日本文学
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65 巻, 8 号
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特集・第三項と〈世界像の転換〉――ポスト・ポストモダンの文学教育Ⅱ
  • ―― 『美神』・「第一夜」・『高瀬舟』の多次元世界と『羅生門』のこと ――
    田中 実
    2016 年 65 巻 8 号 p. 2-15
    発行日: 2016/08/10
    公開日: 2021/08/24
    ジャーナル フリー

    「読むこと」の準拠枠をどこに置くのか、客体の対象の文章には実体が在るのか、それともアナーキーで、無いのか、学問界では決められないまま、もう四半世紀が過ぎたのではなかろうか。わたくしは客体そのもの=〈原文〉=〈第三項〉の〈影〉が〈読み手〉に現象すると捉え、これを〈本文〉と呼んできた。また〈近代小説〉は近代の物語文学一般から峻別され、〈語ること〉の虚偽・背理を前提にしていると考えている。視点人物を語ると、そのまなざしの〈向こう〉から対象人物のそれがすれ違いながら、クロスする。これを語る〈語り手〉のまなざしには「同時存在」=パラレルワールドが現れる。こうした問題を三島の『美神』、漱石の『夢十夜』の『第一夜』、鷗外の『高瀬舟』、芥川の『羅生門』などを取り上げながら、その深層批評を試みる。

  • ―― 『羅生門』・『夢十夜』「第一夜」の授業実践報告 ――
    小山 千登世
    2016 年 65 巻 8 号 p. 16-27
    発行日: 2016/08/10
    公開日: 2021/08/24
    ジャーナル フリー

    「第三項理論」は、それを授業のなかでどう実践するかが求められる段階に入った。小説の読解に正解はない。しかし、それが「ナンデモアリ」に陥らないためには、学習者が到達不可能な「第三項」を目指し、「よりよく、より深く、より優れた」読解の価値を創出しつつ、「ことばの仕組み」を問い続け、読み手である自分自身を問い続けることである。その指針を常に確認しつつ、議論の方向付けを行うファシリテータとしての役割が教員に求められているのである。

  • ―― 〈語り〉の構造と方法 ――
    鈴木 伸一
    2016 年 65 巻 8 号 p. 28-38
    発行日: 2016/08/10
    公開日: 2021/08/24
    ジャーナル フリー

    川端康成の掌の小説「骨拾ひ」は、その自伝的な内容から、作品表層の出来事と〈作家〉の伝記的事実を直結して読まれることが多く、〈近代の物語〉と峻別された〈近代小説〉としての〈ことばの仕組み〉の解き明かしを企図した。とりわけ、引用による作品構成のあり方は多くの川端作品に用いられている方法であり、その〈語り〉の深層を〈機能としての作者〉を想定することにより浮上させ、「骨拾ひ」の世界から川端文学の本質を見据えようとしたものである。

  • ―― 文学教育・文学研究と「void=虚空」の問題 ――
    鈴木 正和
    2016 年 65 巻 8 号 p. 39-50
    発行日: 2016/08/10
    公開日: 2021/08/24
    ジャーナル フリー

    主体が捉えられない〈超越〉を問題化すること、それは、現代作家・村上春樹の提示する文学観や世界観と、どこかで通底し、呼応しているように思われる。本稿では、文学教育・文学研究における「ポスト・ポストモダン」を志向する〈世界像の転換〉の問題と、村上の文学観や世界観がどのように関わっているのかを、主にそのインタビューの発言の内容や村上独自の「キーワード」の検討を通して、考察するための試みである。

  • ―― 「断絶」を見据えて ――
    山中 勇夫
    2016 年 65 巻 8 号 p. 51-63
    発行日: 2016/08/10
    公開日: 2021/08/24
    ジャーナル フリー

    「断絶」を切り口に、『おにたのぼうし』の教材分析と授業実践を試みた。これは「おにた」と女の子の徹底的な「断絶」を語るところに、学習者個々の「小さな物語」を露出させる作品の力を見るからである。授業では互いにそれを干渉し合うことで、個々の「小さな物語」に亀裂を入れる契機を求めた。これは、かつての教師主導垂直型の正解到達主義の授業、或は正解到達主義批判(ナンデモアリ)の授業とは、まったく異なるものを志向している。

  • ―― 世界観と認識の物語 物語の外部 ――
    大谷 哲
    2016 年 65 巻 8 号 p. 64-73
    発行日: 2016/08/10
    公開日: 2021/08/24
    ジャーナル フリー

    森鷗外「木精」が、中学の国語教科書に読書教材として掲載されている。日本型近代への批判と、時代に先んじた知識人の葛藤や諦観といった振幅のなかで、あらかじめ想定された作家像からの演繹と接合による鷗外の作品解釈には根深いものがある。この点は「木精」においても例外ではない。また旧来の作家/作品論以後「木精」が作品として正面から論じられたとは言い難い。本論は、語りの領域を対象化し、作品が内包する可能性、「近代小説」としての教材価値を見定める研究・基礎作業の一環である。

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