環境をどのように表現するか。特に自然環境においては、実際の景・事象を客観的に描く立場と、理想の景・イメージとして文芸的に表現する、という二つの立場がある。古代散文における雪の記事をみると、たとえば六国史の雪は、災厄の予兆・雪害から儀式に関するものへと変容しており、朝廷における雪への関心の変化が窺える。一方『摂津国風土記』逸文には、鹿の背に積もる雪が塩の譬喩として表現されるが、その聯想の背景には、野に降り積む雪の文芸的イメージ、さらに同地の地理的環境がふまえられており、文芸的観点から雪を描いた記事といえる。
精神史という独自の分野を開拓し、古代人の自然観、時間意識、宗教意識などを分析した平野仁啓の仕事は、古代文学を環境という視座から論じてみようとするときに先駆的なものとして浮かび上がる。人間という存在の存立構造に迫ろうとする平野の仕事は、人間と環境を相互に働きかけ合うものとして規定し、自然と人間と神の関係を動的にとらえるものであり、自然/文化の二項対立を越えようとする現在のエコクリティシズムの観点に通じるものということができる。
大仏は「大山を削る(自然破壊)」施政観のもと建造される。自然=神の破壊は現人神故に可能な行為だったが、平城京の天皇たちは自然神に脅威を抱き、結果仏の力を頼り、理想社会を築こうとする。だが仏を広めるべき僧や檀家は領地争い等で私服を肥やす。一方平城京民は、天皇の理想を嘲笑うかのように僧を揶揄する社会批判歌を詠む。後世の落首に通じる批判を生成させる新たな歌の場の出現である。平城京での破壊行為は、政治とは別次元で、民衆の新たな文学を創出させた。
『枕草子』には「雪」への言及が多い。なかでも「大雪」の風景が目に付く。だが、現存する気象記録と比べると、環境の忠実な反映というよりも、そこには独自のこだわりが見て取れる。「大雪」へ賞讃、それを〈中宮と私〉との一体感とともに描く姿勢は、八四段以降に顕著となるが、それは〈入内成功譚〉を抱え持つ八四段では、ついに描けなかったものでもあった。八四段で心ならずも「破棄された」雪たち。その傷を癒すかのように、以下の章段において、「大雪」はひたすら心地よい景物へと更新されていったといえる。
平城京二条大路側溝から出土した治瘧の呪符木簡は、定説的には唐・孫思?撰の医書『千金翼方』に基づき、列島固有の文脈も加味して作成されたと考えられている。しかし、同種の呪言は八世紀に至るまでの複数の中医書に散見し、『千金翼方』より上記の木簡に近い表現を持つものもある。その淵源を遡ってみると、前漢・王充撰『論衡』に引かれる『山海経』にまで辿り着く。鬼門を守る神が疫鬼を虎に喰わせるという辟邪の文章は、やがて儺の呪言として展開してゆくが、その過程で、山林修行で培われた医薬・呪術の知識・方法、洪水と疫病の流行による世界の破滅/更新を説く神呪経の言説を含み込んでゆくことになる。そうして成立した短い呪言の一語一語には、その直接意味するところ以上に、豊かで複雑な自然環境/人間の関わりをうかがうことができるのである。
本稿では震災後における古典文学の読み直しを試みた。取り上げたのは、それぞれ隔たった時代の著名な三つのテクスト群である。『伊勢物語』塩竃の段に貞観地震の記憶を重ね合わせることができるのではないか。『曾我物語』の仇討ちには噴火と地震の記憶が鳴り響いているのではないか。馬琴の作品では自然災害が善悪を超えた崇高というべき事件を構成し、重要な役割を果たしているのではないか。自然とテクストの関係について再考するべく、そうした問題提起を試みたしだいである。