日本文学
Online ISSN : 2424-1202
Print ISSN : 0386-9903
68 巻, 1 号
選択された号の論文の10件中1~10を表示しています
特集・文学における〈公〉と〈私〉
  • ――オホヤケ(公)の系譜学的遡行――
    呉 哲男
    2019 年 68 巻 1 号 p. 2-11
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    古代日本語のオホヤケ(公)という言葉が、今日いうところの公共的な観念をどのようにして獲得したか、あるいは獲得し損なったかということを、ミヤケ(屯倉)という言葉と対比させながら考えた。オホヤケは本来「大宅」すなわち豪族居館という意味で、漢語の公/私、すなわち国家と社会、社会と個人といった二元的構造をもつ語ではなかった。それではなぜ漢語の「公」字にオホヤケという訓が充てられたのか。むしろ朝廷や官の意味をもったミヤケの訓の方が適切であったのではないか。官(朝廷)のオホヤケと共同体社会のオホヤケが入れ子式に包摂される輻輳した関係を提示した。

  • ――物語社会における「おほやけ/わたくし」と公共性――
    安藤 徹
    2019 年 68 巻 1 号 p. 12-24
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    『源氏物語』の物語(内)社会における「おほやけ/わたくし」の関係構造の特徴を具体的に解きほぐすなかから、「わたくし」と「わたくし」の対比にこそ物語の特異性があることを考察する。さらに、可傷性(ヴァルネラビリティ)を持った他者同士の〈ふれあい〉による〝同情〟の経験に〝公共性〟(の可能性)を読み取りうる点に、「おほやけ/わたくし」を超える、このテクストの抗事実的な潜在能力を認める。

  • ――軋轢がもたらしたもの――
    寺島 恒世
    2019 年 68 巻 1 号 p. 25-35
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    『新古今和歌集』は、後鳥羽院と藤原定家の合力によって生まれる。ただし、両者は〈公〉と〈私〉の認識につき、相互に批判意識を有していた。互いに相手の〈公〉から逸脱する〈私〉の奔放を非とし、理想を求めて生じた軋轢は、集に達成をもたらす要因となる。隠岐本『新古今和歌集』の取り組みも、前提は、敗れた治天の君の〈私〉における新たな〈公〉への志向にあった。

  • ――世間という暴力をめぐって――
    風間 誠史
    2019 年 68 巻 1 号 p. 36-45
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    西鶴の「小説」は、近代のそれのように「人」「個人」を描くのではなく「世間」を描いており、その結果「世間」つまりは〈公〉の本質的な暴力性を浮かび上がらせている。『西鶴置土産』の一話「人には棒振虫同前に思はれ」を読むことを通して、「小説」において「世間」の暴力性がどのように表現されているのかを見るとともに、その暴力性のなかで生きる〈私〉のあり方について考えたい。

  • ――有島武郎「カインの末裔」の〈公〉的権力と〈私〉的暴力――
    竹内 瑞穂
    2019 年 68 巻 1 号 p. 46-57
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    〈公〉と〈私〉という観点から有島武郎「カインの末裔」を読むならば、〈私〉的な欲望を象徴する仁右衛門が、〈公〉的な権力に徹底的に押しつぶされるという物語が浮かびあがってくる。しかし、挫折を通じ己の〈弱さ〉を受け入れた仁右衛門は、妻とともに〈弱さ〉に基づくつながりを生み出しつつあったのである。そこにみる新しいかたちの公共性を考えることは、我々の社会に満ちる暴力の連鎖から抜け出す手がかりともなるはずだ。

  • ――〈林芙美子〉論の前提――
    岩見 照代
    2019 年 68 巻 1 号 p. 58-68
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    一九六〇年代後半以降に、ラディカル・フェミニズムを端緒として生まれた第二波フェミニズムは、「個人的なことは政治的である」とのスローガンのもと、家族関係や、男女の性関係といった私的領域にこそ女性の抑圧の原因があると、公私二元論を厳しく批判した。林芙美子は、飢え、渇き、泣き、夢中になるといった基本的な心身状態の〈私的領域〉を極限にまで突きつめ、国家・社会=〈公的領域〉の秩序から逸脱する過剰なものを描き出そうとした。本稿では、私にとって「ひとつの他者」であるような〈過剰さ〉から〈第三項〉を考えてみたい。

  • ――横田創と裸の衣服――
    内藤 千珠子
    2019 年 68 巻 1 号 p. 69-79
    発行日: 2019/01/10
    公開日: 2024/01/16
    ジャーナル フリー

    近代の女性身体を統御してきた様式は、新自由主義的な現代の社会環境のなかで、すべての身体に適用されている。経済化する身体という条件のもとで、小説が描き出すオルタナティブな形式を検討するために、横田創「裸のカフェ」「残念な乳首」をとりあげ、分析した。小説テクストの読解を通して、身体が公的領域に現れるための条件と、人間を人的資源とみなすメカニズムとは異なる身体認識のフレームについて考察した。

子午線
読む
書評
feedback
Top