物語文学を支える読みの基底はどこにあるのか。イーザーの「期待の地平」理論を用いながら、「物語」とはどんなものと予想され、期待されていたか。光源氏物語はそれ以前の物語をどのように、解体し、再構築しようとしたのか。さらにその光源氏の物語はどのように作品内で相対化され、解体されていったのか。もう一歩進めて、宇治の物語は物語文学のジャンルそれ自体の更新に向けて物語はどのような進路を取ったかを、欲張りながら考えてみたい。とりあえずは若菜巻の有名な蹴鞠の部分の読みから始めて、宇治十帖のありかたについても考察を及ぼしていくつもりである。
正徹は歌論『正徹物語』のなかで、「幽玄」の語を繰り返し用いている。幽玄の語が何を指しているかではなく、幽玄の語を用いて何を言おうとしているかを考えたい。正徹の幽玄は、風景は単純明快に、主体は錯綜して不明確であるという、彼の創作方法の一面と密接に関わっている。錯綜した主体の不明確さは、創作過程の心境をそのまま詠作の方法としようとしたところがあり、それゆえ多くの歌人の共感を得たのではないかと考えられる。
帰国後の荷風の意識を示す作品として読まれてきた「監獄署の裏」の空間は、「監獄署の裏手」の「私の家」、様々な音に溢れた「庭」、「監獄署の土手」の下の「貧しい場末の人の生活」空間、そして「獄舎の庭」を、〈裏〉において並列、接合する。その多元的空間構造を生み出しているのが、触媒としての〈獄中〉であった。そこで「獄中吟サツジエス」という〈獄中〉言説を読み出す「私」は、翻訳行為性を深く内包した存在であった。
本稿では、主に漢文脈が重視されてきた中島敦「山月記」における創作手法について、中島敦が知り得た生物学の知見を踏まえて論じた。「山月記」は、虎の意識をめぐる李徴の発話内容が李徴を虎に変身した人物であるかのように読ませているのであり、虎に変身した物語/していない物語どちらにも読むことができる。そこに典拠「人虎傳」との差異がある。中島敦文学の独自性は、こうした単一でない文学的想像力にこそ見出される。