ドイツにおける18世紀初頭から現在の状況まで,ドイツ東部の海岸地域の観光及び健康目的の観光に特に焦点をあて,観光地の発展について検討する。ドイツにおける最初の観光の形は,中世の巡礼及び温泉地訪問に始まる。しかし,18世紀後半から19世紀初頭かけて,上流階級及び知識階級の旅においてレジャー及び娯楽のための観光が始まっているのが見受けられる。これらは,まだ珍しく,特権階級に限られ,諸外国にとって目立った行動であった。同時に,ドイツにおいて健康目的の観光の開発が始まった。1793年には,Heiligendamm(ハイリゲンダン)でヨーロッパ海岸域の温泉が初めて発見され,当産業の数ある上昇の一つが始まった。続く次の世紀において,温泉を訪れる人はまだ主に上流階級であり,温泉を訪れるのは主に社会的な理由によるもので,滞在は数週間にわたった。20世紀になると,ドイツにおける観光は,社会のすべての階級の人たちに提供されるものに根本的に変化した。観光が初めてレクレーション及び教育の中にもみられるようになってきた。1930年代においては,国による社会のすべての階級の人たちが楽しめる観光の確実な推進が,マス・ツーリズムの最初の兆候をみせた。ドイツの海岸に沿って,それぞれ20,000床を有するよく似た観光地が5つ計画されたが,Ruegen島(リューゲン島)にあるProra(プローラ)だけが実現し,残りは第二次世界大戦勃発のため完成しなかった。戦後,東西ドイツでは政治体制が異なったため,観光の発展は別々の道をたどった。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は北海及びバルト海の海岸線に沿った温泉や海に関する観光産業をさらに発展させた。西ドイツでは,すべての人々に対して一般に4週間継続する治療を施す社会システムが考案されたので,特に温泉地への訪問者数は大きな飛躍をみせた。西ドイツにおいて,約300の温泉地ができるという強力な発展を導いた。ドイツ民主共和国(東ドイツ)においては,観光について確固たる組織的なシステムが形成された。1950年代の初めには,すべての観光施設は民営化された。この国が存在した40年間,観光は中央集権化され,質及び量ともに足りないというのが特徴であった。その結果として,一般的なインフラ及び特に温泉のインフラは1990年代の初めには劣悪な状態にあった。それ以来,特に海沿いの温泉にある古い建物及び施設の再開発のために莫大な努力と資金が投入された。今日では,『温泉建築』の文化遺産は特別すぐれたものだと考えられており,後の世代のためにも保存の価値があると理解されている。社会主義時代後の時期には,変化という一般的な問題とは別に,新たな問題の兆候が出てきている。すなわち,観光地発展のライフサイクル段階の一つとして引き起こされる停滞という一般的な兆候である。これは特に,Mecklenburg-Vorpommern(メクレンブルク=フォアポメルン州)の海沿いの温泉における問題であり,それらは特に停滞する危険性が高いとされている4つのタイプのうち2つ,つまり「海岸観光地」と「温泉」が組み合わさっていることによる。これらの問題に対する新しい解決策を見つけなければならない。
抄録全体を表示