日本人は、欧米のジャポニスムが生みだした未知の日本のイメージと、どのように対峙すればよいのか。この問いに取り組んだのが芥川龍之介だった。
本稿は、芥川の草稿に注目することで、ヨーロッパとアジアとアメリカを結ぶジャポニスムの言説を浮上させる。その言説においては、複数の日本イメージが入り乱れ、多様な争点が形成されていた。この議論に芥川がどのように介入したのかを、理念としての〈新しさ〉という観点から考察する。
横光利一「花園の思想」の執筆背景やモチーフを、これまで指摘されてこなかったマルセル・レルビエ監督によるフランス印象主義映画の代表作「エル・ドラドオ」を手がかりに考察した。その上で、「花園の思想」の本文の分析を行い、特に末尾の「終に、死は、鮮麗な曙のやうに、忽然として彼女の面上に浮き上つた」という描写に注目をして、テクストの視覚描写と循環的な時間の構造との関係を明らかにした。
本稿は、宮沢賢治『春と修羅 第三集』に収められた二篇の詩を読解し、その表現の特徴を明らかにするものである。一篇目として「春の雲に対するあいまいなる議論」を分析し、低気圧を人間同様に恋愛する存在に喩えたと論じた。二篇目として「県技師の雲に対するステートメント」を分析し、気象学的に観測した雲を性的魅力に満ちた女性に喩えたと論じた。以上の読解を通じて、気象学に着想を得た比喩を表現の特徴として指摘した。
大江満雄は、一九二〇年代にプロレタリア詩人として出発し、機械を一貫して重要なモチーフとして書き続けた詩人である。
本稿では、満雄が戦争を肯定する詩を書くに至った理由の一端、また、それでも彼の詩が単純なプロパガンダに陥らず、ある個人の生存感覚や内面に迫るものとなっている理由を、彼の描く機械表象の変遷をたどりながら探ることである。その過程で、機械が有機的な肉体を持ったもの、また神性を帯びたものとして捉えられていたという、大江満雄の独自性も明らかにする。