『懐風藻』という奈良時代の詩集では、天皇が中国の聖帝である「尭」を超えたという表現がある。この表現は、中国の詩にも日本の後代の詩にも見られない特殊なものである。しかし、この表現は、漢詩の基本的な技法の一つである「典故」を強く意識したものであり、『懐風藻』の詩にみられる典故を打ち消す作詩のありかたと通じている。これは、日本において国家の表現として詩が用いられたことがもたらした書き方だと言える。
本稿では漢文と和文の混じりあう地点に存在する日本漢文、なかでも『御堂関白記』を主たる対象として古代日本のリテラシーについて考えた。特に和文のリテラシーが漢文のリテラシーに与えた影響について、考察を加えた。また、そのうえで、従来、著者自筆本とその写本といういわば主従関係におかれた二つのテクストそれぞれの論理を見出し、単純に「漢文」「和文」と住み分けのできない、複雑に関係しあったリテラシーの在り方を指摘した。
連歌会には、上手な作者だけでなく初心者や、ただ「読み・書き」の能力があるだけで、古典の知識の少ない作者も参加していたと推測される。そのような人々に対して、一六世紀を代表する連歌師宗養は、平易な句や、今までの流れを一転させるような鮮やかな句、また滑稽な内容の句などを詠み、参加者を飽きさせないよう心がけていた。古典の知識が必要な句の場合は、『伊勢物語』や『源氏物語』などの有名な場面を多く用いた。こういった詠み様は、近世の俳諧に見られる特徴と類似したものである。
標題で言う和本リテラシーとは、江戸時代までの文献にあるくずし字や異体字を読む能力を指す。本稿では、稿者が大学で行ってきた和本リテラシー教育を踏まえ、こうした教育における注意点、また実際にくずし字を読むにはどのような難しさがあり、そしてこの力をつけることにより何が可能になるのかを述べた。くずし字を読むということは、一字一字を読むのではなく、文脈から類推して読むという高度な読みがより顕著に行われることなのである。
この論文では、戦前の外地における日本語のリテラシーを、第二次大戦前に外地へ出店した書店の分析をつうじて考察する。具体的には、外地書店の同業者組織である外地の書籍雑誌商組合の歴史、そして外地書店が生まれ育つ際の典型的道筋の素描という二つの課題から外地書店の歴史に迫った。地域を横断して俯瞰的に展開を描出すると同時に、文化的な〈接触領域〉として、外地書店という空間を考えた。
リテラシーは、「場」という空間性と「歴史」という時間性と「集団」という人間性(じんかんせい)によって構成された文脈に依存する。したがって、リテラシーは、人を排除する。それを防ぐために、私たちは、私の持つリテラシーを、超えていくリテラシーを持たなくてはならない。他者に対して自己を批評しつつ対等に立つ「戦略的同化」と自己のリテラシーを批評しつつ他者のそれを流用する「自己批評的流用」が必要である。