本稿では『松浦宮物語』の主人公氏忠の戦場での活躍について、「忠」と「孝」という視点から分析を試みた。とりわけ玄宗皇帝の寵臣となりながら帰朝できなかった阿倍仲麻呂の「孝」と「忠」の葛藤の事跡が、作品に投影している可能性を指摘した。また作者の定家が、当時の時代背景として自ら見聞した武士の「忠」の思想を採り入れることで、「忠」と「孝」との葛藤の物語にリアリティを与え、その点でも中世軍記物語の先蹤となったことを明らかにした。
先行研究では見落とされているが、芥川龍之介「龍」に対しては(従来指摘のある)『宇治拾遺物語』序および巻十一の六「蔵人得業猿沢の池龍の事」以外に謡曲「春日龍神」が典拠として指摘できる。それを踏まえこの小説の論理・構成を改めて見返すと、そこに見えてくるのは人を騙り、人に語る行為が常に孕むことになる仕掛けと受容のズレのダイナミズムであり、「龍」はその物語内容と重層的な語りの構造でもってそれを顕彰するものである。
本稿は、これまで「不徹底」な探偵小説あるいは単純な幻想小説として捉えられてきた佐藤春夫「指紋」を、同時代的な技術との重層的な関係から再検討し、当時の探偵小説ジャンルの布置を問い直すものと位置づけた。具体的には、R・Nの探偵行為を再主体化の過程として読む時、彼が映画や指紋といった当時の技術により新たな知覚主体へと再編され、その様態こそが「指紋」の「幻想性」を生み出していたことを明らかにした。
本論文では、宮沢賢治の農本主義と農本ナショナリズムとの近接性を「ポラーノの広場」と『家の光』との比較によって検討した。両者は農本的な志向があるが、『家の光』では、満州事変以降、ナショナリスティックな農本主義と、地域社会構想に専念した農本主義とに分かれていた。「ポラーノの広場」における産業組合は、後者に近接したものだと考えた。