立憲政友会の有力者であった前田米蔵は、5・15事件(1932年)後における政党政治批判の高まりに対し、いち早く1933年に「日本独特の立憲政治」論を主張した。日本の議会は天皇が設けたことを強調し、天皇の権威の下に議会政治、政党政治の正当化をはかったのである。
さらに前田は、貴族院議長近衛文麿を党首とする立憲政友会と立憲民政党の合同(保守合同)による近衛新党構想を進めた。近衛は議会外諸勢力の支持を得て首相候補と目されていた。前田は、二大政党による政権交代ではなく、近衛新党という、議会外の勢力とも連携する形による政党内閣の復活をはかったのである。
しかし、近衛新党が実現しないうちに1937年に第一次近衛内閣が成立し、日中戦争が勃発した。日中戦争の収拾に苦慮した近衛は、1940年6月、戦勝に向けた強力な挙国一致体制の実現のため新体制運動を開始し、7月に第二次近衛内閣を組織した。
近衛は挙国一致強化のため、新党ではなく、議会を含む各勢力の協調体制の確立をめざしていた。しかし、近衛の側近たちは全体主義的な政治変革をめざし、前田ら衆議院の主流派(旧政友会・旧民政党)は、議会勢力中心の近衛新党の実現をめざした。「日本独特の立憲政治」論によれば、挙国一致の中心はあくまで議会だったからである。
1940年10月に発足した大政翼賛会は全体主義的な色彩が強かった。前田は、近衛との信頼関係と難題処理の実績を評価されて大政翼賛会議会局長に起用された。しかし、前田をはじめ議会の大勢は翼賛会の全体主義的色彩に不満を抱いており、議会は大政翼賛会の改組や、議会弱体化政策の阻止に成功し、前田は衆議院勢力の指導的立場を保つことができた。近衛新党は実現しなかったが、政府の割拠性が続く限り、議会新党による政府の統合力回復という衆議院勢力の主張の正当性が失われることはないからであった。
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