本稿は,江戸・東京の富士講からみた富士山の風景を,富士講の信仰習俗を考慮しっっ,富士講が築造した富士塚の形態の解釈を通じて復元した.江戸末期の富士塚の形態から,「富士講員は,富士登拝の体験を,強く希望した」と風景を解釈した.この誘因として,富士講では,富士登拝が成年男子のみ可能であり,登拝が金銭的にも体力的にも困難であり,富士山は阿弥陀の住む西方極楽浄土と意味づけられ,山頂での御来迎によって阿弥陀の来迎が体験でき,登るほどに超人的な力を得ると信じられたことをあげた.さらに明治期から昭和前期の富士塚の形態からは,「富士講員は,富士登拝を希望したが,登拝体験の価値を明確には理解できなかった」と風景を解釈した.この誘因として,富士講では,老若男女の富士登拝が可能になり,登拝が金銭的にも体力的にも容易になり,富士山は木花咲耶姫などの聖地と意味づけられたが,それらを体験できる装置は創出されず,しかし登るほどに超人的な力を得ることは信じられたことをあげた.そして戦後の富士塚の形態からは,「富士講員は,富士登拝を希望したが,富士講の感覚を共有する人がほとんどいなくなった」と風景を解釈した.この誘因として,戦後に生まれた人が,富士講を継承しなかったことをあげた.
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