日本文学
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63 巻, 1 号
選択された号の論文の17件中1~17を表示しています
特集・教科書と文学
  • ――教科書の古典「文学」――
    竹村 信治
    2014 年 63 巻 1 号 p. 2-17
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    「学習指導要領」への準拠が求められる教科書だが、実際の教科書編集にはこれへの「参与」と「補完」が認められる。「学習指導要領」は、今後はともかく、現在はM・マクルーハンのいわゆる「クールなメディア」としてあると見なし、教科書の古典「文学」をめぐる「参与」と「補完」の可能性について考察した。

    この度の改訂で小中高校「国語」に新設された〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕だが、小学校「国語科」教科書は「伝統的な言語文化」を「言語文化」とあえて読み替えたごとくで、拡張された「言語文化」概念のなかに古典「文学」を位置づけなおして教材の拡充を果たしている。これが二七年度版でどう改訂されるかは不明だが、この新設事項へ「参与」「補完」は教科書の可能性を開いたものとして相応の評価に値する。

    そうした小学校教科書の達成を承けて中等学校においてはいかなる「参与」「補完」を構想するのか。教科書およびそれを扱う教員の構想力、展開力が問われるところである。本稿では四つの対処法を示した。その要所は、「言語文化」事象としてある古典「文学」テキストの一つ一つを「知のアーカイブズ」と捉え返し、それぞれの「知の営み」を読み解き「評価」「批評」すること。それこそが「ホット」に進行しつつある現況に「クール」に立ち向かう途だろうとした。

  • 東 望歩
    2014 年 63 巻 1 号 p. 18-30
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    『枕草子』は、小学校、中学校、高等学校の国語教科書のなかで繰り返し出会うことになる主要な古典教材である。本稿では、新学習指導要領の公布と実施を経て行われた小学校国語教科書における古典教材の導入についての検討、現行教科書での採録章段に関する調査と過去調査との比較等を行い、国語教科書のなかの〈枕草子〉の姿を通して、教育、古典、文学の関わりとそこにある問題について考察する。

  • ――「蚤の籠ぬけ」教材と作品受容――
    大久保 順子
    2014 年 63 巻 1 号 p. 31-41
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    大正期の国語教科書の教材に採用された『西鶴諸国ばなし』「蚤の籠ぬけ」の例と明治以降の活字翻刻テキストの本文の検討を通して、貞享二年刊本の原文とは種々異なる教材本文の箇所とその改訂の意図を探る。本文翻刻出版や教科書に関連する指導書その他の資料の状況から、当時の国語教育の方針と作品享受の様相を知ることができる。そこには、浮世草子や近世文学の文学史的位置づけを含めた当時の「文学」観の問題も窺われる。

  • 岡部 隆志
    2014 年 63 巻 1 号 p. 43-52
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    昭和初期に柳田国男は「郷土教育」を唱え、地方の独自性を重視し、地方に生きる生活者の視点による教育の重要性を唱えた。また、それは、良き選挙民を育成することになると考えた。従って、国家による教科書は画一的な教育になるとして反対していた。だが、敗戦後、自らの教育論を全国的レベルで実践する機会とみなした柳田は教科書作りに情熱を注ぐ。教科書を巡る柳田の変身は、柳田の教育論が抱えていた問題が表にあらわれたものである。それを解き明かすことで、柳田の教育論の問題点が明らかになると考える。

  • 白石 良夫
    2014 年 63 巻 1 号 p. 53-60
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    一 「「羅生門」の下人の恐怖」

    羅生門の楼上で「頭身の毛も太る」ように感じた下人。その「頭身の毛も太る」を「恐怖のために髪が逆立つように感じられる」と説明するのが教科書の註釈であるが、下人の心理を辿ってゆくと、そのような解釈が成り立たないことを指摘する。

    二 「李徴はなぜ「狂悖の性」を抑えることができなかったか」

    「山月記」の李徴の「狂悖の性」を「きちがいじみてわがままなさま」とする教科書の註は、儒教思想史の常識からいえば、漢学の家の人、中島敦の作品の読み解きとしては、間違っていることを指摘。

    三 「作者は本当のことを書くか」

    虚構であることが自明の文学作品に、わざわざ架空であることの註釈をつけることが意味のない行為であることを指摘。作品の嘘を無視して、作者の実像を穿鑿することは文学の読み解きとは無関係であることを述べた。

  • 石川 巧
    2014 年 63 巻 1 号 p. 61-72
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    本稿は、日本の高等教育機関において近代文学という学問が正式に承認され、汎用性のある教科書が編まれるようになったのはいつ頃からか? という問いを立てることから出発し、明治・大正期から昭和戦前期に至る教科書の変遷を追跡したものである。特に、大学講義用教科書の定義を明確にし、詳細な文献調査にもとづいてその起源を明らかにすることに力を注ぐとともに、それぞれの教科書がどのような目的と方法をもって学生の文学的リテラシーを涵養しようとしたかを考察している。

  • ――教室のなかのテクスト論・4.1――
    高木 信
    2014 年 63 巻 1 号 p. 73-86
    発行日: 2014/01/10
    公開日: 2019/01/26
    ジャーナル フリー

    平和教材として高校国語教科書に載せられたこともある梅崎春生『桜島』は、教科書に採録されるに際して大きく省略が施される。その省略の仕方によってテクストのイメージは大きく変容する。本稿では原作『桜島』を分析しながら、教科書が作り出すイメージとは違う『桜島』像を提出すると同時に、省略のある教科書にも自身を組み替えることを可能とする切片があることを見た。また『桜島』というテクストを、正義=反軍隊/悪=軍隊主義という単純な二項対立、死の危機から敗戦による日常への生還という単純な〈物語〉としては読めないものであることを指摘した。

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