天文五年(一五三六)に戦国大名伊達稙宗が制定した「塵芥集」は全一七一条にもおよぶ最大の分国法だが、小論はその成立過程を、主としてテキストに残された痕跡を手がかりに探ろうとするものである。
「塵芥集」は法としての一般化、抽象化が不十分なうえ、同じ規定が二ヵ条存在するなどの不備もあって長大化したが、その原因は稙宗がブレインに頼らず、一人でこつこつと書きためていったことにあった。
「塵芥集」の成立過程に関する研究としては小林宏の三段階成立説が有力である。小林は条数の少ない伝本ほど古いという前提に立ち、現存する四つの一次伝本を古いほうから順に猪熊本・狩野本(全一六三条)→佐藤本(全一六九条)→村田本(全一七一条)という三段階に分け、もっとも古い形状を示す猪熊本・狩野本の祖本に二度の改定が加えられた結果、最新版である村田本が誕生したとする仮説を提示した。
この三段階成立説は、通常の分国法にはまずみられないようなきわめて不自然な改定方法を想定しており、日付や稙宗の花押から得られる所見も改定がおこなわれた事実を支持していないことから、小論はこの三段階成立説を否定し、あらためて一回で完成したとする説を提示している。条数の少ない伝本は「塵芥集」の古い形状を示しているのではなく、たんなる誤脱という解釈である。
一方、「塵芥集」には排列の悪さというもうひとつの問題があり、とくに一五一条以降には孤立した条文が増えることに加え、本来ならもっと早い位置に置かれてしかるべき条文がいくつもあることから、小論は、一五一条以降の条文は一五〇条までの排列がいったん確定したあとに追加された条文であると結論している。ただしそれは追加とか改定というレベルのことではなく、あくまでも完成までの長い途次に訪れた一時的な中断にすぎなかったと考えられる。
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