数学的な解法として熱伝導方程式を適用できることが明らかとなっている.そこで平野(1966)の斜面方程式を得られた縦断面に適用する.ここでは境界条件を海面高度として,海面高度以上の地形面について dt = 1 KAとして差分し,計算値を得た.
    5.シミュレーションの結果と分析
     図2の縦断面形は隆起速度2 m/KA,海食速度20 cm/yearの条件下で得られた縦断面であるが,その断面形は室戸半島で得られている実際の縦断面(吉川ほか,1964)にかなり類似しており,旧汀線高度についてもほぼ一致している.図3に隆起速度,海食速度の違いによる各段丘面の広さ(縦断長)を示す.その結果,同じ隆起速度であっても,各段丘面の広さに大きな差が生じることが明らかである.これまでの研究においては,下末吉期の段丘より下位の段丘として80KA前,60KA前の段丘が顕著に発達すると考えられているが,今回のシミュレーションでは隆起速度が速くなるほど(1 m/KA以上),100KA段丘の発達が良くなる結果を得た.近年の火山灰層序学の知見から,段丘面の形成年代が各地で確定されてきているが,必ずしも下末吉期の段丘面が広く発達しているとは限らない.今回のシミュレーション結果は,このことと合致している. 今後はより詳細な検証を進め,隆起速度,海面変化,海食作用の相互作用による海成段丘の形成過程を明らかにしていく必要がある.
  • 高橋 信人
    p. 159
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 梅雨期、盛夏期、秋雨期において、日本付近を取り巻く下層循環場は大きく変化する。そして、それぞれの季節で、南シナ海_から_西部太平洋付近に発達する低緯度トラフは、低緯度から中・高緯度へ温暖湿潤な気塊を運ぶ役割を果たし、日本の季節推移や年々変動と深く関わっている。一方で、低緯度トラフが発達する領域は、台風活動が活発な領域と重なることから、両者の間にも密接な関連性があると考えられる。しかし、台風が発生する循環場などについての調査は多い一方で、台風活動が循環場の季節推移に与える影響についての調査はあまりみられない。そこで、本研究ではこのことを解明することを目的として解析をおこなった。2.データと解析方法 台風データは気象庁のTyphoon Best Track Data(1951-2000年)を用いた。このデータは最大6時間の時間間隔があるため、本研究では内挿法によって1時間ごとの台風位置を求め、時空間的により密なデータを作成した。また、循環場の解析にはNCEP(National Center for Environmental Prediction)の再解析値(1979-2000年、2.5゜グリッド、6時間ごと)の850hPa面のジオポテンシャル高度を用いた。また海面水温はReynolds SST(1982-2000年、1゜グリッド、週平均値)を用いた。 本解析では、従来の台風研究に多くみられる夏季、秋季という分け方ではなく、5つの期間(梅雨前、梅雨期、盛夏期、秋雨期、秋雨後)を定め、特に梅雨期、盛夏期、秋雨期の台風活動に注目した。まず、各年、各季節で5゜グリッドごとに台風の存在数を集計した。そして、各期間で、その年々の台風存在数について、0-40゜N, 100-170゜Eの領域において主成分分析をおこない、各期間の台風活動の年々変動パターンを明らかにした。次に、各期間の第1、第2主成分において、主成分スコアの上位、下位、それぞれ5年の850hPa面の高度の合成図を作成して、台風存在数との対応関係を調べた。さらに、スコアの上位5年について、直前の期間(例 盛夏期の主成分の場合は梅雨期)の海面水温分布の合成図、および、直後の期間から直前の期間の海面水温の平年偏差を差し引いた合成図を作成し、各期間で台風存在数が高い状態が発生する前の海面水温分布と、台風活動が海面水温分布に与える影響について検討をおこなった。3.結果 梅雨期と盛夏期では、台風存在数自体の年々変動を示すと思われる固有ベクトル分布が第1主成分に現れた(図1)のに対し、秋雨期では第2主成分に現れた。秋雨期の第1主成分(図2)は台風活動の東西方向の違いを示していると考えられ、その固有ベクトルの分布は梅雨期の第2主成分と類似していた。また、各期間の第1、第2主成分に注目し、それぞれの主成分スコアの上位、下位、それぞれ5年の850hPa面高度の合成図を作成すると、台風存在数の年々変動が850hPa面の高度と密接に関連していることが確認できた。また、このような台風存在数の年々変動に伴う循環場の差異は、例えば、梅雨期に北太平洋西部域で台風活動が活発な年には、西日本および中国大陸の前線頻度は減少する傾向があるなど、日本付近の前線分布にも影響を及ぼすことがわかった。 次に、各期間の第1、第2主成分のスコアの上位5年における直前の期間の海面水温分布をみると、いずれも台風存在数の高い領域が海面水温の南北勾配が大きい領域の暖水側にあることがわかった。また、各期間の第1、第2主成分のスコアの上位5年における、直後の期間から直前の期間の海面水温の平年偏差を差し引いた合成図をみると、いずれも、台風存在数が高い領域では海面水温が下降し、その北側(太平洋高気圧内)では上昇しており、直前の期間にみられた海面水温の南北勾配を解消する方向に作用していることがわかった(図3,4)。特に海面水温偏差が小さい年においては、台風活動によって海面水温偏差の分布パターンが大きく変わると考えられ、このことは直後の期間の台風活動および循環場に対して大きな影響を与えると思われる。  
