いま、文学研究(特に日本の古代文学研究)の危機といわれる状況があり、それを問題にするとすれば、それは「研究の危機」をいう以前に、より根本的な現在のわが国の「文学の危機」という状況をこそまず問題にすべきであろう。それは「文学の危機」というよりも、紙に書かれた文字言語の危機、文字言語によって達成された文化の危機、文字言語の変質や、文字言語の創造した世界の危機というべきものである。勿論、今後の通信伝達手段の発達した未来社会においても、やはり文字言語は中心的な媒体であり続けるであろう。しかし、そこで用いられる文字言語は、もっぱら言語のもつ諸機能のうちの「伝達」を中心とした、言語の概念的抽象的な機能の側面に重点がおかれ、「文学」の言語の主として関わる「表出」の機能や、概念的な言語によって個別的なものや、物事の具体的なあり方に近づこうとする機能が衰弱するおそれが大きい。既に、現在の社会においてもその傾向は顕著になってきている。若者たちが、例えば感情のような複雑なものを細かく分節して表現することができず、したがって、感情が粗野粗雑であり想像力が衰弱している(と私は思う)のはその表れである。したがって、「文学」に関わるわれわれの社会的職務は学校教育における「国語」の重要性(昔風の「文学教育」ではなく)を主張することを始めとして、人間にとっての文学的言語のもつ意味を社会に訴えることであると思う。そうした文学的言語の豊かな社会になれば、おのずから文学研究の基盤も豊穣なものになるであろう。「文学研究」は、各個人の強い内面的な動機からのみなされるはずのもので、政策として盛んにすべき必要のあるものとは考えられない。
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