高校の教育現場で働きつつ古代文学の研究も行っている者の立場から、教材としての古典文学の可能性について考察した。一つは、古典知のコードを意識して読むことで構造と人間の問題を読み、考えうること。もう一つは、よりよい公共を問い続ける知を育成するために、物語の内容だけでなく表現や行為も読む能力を養い、教室という公共的空間を立ち上げ議論すること。これらによって学習指導要領の目標に掲げられた思考力や想像力を育成することが可能である。研究者は、それらに言及することで教育に参与することが求められているのではないか。
日常生活を活き活きと描く『枕草子』は一見わかりやすいが、平安時代の生活感覚に支えられているため、ニュアンスのわかりにくさも抱えている。「例ならず御格子参りて」に窺われる主人と女房相互の配慮や清少納言の主張、「いかならむ」の謎かけの巧みさ、「なほ」が示唆する女房間の微妙な空気、「思ひこそよらざりつれ」に窺える感情などを、ことばにこだわることで考え、日常を書き残した意図を推察する。
戦後、古典教育の意義が揺らいだとき、時枝誠記は戦前の感化主義的古典教育を否定し、民族の「美」も「醜」もありのままの姿を受け入れて学ぶべきだと主張した。しかし、そのような国語教育は、現実にはその後実践されなかった。本論では、古典を批判的に学ぶことの可能性と意義を、古典の「定番教材」である『平家物語』の二章段において探った。
平成二十年版学習指導要領によって、国語科では「伝統的な言語文化」を重視することとなった。それは、「神話」や「源氏物語」の扱いに見られるように、原典を読む行為からは離れた、既成権威への画一的同調を強要する、道徳教育的な古典教育を誘発している。この現状を打開するために必要なことは、戦時下における古典教育のあり方を追究し続けること、そして、享受史研究の蓄積と教材観・教育方法論との、新たな融合の可能性を追求することである。
中島敦の『山月記』は、高校国語の定番教材である。ただ、そこで読まれてきたことは、虎になった李徴の原因を、主人公李徴の人間性の欠如に求め、生徒の自我への反省へと導く教材として取り扱ってきたところである。本稿では、李徴の〈語り〉=告白を相対化することで、李徴と袁傪とが繰り広げた朝靄の数時間のドラマを通して構築された最後の場面に、〈人間性の欠如〉の物語を超えた虎李徴の転生・転身・誕生の物語を読みとり、そこに安直な不条理劇を突き抜けた一つの可能性を見ようとした。
宮沢賢治「やまなし」は、昭和四六年(一九七一年)に小学校国語教科書教材として採用された。一方、研究者による作品の解釈・研究も持続して行われてきた。この間、わが国の国語教育は、経験主義的国語教育から言語能力重視(昭和五二年版)の教育へと転換、さらに現在の「経済のグローバル化に対応できる人材の育成」へと変わってきている。子どもと教師と研究者は互いにどのように関わり合い、「やまなし」に何を読もうとしてきたのか。