カズオ・イシグロは不条理文学の世界的作家として村上春樹を高く評価し、大江健三郎はその逆、両者の世界観は全く対立します。大江はリアリズム、イシグロは不条理文学を評価します。大江の世界観は哲学者大森荘蔵の言う「生活上の分類」でなされ、イシグロはそれと共に「世界観上の真偽の分類」に立ちます。〈近代小説〉の神髄を捉えるには、前者と共に後者の分類を必要とするとわたくしは考えます。客観的現実は幻想、主体の捉えた客体の対象領域の外部は永劫に沈黙する〈第三項〉の領域であり、これとの対峙・対決が主体の思考の枠組みを瓦解・倒壊させるのです。村上文学は無意識の底に「地下二階」と呼ぶ客観的現実とは次元の異なる領域を抱え、パラレルワールドを描きます。こうした文学観の先駆としては実は、鷗外の初期三部作があったのです。
はじめに、第三項理論が「個別文学作品論」「一般文学論」「読むこと教育論」「哲学論」の複数の理論領域を含み込み、またもっぱら「個別文学作品論」の用語で語るなどの重荷を背負っていることを指摘した。次に、第三項理論哲学論の理論的・思想的支柱として、ガブリエルの「新しい実在論」が登場したことを述べ、「新しい実在論」の概要を、第三項理論と連接しながら述べた。最後に、「新しい実在論」を含みこんだ第三項理論は、ポスト・ポストモダンを拓き、世界に展開しうる理論になることを述べた。
「魂のかけがえのなさ」を忘れずに、「魂」の「温かみを寄せ合わせる」ことは個人がシステムに勝つ唯一の方法だと村上春樹が言ったが、それが如何にして可能であろう。短編小説『アイロンのある風景』はまさしく個人がシステムに勝つ生き方のメカニズムを語ったと考える。本論はその生き方を支える世界観認識を分析しながら、〈近代小説〉のメタプロットを読み解く必要性を具体的に論じてみたい。
『葉桜と魔笛』は、病弱な妹が自分宛に虚構の手紙を書いていたことをきっかけとして、恋愛に憧れを抱く姉妹が虚構の世界で現実を超えた恋愛を作り上げていく物語である。これを姉である老夫人が、自分たち姉妹にあった出来事として三十五年後に語る形式となっている。その〈語り〉には、妹への思いや厳酷だった父への思い、家族の絆の強さが込められている。この物語には、老夫人の〈語り〉を聞く聞き手として、もう一人の〈語り手〉が存在する。このもう一人の〈語り手〉から物語を捉え直すと、戦時下に発表された意味も読めてくる。また、太宰治は、『葉桜と魔笛』と同時期に『富嶽百景』を書いている。〈近代小説〉である『富嶽百景』と比較をすることで『葉桜と魔笛』の物語の凄みが感じられる。
田中実氏が提唱し続けている所謂「田中理論」は、文学と教育をいかに相互に有機的に結び付け、活性化させるかについて示唆に富んだ理論を展開している。そのなかでも特に、〈自己教育作用〉という観点を中心として「田中理論」の応用を試みようとしたのが本稿である。
川端康成の「掌の小説」の代表作と目される「夏と冬」の細部に目を凝らし語りの特性を考察してみると、そこには死の影が感得され、物語の表層からのみでは手にできない様々な問題点が内在していることに気づかされる。読むことのこうした実践が、〈自己教育作用〉を読み手にもたらす。
本稿はほぼ十年前、行われた座談会「〈国語教育〉とテクスト論」を批判的に読み直して、〈テクスト論〉と〈第三項〉論の対立を突き詰めてみたい。〈テクスト論〉は実体概念の客体を粉砕するにいたらず、まだロラン・バルトI期に止まっている。バルトII期に乗れなかった〈テクスト論〉はデリダの脱構築に乗れるはずはない。バルトのテクスト概念および脱構築の「深層」を照らされるのは〈テクスト論〉ではなく、〈第三項〉論である。