史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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127 巻, 12 号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 2018 年 127 巻 12 号 p. Cover1-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/12/20
    ジャーナル フリー
  • 2018 年 127 巻 12 号 p. Cover2-
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/12/20
    ジャーナル フリー
  • 清朝中央情報の伝播の一側面
    殷 晴
    2018 年 127 巻 12 号 p. 1-38
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/12/20
    ジャーナル フリー
    邸報(邸抄・京報・京抄とも呼ばれる)とは、宮廷の動静、皇帝の諭旨、大臣の上奏文を日ごとにまとめて掲載した小冊子である。清代の官僚と知識人、そして中国に滞在していた宣教師や外交官にとって、邸報による中央情報の共有は、社会情勢を把握するための重要な手段であった。
    しかし、邸報が実際に如何なる過程を通じ、誰の手によって発行され、流通させられたかについては、不明な点が数多く残されている。本稿では邸報の発行と流通過程を解明し、この過程に見られる清朝中央情報の伝播のあり方を考察した。
    『大清会典』における邸報についての規定は、実際には遵守されていなかった。諭旨と上奏文を集めて筆写したのは中央官庁に勤務する書吏であり、邸報の印刷も清朝の約三分の二の時期において、民間の商業出版者に委ねられていた。また、邸報の内容には諭旨と上奏文のみならず、王公の従者が私的に探った非公式の政治情報も含まれていた。中央政府は邸報による情報伝播に対し、内容の編集・審査も、印刷と配達用の資金の提供も行わず、誤報が摘発された際に関係者を処罰するという最小限の関与にとどめる姿勢を貫いていた。中央政府が政令を邸報を通じて積極的に公布しようとしたというよりも、むしろ、書吏と業者は地方官をはじめとする人々の中央情報への渇望に応じる形で、政府内部でやり取りされた情報から邸報という商品を作り出し、中央政府がそれを許容したのである。
    19世紀末になると、情報発信に対し受け身の姿勢にとどまっていた清朝中央の従来の方針は、近代化の要請に対応できなくなった。こうした状況の下、中央政府は1907年に『政治官報』を発刊し、さらには1911年にそれを『内閣官報』と改称して、「法律、命令の公布機関」と位置づけた。邸報と近代的な官報とでは、政策意図の面でも、発行と流通の仕組みの面でも、根本的に異なると言える。
  • 一八世紀イギリス陸軍将校の人的なつながりに注目して
    辻本 諭
    2018 年 127 巻 12 号 p. 39-64
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/12/20
    ジャーナル フリー
    本論文の目的は、一七七〇、八〇年代にイギリス陸軍の将校として主に北米で勤務した三人(ジョン・ピーブルズ、ジョン・エニス、トマス・ヒューズ)の従軍記録をもとに、彼らが軍隊勤務を通じて形成していた人的なつながり(その広がりと具体的なありよう)を分析することにある。彼らが取り結んだ人間関係を、軍隊内部と対市民社会の二つの領域に分けて検討すると、以下のことが明らかとなる。
    まず軍隊内部においては、戦時・平時の諸任務を共同で遂行することを通じて、将校の間に強固な結びつきが見られた。その範囲は、当時の活発な人事異動や流動的な部隊配置を反映して、個々の中/連隊の枠をはるかに超えるものであった。勤務時間外における会食やさまざまな余暇活動(そこには将校の家族も参加していた)もまた、彼らの紐帯を維持・強化するのに寄与していた。さらに、下士官・兵士との間でも、密接な関係が結ばれる事例がしばしば見られた(将校付きの従者との関係など)。一方、将校の人的つながりは市民社会にも及んでいた。軍隊と市民社会の間には無数の接点(軍の駐屯業務や地域の儀礼的行事、各種の社交イベントなど)が存在し、そうした場での頻繁な接触をきっかけに、多くの将校(とその家族)が地域住民と長期にわたる交友関係を築いていった。
    このように、陸軍将校の人的なつながりは、①所属部隊に限定されない、②市民社会にまたがる、③兵士層にも及ぶ、④帯同する家族を含む、の各点において、これまでの研究が想定することのなかった広がりを持つものであった。一八世紀の陸軍は、軍に所属する/軍を取り巻く多様な人々が、互いに知り合い、結びつく場として機能していたといえる。そして、そこで生み出される人的なネットワークこそは、軍隊内部の秩序、および軍隊‐市民社会の関係を支える最重要の柱の一つであった。
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