日露戦争は東アジア海域における国際秩序の変動を引き起こした。一九〇六年から一九一二年まで発生した日中韓漁業紛争は渤海・黄海海域における日中間の漁業協定を成立させるとともに、領海を根拠とする漁業管理を促した。本論は、渤海・黄海海域における漁業紛争を焦点として、領海制度の運用実態を考察した。
環境条件に適合した漁法を用いながら、中国人漁民は渤海や黄海の広範囲に出漁した。朝鮮半島沿岸や鴨緑江下流域において、彼らは朝鮮人住民と交流と対立の入り交じる関係性を形成していた。
一九〇九年、統監府は韓国漁業法を施行し、日本海軍と共同で沿岸監視の方針を作成したことで、領海を制度的根拠とする漁業管理体制を成立させた。中国人漁民は韓国領海への侵入を許可されなかったため、朝鮮半島沿岸から排除された。その上中国人漁民と朝鮮人住民が引き離され、彼らの社会的関係も分断に追い込まれた。一方鴨緑江周辺では漁業紛争が慢性的に発生しており、一九二〇年代半ばには領海と公海の境界線が骨抜きにされる事態に至った。
一方渤海では中国領海の範囲が不安定なままだった。関東州内の中国人漁民に対する管轄権が日本にあるのか中国にあるのか定まらなかったため、彼らは抑圧的な境遇に置かれた。彼らは日本と中国の領海から排除されながら、双方の徴税を受けたのであった。ただし彼らには漁業管理の隙を突く余地が残されてもいた。
渤海・黄海海域において東アジアの国々は自らの領海を統治しようと試みたものの、漁業紛争によって成功しなかった。領海を制度的基礎とした東アジア海域における漁業管理は一九二〇年代を通してもなお不安定な状態に留まり、日中の出先機関は漁業紛争に対して妥協的な解決方法の模索を余儀なくされた。国家の領域が曖昧になることで、東アジア海域では中央政府の管理が届きにくい領域が作り出されたのであった。
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