歴史学では近世という時代の一つの特色として「家」の成立を上げている。近世は「家」の永続を前提とする組織体としての家族が生じて来るのである。近松の世話物作品には、近世中期の家族が様々な形で取り上げられている。本稿では『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』『冥途(めいど)の飛脚(ひきゃく)』『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の三作品を取り上げて、「家」の存続を前提とする家族のあり方のなかで、二十代の若者がどのような葛藤を持つにいたったのかという視点から作品分析を行った。
多田南嶺の浮世草子『世間母親容気』には、当時の商家女性の実情を反映し、しっかり者の母親達も多く登場する。本作の典拠は、先行の江島其磧の気質物は勿論、西鶴作品も使われている。笑いと教訓を織り交ぜてテーマとする身分・職業の「人心」を描出する気質物の伝統を、南嶺は確と認識しつつも、本作では笑いが後退し教訓が膨らんでいる。本作が南嶺の署名入りなのは、八文字屋以外の書肆からの刊行である上に、庶民向けの教訓性を帯びた作である故だろう。
人情本は「商家繁栄譚」という型を持っており、男女の恋愛と同時に家族や親子の姿も描いている。為永春水作の『春色梅児誉美』(天保三年・四年刊)では、主要登場人物が血縁の家族・親子に恵まれない境遇から、他人の親切に家族同様の結びつきを求め、ついに自分の居るべき家や家族を獲得する。また全く異なる境遇の、三つの商家の姿が描かれる。これらは家族・親子が血縁や婚姻のみによって成り立つものではなく、多様であることを示している。
「三人吉三廓初買」は、河竹黙阿弥が手法を確立する時期の作品である。本稿では、安政三年三月から本作上演に至るまでの間に上演された黙阿弥作品の検討を行った。その結果、従来の歌舞伎作品の常套手段からの離脱、悪党同士の友情といった「三人吉三」の特徴と目される手法がこの時期に順を追って獲得されてたきたことが判明した。その一方で本作では特に主人公の行動に独自性が見出せ、それは以後の作品にも受け継がれていくことになる。
本稿は、村上春樹の「レキシントンの幽霊」(一九九六年)について、作品の舞台である一九九〇年代前半のアメリカの歴史的文脈を重視しながら、クィアー・リーディングを行ったものである。それにより、本作のなかにアメリカのゲイ男性にかかる過酷なエイズパニックの記憶を可視化するとともに、それを記憶化/記録化する非当事者の問題を読み解いた。その上で、本作が九〇年代のエイズ文学と位置づけられる可能性を指摘した。