『出雲国風土記』には、「古老伝云」で始まる記事が一六例ある。この一六例と、それ以外の多くの記事との間に内容上・性質上の差異があるかどうか、これまで明らかにされてきてはいない。本稿では大原郡の記事における古老系と非古老系の差異について検討し、古老系が土地に固有の、中央側の認識していない伝えを記載するものであるのに対し、非古老系は中央神話と関連するもの、または既に中央側に認識されている記事である可能性について論じた。
本稿は、『万葉集』に詠まれる葦屋の菟原処女の伝説をめぐって、処女の死の事情と、その伝説歌が再生される場の問題について、『大和物語』の「生田川」の段を通して考察するものである。処女の死は、古代日本の結婚にまつわる社会の制約によって起こった悲劇であり、墓をよすがとして伝説歌は今へと再生される。そこでは、物語りの人物に成り代わって歌を詠むという方法で、古と今とが共時化されて物語り世界を展開させ、〈古物語り〉を今へと語り継ぐ歌の場が生成されていたのである。
愛知県名古屋市にある熱田社の最古の縁起が『尾張国熱田太神宮縁起』(『寛平縁起』)である。奥書には寛平二(八九〇)年に編纂したとあるが確定できない。本稿では、九世紀にこの縁起を位置づけた場合の〈伝承世界〉の広がりについて考えてみたい。「古風土記」の形式「俗」で書かれる建稲種公をめぐる縁起独自伝承、特に「覚賀鳥」をめぐる伝承を中心に九世紀に成立した可能性を提示する。
『源氏物語』「夕顔」巻において、光源氏は「顔をほの見せたまはず」夕顔を訪問する。従来、三輪山式神婚譚がふまえられていることが指摘され、光源氏は覆面姿であるか否かといった議論がある当該箇所について、覆面の文化史的意義や光源氏の顔のあり方等をおさえながら、光源氏は覆面をつけていたと考えるのが妥当であるとし、そのことによって呼び起こされてくる伝承世界を考察したうえで、物語世界が構築されていくありようについて考えた。
東日本大震災後、『古今集』の「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ」が貞観の大地震による津波を詠んだ歌か否か、注目を集めた。「越えなむ」だから越えなかったわけで、津波を詠んだともいえない。なのに、様々な解釈を生むのはなぜか。歌の言表にないことを排除する通常の和歌研究でよいのか。歌枕を名所化する各地の営みを関係させて考え、新しい和歌研究を模索した。
万葉集の笠金村「入唐使に贈る歌」(巻八・一四五三~一四五五)は、後に残る女性の立場から詠まれた「悲別歌」としての性格が強い。詠歌主体〈我〉は平板な人物であるゆえに旅立つ男性を見送る女性としての普遍性を獲得しており、女性から一方的に思いを寄せられる男性官人像を造形することに寄与している。金村作品の〈女性仮託〉における女性とは、男性官人が自らを望ましい存在として確認するために必要な〈他者〉であった。
本稿では、山に籠もっていた源実忠が妻子との供住みを再開したところへ、源正頼が訪れる場面を取り上げる。家庭崩壊というかたちで、一度は物語の中心から退場した実忠の物語が、いかにして再び本流へと接合しえたかが関心の中心である。その考察の際には、従来の「唱和歌」規定への疑問として近年論議を呼んでいる、「会合の歌」という観点を援用することが重要となろう。それを通して明らかとなるのは、『うつほ物語』が為しえた、巧妙な場面生成の方法である。