我々の目で直接見えるものは可視光の吸収または発光であり,これらを波長分解して測定する,いわゆる分光計測は広く行われている.しかしながら,可視光の吸収や発光は,物質中の電子の光電場に対する応答に由来するものであり,可視光に吸収を持たない透明な物質も多い.
透明な物質を光で観察するには,試料を色素で染色して光吸収を生じさせたり,蛍光分子で標識して発光させたりする必要がある.これら染色や標識は,特に生体を光学顕微鏡で観察する際に必須の技術である.しかし,染色や標識は,手間のかかる試料調製が必要であるとともに,色数が数色に限られるなどの課題がある.また,そもそも染色や標識が難しい生体分子が多く存在している.
一方,赤外線の領域には,分子振動に由来する光吸収(赤外吸収)があり,それを検出することでより豊かな分光情報が得られることが知られている.また,可視光と分子振動の相互作用により,入射光と異なる波長に微弱な散乱光として現れるラマン散乱も,分子振動の情報を有している.これら赤外線吸収や可視光のラマン散乱を検出する分光法は振動分光法と呼ばれ,主に材料評価法として広く使われている.
振動分光イメージングとは,観察対象を多点で振動分光計測することで,分子の空間分布を可視化する技術である.振動分光イメージングは長い歴史を有するが,以下の課題を抱えていた.(1)従来,赤外線領域においては輝度の低い光源や低感度な光検出器しかなく,赤外イメージングの感度や速度が十分ではなかった.(2)赤外線は可視光よりも波長が長いため,イメージングにおける空間分解能が低かった.(3)ラマン散乱は可視光域に発生するので,ラマンイメージングの空間分解能は高いが,ラマン散乱光の強度が非常に弱いことから,イメージング速度が非常に低かった.
これらの課題に対して,近年,光源の発展に加えて,さまざまな分子振動の検出方法が適用されたことで,振動分光イメージングの時間分解能や空間分解能が大幅に向上した.さらに,振動分光イメージングのためのプローブ分子も登場し,従来の染色や標識では可視化が難しかった分子をイメージングしたり,従来のイメージング技術の色数を超える超多色イメージングすることなどが可能になり,生体イメージングの分野を中心に応用が広がりつつある.
これら振動分光イメージング法は,分子振動の駆動法と検出法で分類することができる.駆動法としては,赤外光を用いる赤外励起と,2色の光を用いるラマン励起がある.検出法としては,光強度変化を検出する方式,サイドバンドを検出する方式が長く使われてきたが,近年,光熱検出法,光音響法,蛍光検出法などが次々と適用されている.今後,光源や計測法,解析法のさらなる発展により,振動分光イメージングが医生物学分野において従来見えなかった生命現象を可視化する手法として広く使われることが期待される.
広帯域の超短パルス光を原子や分子に照射すると固有状態を重ね合わせた量子波束が生成される.ダブルパルスで原子や分子を励起すれば量子波束のペアが形成され,その位相差に応じた干渉が生じる.そこでは光電場の振幅と位相が波動関数に転写されるため,光パルスの電場波形を上手く制御することで量子波束の干渉を操作できることになる.1980年代には,そのような光による量子干渉の操作を化学反応制御へ応用するアイデアが提唱された.そして光学レーザーの発展とあいまって,1990年代以降,光による原子・分子の量子状態や反応過程の制御の研究は実験・理論の両面から急速に活発化していった.
高度な波形制御ができるレーザー光が,量子干渉の制御の実現をもたらした.ただし可視やその近辺の波長域をカバーする光学レーザーが得意とするのは,分子の振動,回転状態や束縛エネルギーの低い最外殻電子の制御である.またこの波長域では光電場の振動周期が数フェムト秒となるため,フェムト秒よりさらに短い時間スケールで進行する超高速反応の制御や追跡はできない.そのため極紫外(波長~数十nm)やさらに短い波長域において,光電場波形を精密に制御したダブルパルスを発生する光源の開発が待ち望まれていた.
そのようななか,2010年代に入り,高次高調波レーザーやシード型自由電子レーザーによって極紫外域の超短ダブルパルスの生成とアト秒レベルでの位相制御が実現された.この技術革新には,1990年代以降に急速に発展したフェムト秒レーザー技術や加速器によるコヒーレント光生成技術が大きな役割を果たしている.一方,レーザー光源とは異なる方向性で,シンクロトロン放射による極紫外ダブルパルスの生成技術も開発されている.これは放射光リングを周回する個々の電子からの放射波形を活用するアプローチであり,既存の加速器技術の枠組みで光電場波形をアト秒レベルで容易に操作できることが利点である.