  • 昭和初期を中心に
    前田  昌義
    p. 160
    発行日: 2003年
    公開日: 2004/04/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに 神立春樹は、『産業革命期における地域編成』(岡山大学経済学部、1987)において、産業編成論、地域編成論、生活編成論からなる産業革命研究を提起した。そして、地域編成論と生活編成論について、検討を加えている。 地域における工業の展開と地域の経済構造の変化、つまり地域編成は、近代における地域の変化を検討するうえで重要である。神立前掲書では、『岡山県統計書』等の統計を用いて、岡山県全体の地域編成と岡山市、児島郡、牛窓町(邑久郡)についての地域編成が検討されている。しかし、検討の中心となる年度は、大正中期までであり、「産業革命期」という限定では問題ないが、戦前期を通じての地域の変化をとらえるには、物足りないものがある。 本報告では、神立に倣い『岡山県統計書』等の統計を用い、昭和初期の時期についてとらえる方法を補足して、岡山県南西部の井笠地域(小田郡・後月郡)の近代における工業化と地域編成について検討する。2.井笠地域における工場展開 岡山県南西部の井笠地域は、笠岡町、井原町という町場を中心とし、中小の町場と畑作中心の農村からなる地帯である。この地域の工業展開についてみると、笠岡、井原という中心的な町場に明治20年代に工場(職工10人以上)が立地し、明治末までは、ほぼ工場はこの地域に限られる。明治末から大正期にかけて、笠岡・井原の周辺地域に工場が立地しはじめる。そして、それは、明治42年のみに判明する職工5人以上10人未満工場の展開を背景としている。こうした、職工5人以上10人未満工場の展開のうえに、職工10人以上工場の明治末から大正期の族生があった。 こうした大正期にかけての工場展開であるが、地域によって産業ごとの特色がある。また、笠岡、井原は、都市的な地域として、雑多な産業展開を特色とする。  この地域の、昭和初期の職工5人以上工場の展開は、大正期までの展開を受けて、後月の工業化は活発である。井原周辺への織物業の展開は活発であり、とくに高屋への集中が進む。3.綿織物工業の発展 こうした工場展開の主力は、とくに後月郡を中心とする織物業の工場である。早くから工場が立地した井原周辺の西江原、出部、高屋等に、織物工場が族生し、工業地帯を形成する。しかも、この織物工場は、綿小倉という特定製品へ集中した立地であった。 岡山県の織物業は、綿織物が大半であり、児島郡と後月郡という中小機業家中心の地域と岡山市、都窪郡(・倉敷市)、上道郡という紡績会社の兼営織布中心の地域とが中心であった。そして、児島、後月ともに、大正期から昭和初期、綿小倉へと集中することで、生産額を伸ばす。昭和初期には、岡山県が綿小倉の全国における独占的産地であった。岡山県の綿織物業の大正期の発展は、この児島、後月の中小機業家の綿小倉生産によって、支えられていた。4.生産総価額による検討 明治期には小田郡のほうが、後月郡より工場展開が進んでいたが、綿小倉に集中した織物業によって、明治末から大正期に工業展開が進んだ後月郡が小田郡を追い越してしまう。そして、生産総価額においても、総額はさほど高くないが、工業の比率の高さや現住1人あたり生産総価額が、岡山市や児島郡といった、県内でもっとも工業の展開した地域に近くなる。つまり、農村工業地となり、人口のわりには、高い生産総価額を持つように、経済発展をとげる。5.物産移出入による検討こうした、工業の展開を反映して、物産移出移入においても、地域の産物を移出し、原料等を移入するという移出入の特色が表れる。また、笠岡、井原は、中心的な町場として、この地域の物産移出移入の結節点であり、雑多なものが移出入に表れる。6.人口構成による検討 こうした、地域の工場展開を反映して、人口構成においても、変化をとげる。工業人口が岡山市等と近い比率を示す。ただし、大規模な紡績工場等はあまりなく、周辺からの通い職工中心と考えられる。こうした、工業やそれに伴う商業の発展により、笠岡、井原は他町村等から人口が集まり、人口が増加する。7.おわりに 明治末にはじまる、綿織物業の工場展開が、小田、後月という井笠地域の経済構造を形成し、これによって、人口構成等も大きく左右された。つまり、綿織物業を中心とする工業展開によって、地域編成が行われたのである。
feedback
Top