これまで、中央官人身分をもちながら在地に居住する者=「部内居住官人」については、官人としての立場から論じられることがほとんどなかった。本稿では、延喜二年四月十一日太政官符を中心とする関連史料を再検討し、官人制の視点から部内居住官人に関わる諸問題について見直す。また当該期以降における官人制自身の課題についても言及する。
部内居住官人による国司への対捍事例を分析すると、衛府舎人による課役の拒否、畿内周辺の諸司下級官人による田租・出挙の未納のように、官人の類型や活動地域によって対捍の内容に差があることがわかる。その点をさらに検討すると、令制の課役免除システムは、少なくとも延喜二年官符の当時まで、彼らに対して有効に機能していたことも判明する。
しかし延喜二年官符には、九世紀半ば以降、諸国が部内居住官人を「差用」してきたとの記述があり、彼らへの賦課があったことが強調されてきた。だがこれも彼らの課役免除特権の剥奪を意味するものではない。同官符が雑色人郡司の形成に関わりがあるとの指摘をふまえるなら、この記述は、国郡に一定の地位を得ることを志向する一部の在地有勢者に対して、諸国が彼らを国郡機構の中に編成してきた事実を述べたものとみるべきである。
延喜二年官符は、部内居住官人の全体に対して、その編成を目指したものであり、事実上の課役(雑徭)を賦課したものともいえるが、建前上はあくまで官人としての職務遂行を求めるものであった。この法制化を可能にした背景には、九世紀半ば以降の国郡機構の再編の中で形成された《官人の「公役」=白丁の「公役」》という論理があると考えられる。
以上の検討をふまえるならば、延喜二年官符の施行の意義とは、この時点での「課役」制度の改変ではなく、その背後にある令制的身分編成に基づいて機能する諸システム全体の改変の契機という点にあるといえるだろう。
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