日本文学
Online ISSN : 2424-1202
Print ISSN : 0386-9903
60 巻, 6 号
選択された号の論文の13件中1~13を表示しています
 
  • 松岡 智之
    2011 年 60 巻 6 号 p. 1-11
    発行日: 2011/06/10
    公開日: 2017/05/19
    ジャーナル フリー

    『源氏物語』の本文について、写本時代に生まれ享受されきた古典作品の特質を理解するため、伝本それぞれを尊重すべきだという近年の主張は、かつてのテクスト論の議論と相似をなすととらえられる。そうした本文研究の最も前衛的な主張には共感できる面が大きいが、実際に取り組むには従来の研究との調整が必要である。注目して取り上げる伝本の本文を通行の本文と類似した形に整訂し、論点を絞って比較することが有効であろうと判断された。陽明文庫本若紫巻の本文を『新編日本古典文学全集』のそれと対比しながら解読すると、両者の間に、先行する他作品ないし物語内の先行する場面との関連の強弱、作中人物と語り手の距離に関する違いが観察できた。これらを揺れ動く本文を含み込んだ作品の幅と認めることができる。

  • —「鮮(あざらけ)」を厭う興義—
    空井 伸一
    2011 年 60 巻 6 号 p. 12-23
    発行日: 2011/06/10
    公開日: 2017/05/19
    ジャーナル フリー

    「夢応の鯉魚」は多くを先行作に依拠しながら、そのいずれとも異なる絶妙な世界を作り上げている。それは偏に、「絵」を描く「僧」、興義の設定に因る。「延長」という具体的な年号を示されながら、この画僧の有り様は時代を超えている。つまりそれは決してあり得ない存在なのだ。しかし、この不可能性は特定の時間に限定されぬ普遍性にも通じ、奇妙な既視感を読む者に与えることになる。また、「鮮」を厭う興義の物言いは仏教の原理とは相反するものだが、読む側はそれを仏者のものとして疑うことはない。ここには、不浄なる食を忌み、清らかな自己の保全を願う心性が見て取れる。本篇は、かくのごとき心性が希求して止まぬ、清閑の理想郷に遊戯する自己という不可能な夢を、言葉によって結晶化せしめた、いわば究極の絵画とも称すべき作である。

  • —『南総里見八犬伝』の発端—
    西田 耕三
    2011 年 60 巻 6 号 p. 24-33
    発行日: 2011/06/10
    公開日: 2017/05/19
    ジャーナル フリー

    曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の発端部分をあらためて読み直してみる。馬琴は伝統的な、あるいは新たに摂取したモチーフを組み合わせながら、小説が思想を含みつつ思想から自立した世界になるように腐心している。そういう観点から読むことが、馬琴の小説を小説として読むことになると思われる。

  • —井伏鱒二「朽助のゐる谷間」—
    滝口 明祥
    2011 年 60 巻 6 号 p. 34-45
    発行日: 2011/06/10
    公開日: 2017/05/19
    ジャーナル フリー

    井伏鱒二の初期作品に対して、プロレタリア文学からは激しい批判が起こったが、そこには同時代の「政治」が捉えることが出来なかった政治性が含まれているのではないだろうか。本稿は特に「朽助のゐる谷間」を取り上げ、井伏作品の政治性の質を明らかにすることを目的とする。そこで描かれる「ちぐはぐ」さは、同時代の民俗学やプロレタリア文学のように同一性に固執する思考とは違う政治性を示しているはずである。

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