今までの読みの指導では後半に語られる「僕」の心情をいかに読み取るかであった。今回、授業者が〈第三項〉論をふまえ、本作品を客から話を聞き取った「私」が全てを語り直していると捉え、実践した授業の様子を報告した。〈語り手〉〈私〉を構造化すると視点人物の「僕」が語ることを相対化して読むことができる。授業後「僕」がいかに自分の認識に囚われているのか、を問うことが授業者にとっての課題だと考える。そうすると「私」の批評は「僕」の生き方の問題となり、読み手自身の認識の問題となる。
文芸教育研究協議会の故西郷竹彦会長は、晩年において二元論的世界観を批判し、それを越えていく「相補的認識・表現」の重要性を強調していました。小学校三年生の教科書教材である斎藤隆介の「モチモチの木」は、西郷文芸学・文芸教育論の立場では、相補的な認識・表現を学ぶ格好の教材と考えます。「豆太」をどう読むか、「モチモチの木」をどう読むか、文芸研に集い、西郷会長から学んできた者の一人として報告いたします。
西郷文芸学の「視点論」は文学作品の読みの理論として国語教育では広く支持されてきた。しかし、西郷竹彦はさらなる新展開「相変移仮説」を『文芸教育87』(二〇〇八春 新読書社)誌上で発表する。私はこのことに近代文学研究者田中実の「第三項論」が大きく関わっていたと考えている。
この稿では、西郷竹彦「相変移仮説」と田中実「第三項論」の『羅生門』の〈読み方〉を「対象人物を読む」という観点から検討する。
『うつほ物語』「楼の上」巻で、いぬ宮の秘琴披露の儀式が行われる。当日、招かれた嵯峨院は、仲忠が準備したものには目を向けず、自らの記憶のなかの京極邸を回想する。その眼差しのズレは、琴の一族の論理と皇統の論理との相違を如実に物語っていると言えよう。
本稿では、物語に過去の視点を付与し続けた嵯峨院に注目し、物語の大団円において、その視点が未来へと向かうさまを追い、その意味を検討する。