食品の香りは,数多くの香気成分から構成されている.それらは食べ物の味と密接な関係にあり,食べ物の質に対して大きく影響する要素となっている.近年では食品の嗜好性の変化に伴い,これまでの食品のにおいや風味を好ましく感じない消費者が増加している.好まれる食品の香りを作るには,食材の香りがどのような成分から構成されているのか,それらの成分がどのように作られるのかを知る必要がある.これらの知見を活かして現代の日本人の嗜好に適合した食品の開発が近年増加の傾向にある.嗜好への適合を目的とした新たな食品の研究には,最先端のテクノロジーが活用されている例もあり,あたかも緻密な工業製品のような感じがし,実に興味深い素材になっている.そこで本特集では「食品の香り研究の新展開」の一端を第一線の研究者の方々に紹介していただくことにした.
最初に,相根氏らにより「食材の香りと風味の研究」と題して,食材の香りと風味の関係について総論的に紹介いただいた.好まれる食品とは香りや味がよいものであるが,それら香りや味に関わる物質はどのように生成されるのかを解明することが必要である.食材の香りと風味は,食材に含まれる複数の物質を人の感覚器官が検出することによって生じるものである.これまで香りや風味を機器分析によって評価することは困難であったが,最近では機器分析と官能検査によってそれが可能になっており,研究が急速に進展していることなどが紹介されている.ここではさらに味噌などの発酵食品,清酒,吟醸酒などの清酒の香り,ワインの香りなどについて取り上げており,それらの生成についても総論的にまとめたものとなっている.
第二に,石田氏により「におい・黄変のない大根加工品の開発を目指して」と題したダイコンのにおいに関する最近の研究例を紹介していただいた.ダイコンのにおいは主要な辛味成分である4-メチルチオ-3-ブテニルグルコシノレートの分解物が大きく影響している.食品の嗜好性の変化に伴い,独特なにおいを発しないダイコンが切望され,開発が始まった.筆者らはダイコン臭の発生機構の解明を行い,原因臭の特定を行い,それらの含有率の低い品種を700種のダイコン遺伝資源から選抜している.ダイコンの加工食品の一種であるたくあんなどの香りや風味についても研究内容を紹介している.長年の地道な研究の一つ一つが成し遂げた成果であり,少々難解な部分もあるが,ダイコンの香りや風味を思い描きながらじっくり読んでいただきたい内容である.
第三に,城氏により「キノコの香り」に関する最近の研究例を紹介いただいた.9月はおいしい食べ物が豊富に店先に並ぶ時期でもある.キノコもその一つである.香りは風味と深く関わっており,質に影響する大きな要素である.ここでは種々のキノコの香りを構成している物質やそれらの生合成に関与する酵素について紹介されている.大部分のキノコの香りを構成しているのは揮発性C8化合物であり,その生合成には3つのステップである脂質の過酸化酵素,過酸化脂質の開裂酵素,C8化合物間の酸化還元酵素が関与している.しかしながら,その詳細は不明な部分が多く,今後の研究の進展が待たれている.キノコの生産競争に生き残るためには香りなどの付加価値の高いキノコづくりが求められていることや,また嗜好性の変化に対応する方法の一つとしても城先生らの研究は重要であり,同時に実に夢のある研究内容である.
最後に,赤壁氏により「柑橘風味のする鮎」と題したユニークな研究例を紹介いただいた.鮎は香魚,キュウリ魚ともいわれ,体表面から独特のにおい成分を発している.一方で海魚と比べて川魚特有の生臭さがあるといわれている.このようなことを背景に,生臭さを少なくし,より香りなどの嗜好性の高い鮎の開発が行われてきた.その結果,柑橘果皮残渣を利用した鮎の養殖を行い,柑橘の風味を知覚できる「柑味鮎」の開発に成功した.筆者らの長年の努力の結晶について,その一端を紹介いただいている.
本特集では食品の香り研究の最新の知見について,味噌等の発酵食品,清酒およびワインの香り成分,果物の香り,大根臭,キノコの香り,柑橘香のする鮎などを紹介した.食品の香りという身近な話題を扱っており,会員以外の一般読者においても興味ある内容ではないだろうか.香りや風味は我々の生活を豊かにし,健康維持にも役立つすばらしいものである.ここで紹介した内容は食品の香りに関わる数多くの研究のほんの一部にすぎないが,本特集を機に,多くの読者が「食品の香りの新展開」について認識を深めていただければ幸いである.
最後に,ご多忙中にもかかわらず,執筆をご快諾いただいた方々に,本紙面を借りて厚く御礼申し上げます.
食材の香りと風味は,食材に含まれる複数の化合物が人の感覚器によって検出されることによって生まれる.したがって,香りや風味を機器分析によって評価することは困難とされてきた.しかし,人による官能試験と機器分析を組み合わせた方法で香りや風味を評価できる可能性がうまれてきた.一方,好まれる食材の香りを生み出すためには,香りや風味に関わる化合物がどのように合成されるかを解明することが必要である.本稿では,香り成分の視点から,発酵食品中の化合物とその代謝経路,植物の香りに関わる遺伝子の研究について紹介する.
4-メチルチオ-3-ブテニルグルコシノレートの分解物は,ダイコンの主要な辛味成分であるとともに,大根加工品のにおいや色調に大きな影響を及ぼす.「だいこん中間母本農5号」は,4-メチルチオ-3-ブテニルグルコシノレートを含まない世界初の品種であり,その加工品では大根臭や黄変の発生原因となる2-[3-(2-チオキソピリジン-3-イリデン)メチル]-トリプトファンやテトラハイドロ-β-カルボリンカルボン酸が生じない.このため,本品種を育種素材として利用することで,大根臭や黄変が生じずに,辛味が残存する新規大根加工品の創出が可能な,新たな経済品種を育成することができる.
キノコにおいて香りは美味しさを構成する大事な要素である.そのために多くのキノコにおいて香気成分が分析されている.キノコの中にはマツタケや干しシイタケのように特徴香を持つものもあるが,大部分のキノコにおける香りの主成分は1-オクテン-3-オールや1-オクテン-3-オン,3-オクタノン,3-オクタノールなどの揮発性C8化合物である.C8化合物の生合成には,脂質過酸化酵素,過酸化脂質開裂酵素,酸化還元酵素が関与すると考えられているが,よくわかっていない部分も多い.そこで本稿ではキノコの香気とその生合成に関わる酵素について述べる.
鮎は,“香魚,キュウリ魚”ともいわれ,体表面から発せられる独特のにおい成分により,「キュウリ様」,「スイカ様」と評価される一方で,海魚と比べ川魚特有の生臭さがあると言われている.そこで,この生臭さのイメージを解消し,より嗜好性の高い鮎の開発を目指し,柑橘果皮残渣を利用して養殖を行ったところ,誰もが柑橘の風味を知覚することのできる鮎の開発に成功し,「柑味鮎(かんみあゆ)」と命名した.また,「柑味鮎」と天然や通常の養殖鮎の試食のアンケート結果とにおい識別装置により,においに関する正の相関が確認でき,各鮎のにおいの質を明確に区別できることが分かった.この開発した「柑味鮎」はブランド化され,地元で食材として提供されているのみならず,全国展開され,贈答用商品も流通している.