近年,エレクトロニクスデバイスの微細化が進み,素子動作において物質の波動性が露になる限界に近づきつつある.そのような限界を打ち破る方法の一つとして,分子を利用することが提案されている.分子の良く規定された量子状態を利用し,多様な性質を示す分子を組み合せることでデバイスを組立てるという発想である.このような背景のもと,単一分子の物性研究が盛んに行われている.数ある有機分子の中で,有機金属分子は特に注目されている.有機金属分子は,その分子骨格に含まれる金属イオンが多彩な電子状態やスピン状態を示すことから,電荷とスピンという2つの自由度を利用したスピントロニクスデバイスにおける構成部品としての可能性を秘めているからである.このような分子からデバイスを組立てるには,基板に吸着した単一分子のスピン物性-スピン状態,磁気異方性,磁気秩序,スピンダイナミクスなど-を明らかにすることが欠かせない.では,単一分子のスピン情報をどのように検出するか?分子スピンの研究に広く使われている電子スピン共鳴や磁気感受率計測では,単一分子スピンを検出することは極めて困難である.我々は,走査トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscope, STM)を使って単一分子のスピン検出に取り組んだ.STMは,金属探針-導電性試料間を流れるトンネル電流を信号とし,固体表面の原子構造を観察する顕微鏡である.トンネル電流には,構造情報だけでなく,原子・分子の電子状態,振動状態,スピン状態等の多岐にわたる物性情報が含まれている.探針-試料間にかける電圧の関数としてトンネル電流を測定することで,これらの情報を得ることができる.ただし,スピンと外部磁場によるゼーマンエネルギーは,10テスラの磁場で約1meVであるため,スピン検出には極低温・強磁場環境下での精密な計測が必要である.一般に,有機金属分子が基板におかれると,対称性の低下や基板との相互作用によって磁性を担う金属中心を囲む配位子場が変化し,スピン状態や磁気異方性の変化が予想される.本研究では,極低温・強磁場環境下でのSTM計測によって,銅基板上に展開した鉄フタロシアニン(FePc)分子のスピン状態と磁気異方性がどのように変化するかを調べた.バルクでは,FePc分子はFe^<2+>イオンに由来するスピン3重項状態をとる.このスピン3重項状態は,Fe^<2+>イオンでのスピン軌道相互作用によってゼロ磁場分裂し,部分的に縮退が解ける.この結果,FePc分子は分子面に平行な方向に磁化容易化軸を持つ分子磁石として振る舞う.FePc分子が,銅基板に直接コンタクトしている場合は,スピン状態が1重項状態に変化する.一方,単原子層厚さの酸化膜で銅基板を修飾した場合はスピン3重項状態が保たれることがわかった.また,磁気異方性は基板との相互作用により影響を受け,磁化容易化軸が面内ではなく,分子面直方向に切り替わる.このような吸着に伴う容易化軸のスイッチングは,本研究で初めて観測された現象である.以上の結果は,分子-基板における界面の相互作用が磁性分子の磁気特性に大きな影響を及ぼすことを示していると同時に,分子-基板界面を原子レベルで修飾することにより分子の磁気特性が制御可能であることを示している.
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