史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
Print ISSN : 0018-2478
ISSN-L : 0018-2478
131 巻, 11 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
  • 2022 年 131 巻 11 号 p. Cover1-
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/12/26
    ジャーナル フリー
  • 2022 年 131 巻 11 号 p. Cover2-
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/12/26
    ジャーナル フリー
  • 南京国民政府の関税改定問題を中心に
    藤井 崇史
    2022 年 131 巻 11 号 p. 1-35
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/11/20
    ジャーナル フリー
    本稿では、満洲事変以後に展開された日本の実業家による「民間外交」を分析し、当該期における対中経済外交の変容の一端を明らかにする。具体的には1930年代の南京国民政府による対日関税改定を受けた日本人実業家の運動に着目し、その認識と行動を日本外務省による政策との関連を踏まえて検討した。
     1933年5月に宋子文財政部長の主導で対日関税が引き上げられると、日中貿易における地位の低下に直面していた上海に拠点を置く日本人実業家は危機意識を強めた。彼らは中国問題に関する有力経済団体である日華実業協会と協力しつつ、「浙江財閥」との提携を進めることで、苦境を乗り越えようとした。他方、日中の政府間交渉の行き詰まりに直面していた日本外務省も、浙江財閥が国民政府に与える影響力に期待し、民間の経済提携に期待を寄せた。以上の動きは日中の実業家団体である日華・中日貿易協会の設立(1936年2月)に結実し、翌年にかけて両者の人脈を利用した日中関税交渉が実現した。同時期に日本の華北分離工作が進展してゆくと、英国が提示した宥和策に親和的な姿勢を示す協会と、日中提携を重視した外務省との立場の差異も明らかとなったが、外務省の方針に沿うかたちで交渉は行われた。
     以上のように、満洲事変以後、日本人実業家による対中外交への関与のあり様は変容をとげていった。日華・中日貿易協会の中心となった実業家層は、華中における経済活動の再興を目指した組織・政策の構築を進めてゆき、政府間交渉の行き詰まりに直面していた外務省は、政策的な相違をはらみつつも、その活動を外交手段のひとつとして位置付けるようになったのである。
  • 雑誌『変態心理』を中心に
    田部井 隼人
    2022 年 131 巻 11 号 p. 40-65
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/11/20
    ジャーナル フリー
    現代において、「心霊」は「科学」の対極に置かれ、「科学」の名の下に疑われ、公の場から排斥されるものとなっている。こうした思考は大正期に刊行された変態心理学の専門雑誌『変態心理』において既に確立していた。従来の研究では、『変態心理』が変態心理学の「専門家」としての立場から、在野の心霊研究家や大本教のような「非専門家」を批判し、「知」の線引きを行う役割が指摘されてきた。本研究では『変態心理』が相対していたもう一つの「非専門家」である読者の視点から両者が主張する「科学」を捉え直すことで、これまで前提とされてきた「心霊研究(サイキカル・リサーチ)」と「心霊主義(スピリチュアリズム)」という二項対立では見えてこない共通点を指摘した。
    一つ目は、死後霊魂に対して肯定的、あるいは否定的という根本的な立場を異にしながら、共に「科学」に依拠し、「心霊学」や「心霊研究」を自称していたことである。この意味で、「心霊研究」は変態心理学者の専売特許ではなかった。もちろん、両者が掲げる「科学」は同義ではなく、肯定論者の場合はオリバー・ロッジの影響を受けた「科学」という名の思想に依拠していた。他方で『変態心理』が依拠する科学もまた、「虫の知らせ」に対してはSPRの研究をもとに「精神感応」という科学的な粉飾を施しながら、その神秘性を容認してしまった。そのため、両者には合流地点が生じ、そこに神秘的なものを希求する人々が集う、という状況が大正期になって起こる。
    ここに二つ目の共通点がある。すなわち、いずれも当時の大衆文化に立脚していた点である。それまで知識人によって専有されていた「知」が『変態心理』のような雑誌によって拡散し、それが他の新聞や雑誌によって消費されるという特異な状況が起こっていた。『変態心理』や変態心理学における心霊に関する「知」そのものが、こうした「知の大衆化」と不可分の関係にあったのである。
  • 佐藤 良聖
    2022 年 131 巻 11 号 p. 66-91
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/11/20
    ジャーナル フリー
    日露戦争は東アジア海域における国際秩序の変動を引き起こした。一九〇六年から一九一二年まで発生した日中韓漁業紛争は渤海・黄海海域における日中間の漁業協定を成立させるとともに、領海を根拠とする漁業管理を促した。本論は、渤海・黄海海域における漁業紛争を焦点として、領海制度の運用実態を考察した。
    環境条件に適合した漁法を用いながら、中国人漁民は渤海や黄海の広範囲に出漁した。朝鮮半島沿岸や鴨緑江下流域において、彼らは朝鮮人住民と交流と対立の入り交じる関係性を形成していた。
    一九〇九年、統監府は韓国漁業法を施行し、日本海軍と共同で沿岸監視の方針を作成したことで、領海を制度的根拠とする漁業管理体制を成立させた。中国人漁民は韓国領海への侵入を許可されなかったため、朝鮮半島沿岸から排除された。その上中国人漁民と朝鮮人住民が引き離され、彼らの社会的関係も分断に追い込まれた。一方鴨緑江周辺では漁業紛争が慢性的に発生しており、一九二〇年代半ばには領海と公海の境界線が骨抜きにされる事態に至った。
    一方渤海では中国領海の範囲が不安定なままだった。関東州内の中国人漁民に対する管轄権が日本にあるのか中国にあるのか定まらなかったため、彼らは抑圧的な境遇に置かれた。彼らは日本と中国の領海から排除されながら、双方の徴税を受けたのであった。ただし彼らには漁業管理の隙を突く余地が残されてもいた。
    渤海・黄海海域において東アジアの国々は自らの領海を統治しようと試みたものの、漁業紛争によって成功しなかった。領海を制度的基礎とした東アジア海域における漁業管理は一九二〇年代を通してもなお不安定な状態に留まり、日中の出先機関は漁業紛争に対して妥協的な解決方法の模索を余儀なくされた。国家の領域が曖昧になることで、東アジア海域では中央政府の管理が届きにくい領域が作り出されたのであった。
feedback
Top