本稿では神武天皇が樫原宮での即位後に行った結婚に注目した。神武はオホモノヌシの娘であるイスケヨリヒメと結婚するために、その家があるという「サヰ河」の河上まで赴き、結婚後に歌を歌う。その歌は二通りの異なる音、つまり、荒ぶる神のサヤグ(騒ぐ)音とサヤカ(清か)に通じる清らかな音を発するように記述されている。さらに、その二通りの音は「サヰ河」の「佐韋」と「狭井」という二通りの表記と重なり合っている。本稿では、「サヰ河」の表記および神武の歌の分析を通して、神武のヤマトでの結婚の意義について検討する。
『夜の寝覚』第一部での対の君と男君とのやりとりでは「書く」行為そのものの表現が頻出する。女君自身のことばを欲する男君の不満と欲望は次第に増幅し、第三部ではついに欲望の暴走に至る。「書く」行為はまた男君・大君・中の君の関係性も象徴している。この物語の「書く」行為そのもののあり方は戦略的なものといえ、女君の行為を領有しようとする男の欲望が女を「モノ」化し愛でる視線に他ならないことをも暴き出すのだ。
中世和歌では、年齢を示す「~そぢ」表現で年齢を詠むことが、女性には稀である。この表現は男性の用例が十二世紀に増加した。ここには位階制度上の変化が影響している。年労に代わって年爵が増加し、官司・官職での奉仕が評価の対象にならないなかで、男性は自身の年齢を詠みはじめた。女性は年齢の付随する関係性と身分秩序の外にいるため、年齢を詠まないが、二条院讃岐、小侍従、八条院高倉の用例を見ると、出家した後は詠む。
徳富蘇峰は「ジヨン、ブライト」(一八八八年)や『人物管見』(一八九二年)を通じて人物論という営みを開拓する。この試みは自由民権運動期の思考原理を相対化しつつ、文学的、宗教的な営みの感化力を確認し、喧伝する作業として始まる。そして蘇峰の影響圏から出発した北村透谷は、この蘇峰流の企てを蘇峰以上に過激に推し進め、政治に勝る営みとして文学を卓越化する新たな思想的見取り図を打ち立てた。