殷周史における社会構造の解明は、国家形態を論じる上でも重要な課題である。春秋期に関しては、社会構造に関連する邑の氏族制的側面として、『春秋左氏伝』(『左伝』)に見られる「国人」や「<国号>人」がいかなる存在であるかが注目されてきた。これまでの研究では、この両者が同一の存在として捉えられることが多かったが、今回の検討を通して、同じ文脈で語られる記事では、「国人」と「<国号>人」とが書き分けられている点を見出した。
「国人」は、春秋初期においては、先君や現君の「同族」以外の「同宗」たる傍系公族を示しており、それが異姓をも含む人々へと、次第にその範囲が広がっていったが、春秋末期まで基本的に国都内の人に限定されていた。一方、「<国号>人」は、春秋初期においては、異姓をも含む「国人」よりも広い範囲の人々を示していたが、次第に国都内の居住者を示しつつも、力役を担う「民」の一部とも重なるようになり、春秋末期では、国都外の人をも示すようになった。
また、出土文献である清華簡『繋年』に見える「人」についても検討したところ、『繋年』では「国人」が1例もなく、もっぱら「<国号>人」で記されている点が見出された。「国人」が見えない点については、国際関係の叙述を旨とする編纂方針に絡んでいると考える一方、『繋年』の「<国号>人」は、『左伝』のような特定の集団というよりも、「<国号>に属する人」の意味しか持たせていない点が明らかとなった。このことは、『左伝』の「<国号>人」が春秋末期になると、国都外の人をも示すようになる変化に繋がるものであった。
「国人」と「<国号>人」とが異なる人々を示していたとすれば、論じるべき課題は多々あるが、新たな出土文献の出現により、伝世文献では見出すことの難しかった歴史的な展開を明らかすることができたのである。
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