日本文学
Online ISSN : 2424-1202
Print ISSN : 0386-9903
63 巻, 4 号
選択された号の論文の16件中1~16を表示しています
特集・日本文学協会第68回大会(第二日目) 流動化する世界と文学
  • 鈴木 健
    2014 年63 巻4 号 p. 2-9
    発行日: 2014/04/10
    公開日: 2019/05/03
    ジャーナル フリー

    ベルリンの壁などの国境に代表される、社会における膜の存在理由を検討するときに、生命システムの起源である細胞から考えていく必要がある。生命の理論であるオートポイエーシスから膜による資源の取り込みを検討すると、細胞の進化プロセスの中でネットワーク(網)から膜や核が幾度となく生成されることをみてとることができる。人工物としての文学の意義は、多数の個体がもつコンフリクトを解消するための文脈を提供することであるが、情報技術によって異なる現実を生きる「パラレルワールド化した世界」の登場によって、文学の新たな可能性が試されることになるだろう。

  • ――二〇一〇年代文化の世界構成――
    千田 洋幸
    2014 年63 巻4 号 p. 10-17
    発行日: 2014/04/10
    公開日: 2019/05/03
    ジャーナル フリー

    一九九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけては、「この現実」に対抗する仮想世界や反世界を立ち上げようとする衝動が、さまざまな文化ジャンルにおいて顕在化した時代だった。たとえば、ポップカルチャーの一ジャンルであるアニメにおいては、パラレルワールド、時間ループ、変身といった物語要素がしばしば使用され、セカイ系や空気系の物語類型がデフォルトとなり、「もうひとつの世界」に牽引されていく視聴者の欲望の受け皿を作り出していく。現代文学の場において、そのような欲望をもっとも強力に吸い上げ、読者層の広がりを獲得していった存在が、村上春樹であることはいうまでもない。その行き着いた果てに、『1Q84』の世界が位置していると考えてもいいだろう。

    だが、二〇一〇年代に至って、そういう世界観のリアルはすでに失われつつあるのではないか。その決定的な契機が二〇一一年の震災であったことは確かだが、実際にはそれ以前から、現代文化における現実/虚構の関係は――あくまでも二〇一〇年代的な形で――変容し、再編されつつあったように思う。それはすなわち、村上春樹的な世界観に終焉を告げ、過去へと押しやっていくことをも意味するだろう。本発表では、こうした視点からごく最近の文化コンテンツをいくつか取りあげ、どのような転回がそこに見いだされうるのかを検討してみることにしたい。その際、小説はもちろんだが、問題の所在をあきらかにするため、アニメ、アイドル、ボーカロイドといったポップカルチャーのジャンルにもしばしば触れていくことにする。

  • ――テクストに「向こう側」はあるのか――
    助川 幸逸郎
    2014 年63 巻4 号 p. 18-29
    発行日: 2014/04/10
    公開日: 2019/05/03
    ジャーナル フリー

    『源氏物語』宇治十帖後半部では、しばしば指摘されるとおり、女房や家人が、匂宮や浮舟の背後で暗躍する。

    夕顔巻や末摘花巻など、女房や家人に焦点があてられる巻々は、正編にも見いだせる。だが、女房や家人が複数の家々を渡り歩く「所属不明」の存在であることは、宇治十帖後半部においてこそ活写される。女房や家人が、家と人物の自己完結を阻むこと――『源氏物語』は、全編の締めくくりにおいて、そのことを浮かびあがらせる。

    女房や家人はまた、物語内で進行する出来事について論評し、今後のなりゆきに想像をめぐらせる。そのことをつうじて、テクスト内で起こりつつある事件と、過去の史実や他のテクストが結びつけられる。女房や家人は、テクストの自己完結をも阻むのだ。宇治十帖後半部はこの側面も、克明に語りとっている。

    物語内容を一面的に追うだけでは、王朝物語は読み解けない。物語内の出来事と、それにかかわる「別の審級」を、重ねあわせるような迫り方をしなくてはならない――『源氏物語』はそのことを、全編の最後に主張したかったのではないか。だとすれば『源氏物語』は、モダニズム芸術が直面していたのと、通底する問題を抱えていたことになる。

    一見した際にあらわれる意味と、その意味を別ものに換えてしまう「深層」を、モダニズム芸術は合わせもつ。「近代」と、「近代」によって排除されたものの葛藤を具現するための必然である。精神分析が「無意識」の概念を召喚したのも、モダニズム芸術と同じ課題に向きあおうとしたからに他ならない。

    本発表では、モダニズム芸術に通じる構えを、なぜ『源氏物語』が必要としたのかについて考察する。グローバル化への反動として、ローカルなものへの固着が生じている現在、文学と文学研究がいかにあるべきかを、最終的には提案したい。

子午線(大会印象記)
 
  • ――森鷗外「ロビンソン・クルソオ」論――
    坂崎 恭平
    2014 年63 巻4 号 p. 39-51
    発行日: 2014/04/10
    公開日: 2019/05/03
    ジャーナル フリー

    森鷗外「ロビンソン・クルソオ(序に代ふる会話)」(明治四四年)において表象されている、発禁といった国家による文学の弾圧と、それに対する融和策が、同時期の鷗外の文芸委員会への参加という文脈と対応していたことを論じた。具体的な作業として、同時代の〈ロビンソン・クルーソー〉受容の諸相と、文芸委員会をめぐる言説を掘り起こし、作品本文との偏差をはかった。「ロビンソン・クルソオ」という作品は、同時代の国家による、文学や思想に対する極端な危険視に対して警鐘を鳴らしている作品であり、鷗外はそれを対話として寓話化すると同時に、文芸委員会への参画という行動によっても融和策を提示しようとしていたことが明らかとなった。

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