これらの光源で実現した極紫外ダブルパルスを用いて,近年,原子,分子に関する基礎研究で先駆的な成果が報告されている.たとえば,2010年代後半には高次高調波と自由電子レーザーを用いて原子のイオン化や分子イオンの解離といった基礎的な原子分子過程の量子制御が実現している.またシンクロトロン放射を用いた研究では,原子の励起状態の占有率や電子軌道形状の量子制御が実現した.
さらに,極紫外光の位相をアト秒レベルで制御できることから,これまでは周波数領域の分光手法で調べられていた短寿命状態のダイナミクスを時間領域で捉えられるようになってきた.内殻空孔のオージェ過程や励起状態の自動イオン化,分子の原子間クーロン緩和など,極紫外光でなければ励起できない短寿命な状態の緩和過程がその対象となっている.また量子干渉を利用した原子の高励起状態の高精度分光は,基礎物理研究への応用が期待されている.
現在,さらなる短波長化や短パルス化へ向けた光源開発が急速に進んでおり,近い将来にはX線ダブルパルスの位相制御を駆使したゼプト秒域での原子分子物理が開拓される可能性があるだろう.
分子性結晶は多様で修飾可能な分子を構成要素として持ち,原子を基本的な要素とする無機化合物と比べて物質設計の自由度が高い物質群である.通常,有機分子は閉殻構造をとるため絶縁体となるが,キャリアをドープして電気伝導性を持たせた分子性有機導体は,軽量で柔軟な電子材料としても注目されている.また,分子性有機導体は,超伝導から電子強誘電性,絶縁体–金属転移まで様々な電子状態を示すが,これらは分子性結晶の「柔らかさ」と密接な関係がある.
中性子非弾性散乱は,「柔らかな」格子を調べることができるプローブで,格子と絡んだ物性の研究に用いられてきた.しかし,従来の中性子分光器では数gオーダーの大きな単結晶が必要であり,大きな結晶を得にくい分子性有機導体の中性子非弾性散乱実験には高い障壁となっていた.
近年の中性子集光技術の向上により,試料位置での中性子フラックスが増大し,この障壁が下げられている.我々は,このような背景のもと,興味深い電子物性を示す2つの分子性有機導体のフォノンの研究を行った.1つは量子スピン液体候補物質のκ-(BEDT-TTF)2Cu2(CN)3(κ-CN)ともう1つは,パイ電子の偏りによる電子誘電性を示すκ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Cl(κ-Cl)である.どちらも,2つのBEDT-TTF分子で1つのパイ電子を共有してBEDT-TTF分子二量体(ダイマー)を組み,パイ電子間の電子相関により絶縁体化するモット絶縁体として,盛んに研究されてきた物質である.
実験では,κ-CN,κ-Cl,それぞれ僅か合計26mg,10mgの重水素化した単結晶を用い,明瞭なフォノンシグナルを得ることに成功した.
その結果,κ-CNでは6Kで種々の物性で異常が現れるが,これよりも高温においてBEDT-TTFダイマー由来の光学活性なフォノンモードに過剰な減衰(過減衰)が生じることを見出した.BEDT-TTFダイマー内の電荷の偏りを考慮した理論モデルとの比較により,6K以下ではBEDT-TTF分子が四量体を組むスピン一重項状態が形成されることが示唆された.
また,κ-Clでは,パイ電子の電荷・スピン自由度の秩序化に伴い,ある特定のフォノンモードのみがフォノン線幅に顕著な温度変化を示すことを見出した.BEDT-TTF分子の積層構造を考慮すると,κ-Clで見出された特性モードもBEDT-TTF分子ダイマー由来の光学活性なフォノンモードと推測される.上記の理論モデルとの比較からは,κ-Clの低温での基底状態は電荷が偏っていない反強磁性相であることが示唆された.
これらの結果は,BEDT-TTFダイマー内のパイ電子の電荷自由度やスピン自由度と格子との結合を示唆するものである.また,この柔らかな格子との結合を通じて,パイ電子の揺らぎや秩序状態の情報にフォノンを通じてアクセスすることができることが明らかになった.
今回,10mg程度の微量な分子性有機導体の単結晶からパイ電子の電荷やスピンと結合した格子励起が中性子散乱により観測されたことで,今後,格子と協調した分子性有機導体の物性研究が更に加速されることが期待される.