史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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132 巻, 3 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2023 年 132 巻 3 号 p. Cover1-
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/04/26
    ジャーナル フリー
  • 2023 年 132 巻 3 号 p. Cover2-
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/04/26
    ジャーナル フリー
  • 中宮欣子と皇子をめぐる動向を中心に
    佐藤 一希
    2023 年 132 巻 3 号 p. 1-28
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/03/20
    ジャーナル フリー
     本稿では、寛政~文化期の光格天皇から仁孝天皇への皇位継承過程における、中宮欣子(光格正配)と光格皇子をめぐり生じた諸問題への対応から、当該期の光格天皇の政治姿勢と朝廷運営の特質を検討した。
     中宮欣子は後桃園天皇皇女として、光格天皇の皇位の正統性を担保する存在で、寛政期に中宮とその所生皇子温仁(ますひと)親王は、次代への皇位継承を考慮する上で重要な地位にあった。しかし、温仁親王の死去により、結果的に中宮所生皇子の皇嗣冊立は果たせず、文化期に後宮の勧修寺(かじゅうじ)婧子(ただこ)所生の恵仁(あやひと)親王が皇嗣に冊立され、中宮「実子」として養育される方針が定められたが、中宮から親王の居所を移させるなど、良好とは言い難い関係性がみられた。
     光格譲位の意向は、文化8年(1811)段階で朝廷内にて内々に示されていた。だが当時の朝廷では、中宮欣子や勧修寺婧子など天皇母をめぐる問題が多発しており、その影響もあり譲位の意向はこの段階では幕府へ表明されなかった。
     文化10年(1813)の譲位表明後、朝幕双方でその準備が進むが、その最中、再度中宮に皇子が誕生する。この段階で恵仁親王への譲位は揺らがず仁孝天皇が受禅したが、譲位後の文政期には、中宮所生の高貴宮(あてのみや)(仁孝実弟)への皇位継承が高い可能性を有して存在していた。しかし、当該期に高貴宮を含む皇子・后妃の死が相次いだことで、再度朝廷は皇統断絶の危機を迎え、この状況に対し、光格は鷹司家息女を仁孝へ再入内させる方針を提示した。鷹司家は光格の実家である閑院宮家と近い血縁関係にあり、「閑院宮系」血統から仁孝以後の皇統を補強しようとしたものと評価できる。
    寛政~文化期における光格天皇の政治姿勢と朝廷運営の特質は、以下の3点に整理できる。①寛政中期以降の光格天皇は、自らと次代の朝廷内における地位・権威の補強との課題に直面し、それが朝廷運営に影響していた。②文化中期に次代への皇位継承に関連して中宮欣子・後宮女房をめぐる問題が多発したことで光格の譲位は遅滞し、一連の問題への対応で中宮欣子や後桜町上皇の存在が重視されたように、両者の意向が政治動向へ大きく影響する状況にあった。③文化期には、皇位継承に起因して生じた軋轢・問題へ対応する方策として、幕府の財政負担により皇族の居住空間をめぐる建築政策の実現を朝廷が期待する側面があり、それは当該期に朝幕協調体制の再構築がなされるに至った朝廷側の具体的な背景の一つとして位置づけることができる。
  • 水上 香織
    2023 年 132 巻 3 号 p. 29-53
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/03/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、二〇世紀初頭に太平洋航路上を北米方面に進んだインド人移民が繰り返し直面することになった入国拒否措置と、それに対するインド人移民の抗議活動の展開について、カナダ、合衆国本土、フィリピンの全体を視野に入れながら解明を試みた。
    インド人移民たちは、まずカナダで、次いで合衆国本土で、さらに合衆国領フィリピン経由での合衆国本土渡航に関して、法文上では必ずしも自分たちに対して門戸が閉ざされているわけではないのにもかかわらず、実際には高い確率で入国拒否にあうという事態に直面した。こうした状況は、英米両国が掲げた理念や法と移民管理の各現場における実態との差異によって引き起こされていた。他方、インド人移民たちは入国許可に関する判断が各現場での法の運用に左右されることに機会を見出して、カナダや合衆国本土で入国を拒否された後にも不服を申し立て、入国拒否措置を撤回させることがあった。マニラ経由での合衆国本土上陸経路も、インド人移民たちが入国拒否後の再審査要請を経て入国許可の先例を作ったものであった。
    マニラ経由での合衆国本土上陸さえもが阻まれるようになると、カナダでのインド人入国拒否問題について抗議経験のある政治運動家G・D・クマールがマニラのインド人移民に合流した。彼らは在マニラ・インド人協会を設立して、イギリス臣民としてインド政庁やイギリス政府に保護を求めながら合衆国本土への移動権を主張した。しかしながら、イギリス帝国当局による対策は講じられなかった。こうしたなかで、彼らは汽船「駒形丸」に乗船し、インド人のイギリス帝国臣民としての権利を強調しつつカナダ入国を試みたが、最終的に入国を許されなかった。マニラのインド人移民たちは、北米での入国拒否問題に抗議する過程で自分たちの権利がイギリス帝国臣民として尊重されないことを繰り返し経験しており、そのことは彼らと反英運動との接近を促す要因となった。
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