史学雑誌
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130 巻, 4 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2021 年130 巻4 号 p. Cover1-
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/09/16
    ジャーナル フリー
  • 2021 年130 巻4 号 p. Cover2-
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/09/16
    ジャーナル フリー
  • 人口移入と公田経営からみた
    小林 文治
    2021 年130 巻4 号 p. 1-37
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/04/20
    ジャーナル フリー
    本稿は巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への遷徙傾向の比較を出発点に、統一秦における洞庭郡遷陵県の開発の状況を検討する。岳麓書院蔵秦簡や里耶秦簡を見ると、巴蜀地域と洞庭・蒼梧両郡への刑徒や「従人」の遷徙例では①遷徙目的、②移動の禁止、③移送方法が共通している。これは洞庭・蒼梧両郡が置かれると、戦国秦において成立した巴蜀地域への遷刑が両地に援用されたことを示す。言い換えれば、新領土に外部から労働力を供給して開発を行うというモデルが巴蜀において完成し、それが洞庭・蒼梧郡に援用されたということになる。
    洞庭郡遷陵県の移入人口を見ると、巴郡と南郡からの移入が多数を占める。この傾向は周辺郡がすでに秦の習俗が浸透して久しく、同時に土着の習俗が洞庭郡のそれに近いので、洞庭郡の開発に便利であり、さらに秦による新領土経営の経験が洞庭郡経営に利用できることが反映されていると言える。
    刑徒の移入傾向を見ると、その多くが反秦行動に加担した者で、労働力として送られてきた者たちであった。彼らが遷陵県で主に従事していたのが公田の開発である。遷陵県の公田収入は県内で消費されていたが、消費量に対して遷陵県全体の生産量が少なく、他地域からの搬入に多くを頼らざるを得ない状況であった。洞庭郡への刑徒移送と公田経営は秦の六国統一後の「戦後処理」と統一秦の「新領土経営」を結びつける政策であるが、計画に比して実際は効果が上がっていなかった。本稿の検討結果はある地域における秦の統治過程を検討する際、郡を超える広域的な地域を想定し、検討することが重要であること、その時の歴史的事情が地域のさまざまな「活動」に影響を及ぼすことを示唆する。
  • 「隠蔽」される天皇
    井上 正望
    2021 年130 巻4 号 p. 38-63
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/04/20
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    本稿は、十~十三世紀の期間を主として、中世的天皇の形成過程の検討を行うものである。中世的天皇の特徴として、個人としての側面と機関としての側面の二面性を持つことが指摘されてきたが、そのような二面性の分化過程を、特に天皇の「隠蔽」に関する検討を中心に明らかにすることを目指す。従来古代~中世の天皇変質に関しては、その相対化ばかりが注目されてきたが、実際には形式的ながらも絶対化も並行して行われていたことを明らかにする。
     本稿で扱う天皇の「隠蔽」は、御簾と「如在」の利用を主とする。実在しない霊魂や神々を存在するとみなす中国の作法であった「如在」が、十世紀の日本では不出御の天皇を出御しているとみなす、天皇機関化作法に展開していたことを指摘する。そして村上天皇による母藤原穏子に対する服喪時に、清涼殿で「尋常御簾」を使用したことが、倚廬で服喪・忌み籠りしていて清涼殿に不在という天皇の個人的側面を「隠蔽」し、天皇は表向き清涼殿にいるとみなす「如在」の一形態であり、天皇機関化作法であることを述べる。これは、天皇の相対的な個人的側面を「隠蔽」し、機関化され表向き服喪することがない形式的ながらも絶対的な側面を維持する方便である。
     更に御簾に関する検討から、天皇の服喪姿「隠蔽」は仁和三年から昌泰三年までの間に成立したであろうことを指摘する。これは、九世紀後半以降、特に皇親以外の天皇即位などの天皇相対化に危機感を持った天皇たち自身による天皇機関化を背景とする。
     また「如在」については、皇位継承時の如在之儀を再検討する。これは本来皇位喪失による天皇「ただ人」化=相対化を「隠蔽」し、天皇を表向き皇位を喪失していない=「ただ人」化していない、形式的ながらも絶対的存在として扱う作法だったことを指摘する。
    以上から、天皇「隠蔽」による天皇の二面性分化明確化過程の検討を通して、中世的天皇の形成過程を明らかにする。
  • 制度と実態
    加藤 祐介
    2021 年130 巻4 号 p. 64-92
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/04/20
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    本稿は、明治中・後期(1888~1912年)における皇室財政の制度と実態について、基礎的な検討を行うものである。
    1888~1893年度においては緊縮財政路線がとられた。一方、この時期の宮内省内蔵頭の杉孫七郎は、平常の財政運営に関しても伊藤博文の指導力に依存する傾向があり、また主に元老によって構成される皇室経済会議が皇室財政を監督する体制を支持していた。
    1894年度以降、皇室財政は次第に膨張へと転じていく。そうした中で内蔵頭の渡辺千秋は、御料地経営の収益を組み込んだ統一的な財政制度の確立や、借入金の完済などを提起した。また渡辺は、杉内蔵頭の時代とは異なり、平常の財政運営に関しては、宮内省は自ら問題を処理する能力=専門性を備えつつあると認識していた。
    1903年以降、帝室制度調査局において皇室法の検討が活発化していった。同局および宮内省内での検討を経て、1910年に皇室財産令が、1912年に皇室会計令が制定・公布された。皇室財産令によって、皇室経済会議は宮相の「諮詢機関」である帝室経済会議へと縮小再編され、宮内省の専門分化が進展した。また皇室会計令によって、御料地経営の収益を組み込んだ統一的な財政制度が確立した。
    一方で、田中光顕(宮相)・渡辺体制下の宮内省は、財政基盤強化のためのアドホックな資金獲得に走るところがあった。日清戦争賠償金の皇室財政への編入(1898年)や国庫支出の皇室費の増額(1910年)はその典型である。宮内省は、前者によって借入金の完済に成功し、後者によって日露戦後の財政逼迫に対処したが、こうした対応は議会(国民)との間に一定の緊張を生じさせた。こうした明治中・後期における宮内省の対応のあり方は、議会(国民)との間の緊張を回避するという志向が明確に見られた1920年代のそれとは、大きく異なっている。
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