1980年代頃からの嗅覚関連分野の研究成果の発展には目覚ましいものがある.生理学・生化学,分子生物学の研究から嗅覚受容器細胞での情報変換機構が次々と解明され,嗅覚の受容システムは視覚の機構や生体内のホルモン受容や神経伝達と類似していることが明らかとなった.それらを基盤として1991年にBuck & Axelが「嗅覚受容体」を発見し,その業績に対して2004年にノーベル生理学・医学賞が授与された.この時期には世界中の多くの研究者が嗅覚に対して多角的なアプローチを行い,受容体の機構のみではなく,「不明瞭であった嗅覚の実体」を総合的に解き明かしたかたちになろう.「香りの創生」と言うと,それ以前にはややもすると芸術的・文学的な意味合いが強い分野であったが,この期間に科学のメスが入ったとも解釈でき,時代の大きなうねりの中で,基礎研究はもちろんのこと,香りにかかわる医学・産業・応用の分野にも少なからぬ影響があったことが多くの事例として挙げられる.例えば,今や医学研究ではヒトの細胞を利用して嗅覚・におい分子評価を行う試みがなされている(小林氏の項を参照されたい).また,創香の産業分野(福井氏の項を参照されたい)でも生体分子への効果からにおい分子のパラメータ(例えば悪臭を消すためのマスキング能など,坂井氏の項,竹内・倉橋の項を参照されたい)を推定できるほどになっているほどである.
ところで,ノーベル賞に絡む意味で嗅覚の生体システムを分子的に眺めてみると,実はBuck & Axelらの仕事は一例である.嗅覚の情報変換に関与するG蛋白やcAMPは,生体の様々な臓器に共通するが,それぞれを発見したギルマン,ロッドベル(1994),サザーランド(1971)はノーベル賞の受賞に輝いている.分子の発見のみならず,昨今,嗅細胞でも盛んに利用される研究手法として強力な武器になるパッチクランプ法を開発したネーアー,サックマンは1991年の受賞,Ca感受性色素やケージド化合物を開発したツェンは2008年に受賞と,ノーベル賞クラスの研究にからむ事例が満載のシステムであるともいえよう.不斉合成に野依良治博士のテクニックが利用されていることは多くの人の知るところでもある(福井氏).また1987年に利根川進博士が免疫システムの解明に対してノーベル賞を受賞された際,「多様性」の意味で「免疫の次は嗅覚」に興味があると言われたことも思い出される.嗅覚は,複雑性ゆえに取り扱いが困難な一方で偉大な業績に絡む典型的な一例といえ,基礎研究でも魅力的な対象であるといえよう.
今回の企画ではBuck & Axelの受賞5周年をきっかけに,「香りにまつわる様々な分野の一線の方たち」から,「嗅覚分野のノーベル賞受賞・科学的隆盛から刺激され発展していること」を執筆していただくことができた.関連する分野として,1.嗅覚の細胞分子生物学,2.嗅覚の心理物理学・生体計測,3.嗅覚研究の臨床医学応用,4.嗅覚研究の産業応用の4分野と広きにわたり,それぞれの専門家,第一人者の先生方からの御執筆を賜るだけでなく,全体を通して相関し,まとまりある内容としての集約性がみられた.基礎科学的内容では,決して嗅覚というトピックスにとどまることなく各分野の時代の最先端を垣間見ることができる.また,嗅覚に関連する医学・産業分野では分野の盛り上がりとともに基礎的知見を応用する可能性が無限に広がる様子が強く伝わってくる.執筆してくださった先生方に厚く感謝するとともに,読者の方々に嗅覚研究や応用の可能性の糸口がつかめるようであればと期待する.
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