史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
Print ISSN : 0018-2478
ISSN-L : 0018-2478
124 巻 , 4 号
選択された号の論文の9件中1~9を表示しています
論文
  • 河野 正
    原稿種別: 論文
    2015 年 124 巻 4 号 p. 1-37
    発行日: 2015年
    公開日: 2017/05/16
    ジャーナル フリー
     本稿はこれまで十分に注目されてこなかった高級農業生産合作社時期の諸問題について整理を行い、それを村落社会の中で考察するものである。中国共産党は土地改革の後、互助組から初級農業生産合作社、高級農業生産合作社、人民公社と進む農業集団化を執行して行った。その中で、土地改革や初級合作社、人民公社に比して高級合作社時期の分析は十分ではなく、その過程で発生する諸問題も十分な検討されてこなかった。
     また高級社化が極めて急速に行われたことから、これまでの研究では基層社会が既に伝統的村落自治が破壊され、上級に抵抗する力を失っていたことが指摘されていた。村落に団結して抵抗する力があるのか否かというのは、基層社会の在り方を考える上で重要な問題である。本稿では檔案史料を中心的に利用し、河北省を対象としてこの点について考察を行った。
     本稿の主な結論は以下の通りである。高級合作社時期には多くの問題が発生しており、高級合作社化、そして人民公社への移行は決してスムーズではなかった。また基層社会の側ではこれらの問題に対し、村として結びつき、他村や上級に対して積極的に対応していた。最終的に合作社の多くは分社を要求するようになり、その結果、分社が促進され、数村一社、一郷一社の規模であった高級社が、一村一社にまで解体されることとなった。農民たちは自らの積極的な抵抗により分社を勝ち取ったのである。このように、1950年代後半の河北省の村落においても中共の影響力は限定的であり、それに対して基層社会の側は団結して対抗していたのであった。
研究ノート
  • 岡本 真
    原稿種別: 研究ノート
    2015 年 124 巻 4 号 p. 38-62
    発行日: 2015年
    公開日: 2017/05/16
    ジャーナル フリー
     本稿は、従来大内氏の独占時代とされてきた寧波の乱後の遣明船派遣の実像を明らかにするため、史料上に「堺渡唐船」と記される遣明船について、関係諸勢力の立場、搭乗者と派遣目的、歴史的位置づけの三点を究明した。その結果明らかになった事柄は以下の通りである。
     まず、関係諸勢力については、『天文日記』やその他の古文書等に見られる遣明船が、いずれも「堺渡唐船」を指すことを確認したうえで、同船の派遣を中心となって推進したのは、細川晴元と堺商人だった点を論証した。また、本願寺や土佐一条氏は協力者に過ぎず、大内義隆や畠山稙長は同船の派遣を阻止しようとしていた点を指摘した。
     次に、搭乗者と派遣目的については、その解明に先立ち、新史料である『活套』所収外交文書二通を紹介し、同書の収録内容や文書末尾の年月日をもとに、これらが「堺渡唐船」関連文書であることを明証した。そして、これを根拠に、従来の遣明船と同様に朝貢使節としての形態を整えたうえでの派遣が図られており、正使は忠叔昌恕という禅僧で、ほかに医師半井明英も乗り組むことになっていたことを指摘した。また、派遣目的は、寧波の乱の際に明側に留められていた前回使節の朝貢品の献上、同使節の遺留品の返却、収監されていた宋素卿の送還、新勘合および新金印の下賜、半井明英の明医学伝習の許可などを要請することだった点を解明した。
     それから、歴史的位置づけについては、寧波の乱後に足利義晴・細川高国が明側とおこなった交渉の延長上に「堺渡唐船」があることを明らかにし、従来の研究では存在が確認されていなかった嘉靖准勘合に関する考察をもとに、状況の推移を論じた。また、大内義隆の経営した天文八年度船と同船を比較すると、寧波の乱の際の遺留品の返却や新勘合の獲得などが、両者に共通する派遣目的だった点を指摘した。
     そして、以上を踏まえて、これまで大内氏の独占時代とされてきた寧波の乱後においても、それ以前と同様、遣明船をめぐる同氏と細川氏の抗争が継続していた点を明らかにした。
  • 佐々木 政文
    原稿種別: 研究ノート
    2015 年 124 巻 4 号 p. 62-85
    発行日: 2015年
    公開日: 2017/05/16
    ジャーナル フリー
     本稿は、1910年代奈良県下の被差別部落において、寺院や神社を媒介とする民衆教化政策がいかなる形で実施されたのかを、地域での信仰活動の変化と関連づけながら検討したものである。
     奈良県下の被差別部落民は、浄土真宗を第一の信仰対象とする一方、神祇信仰や国家祭祀に対しては消極的であり、さらに他の地域から氏子組織上の差別を受けている場合が多かった。これに対し、日露戦争後に県が実施した部落改善政策は、来世信仰の改革、「真俗二諦」説の強調、氏子差別の解消、神棚の設置、国旗掲揚の普及、大神社への参拝奨励といった様々な手段を通して、彼らの国家意識を強化しようとした。本稿ではこの過程を、近代日本の民衆教化政策が、従来地域一般の信仰生活から排除されていた人々を神社祭礼の体系に取り込んでいった過程として評価した。
     同時に、日常的に部落住民との関係が深かった被差別部落寺院の僧侶には、部落改善政策の担い手となることが強く期待された。しかし、彼らは部落住民からの収入に経済的に依存していたことから、貯蓄・節約の奨励という県の政策を貫徹することが難しかった。このようななかで、県下の部落内有力者によって1912年7月に結成された大和同志会も、寺院・僧侶の部落改善事業参加に期待する一方で、檀家からの収入に依存する教団組織の体制を厳しく批判した。
     第一次世界大戦中の1916年以降には、県は部落住民の国家意識を高める目的から、被差別部落への神社導入を政策的に推進しはじめた。この政策の変化を受けて、部落単位でも各部落の有力者が中心的主体となって信仰改革が進められ、部落内の寺院に明治天皇遙拝所が建設されるなど、国家意識に繋がる新たな信仰形態が模索された。
書評
feedback
Top