京都の詩仙堂の庭園には,日本で最初に設置された鹿威しがある.鹿威しは,その名の通り,鹿や猪を追い払うためのものであるが,今では,その音の風情を楽しむものとして親しまれている.この鹿威し,自律的なリズム運動,つまり,外部とのエネルギーの出入りがある非平衡開放系における繰り返し運動をわかりやすく体現した例として,しばしば取り上げられる.このようなリズム運動は,身の回りの様々な場面でも,心臓の鼓動,動物の歩行,蛍の明滅,コオロギの鳴き声,神経細胞の発火,振動化学反応など,枚挙にいとまがない.
リズム同士が交わると,お互いにタイミングを揃えて運動することがある.これは同期現象と呼ばれ,古くはホイヘンス(C. Huygens)が,同じ梁に支えられたふたつの振り子時計のリズムが揃うことを発見していた.同期現象は,蛍の集団発光,コオロギの大合唱,体内時計を司る神経細胞の集団発火など,多様なリズム現象において普遍的に生じ,機能的意義を持つことも多い.
リズム運動やその同期現象には,系の詳細に依存しない普遍的なメカニズムが潜んでおり,意外なほどに単純な数理モデルを用いて記述できる.リズム運動は,漸近安定な周期軌道(リミットサイクル)を持つ力学系である非線形振動子として記述でき,その特性は,最も簡潔には,リズムの進み具合のみを表す位相モデルに集約できる.
位相モデルは,非線形振動子に対して,系の運動とともに一定の振動数で単調に増加する漸近位相を定義することによって得られる.この位相モデルを用いることで,系の詳細によらない普遍的な同期現象の性質を,系統的に解析することができる.
ところで,近年のナノテクノロジーの発展に伴って,マイクロ・ナノスケールの系における同期現象が実験的にも観測され始めており,リズム現象や同期現象の研究も,いよいよ量子効果を無視できない領域に入りつつある.このような背景から,量子開放系における非線形振動子の簡潔な数理モデルが2013年に提案され,これを機に,この10年程度の間に,量子同期現象に関する理論研究が大きく進展している.実験的にも,ルビジウム原子の集団などの量子系において,広い意味での量子同期現象が実際に観測され始めている.
量子系の同期現象においても,古典系の場合と同様に,系の性質によらない普遍的なメカニズムが潜んでおり,位相モデルに基づく解析が有効ではないだろうか? 我々は最近,このような自然な見立ての下に,量子非線形振動子に対して,量子性が弱い状況で半古典近似の位相モデルを導出した.さらに,古典的な位相モデルの導出に用いられる漸近位相の定義を拡張して量子漸近位相を導入し,これを用いて,量子性の強い状況で生じる複数位相ロック現象と呼ばれる特有の同期現象を,詳しく解析できることを示した.これらの研究結果は,古典系の非線形ダイナミクスにおける解析手法が量子系の非線形現象に対しても有効である可能性を示している.
近年の量子コンピュータの発展に伴い,量子開放系における非線形現象を実現するための実験技術は著しく進展している.量子同期現象に関する研究の進展がひとつの契機となり,量子同期現象のみならず,幅広く量子非線形科学という新たな研究の地平が今後切り拓かれていくことを期待したい.
固体物理で見られる多彩な量子現象は,基本的な物理量である電荷・スピン・電流密度の時空間分布によって特徴づけられる.近年,これらの密度分布を多極子の概念を用いて系統的に記述する研究が精力的に行われており,新奇な秩序現象の説明や交差応答を持つ物質の新規開拓の一助となっている.
対象物質がどのような多極子を有するかは物質の持つ対称性に依存し,空間反転および時間反転に対する偶奇性に応じて,電気多極子,磁気多極子,電気トロイダル多極子,磁気トロイダル多極子の4つのカテゴリーに分類される.例えばよく知られるように,強誘電体を特徴づける電荷分布は電気双極子を,強磁性体を特徴づけるスピン分布は磁気双極子を有する.また,トーラス(ドーナツ形)状の電流分布は磁気トロイダル多極子に対応する.一方,電気トロイダル多極子はこれまであまり認識されてこなかった鏡映対称性を破る非磁性の自由度として,カイラル物質やフェロアキシャル物質におけるカイラル物性との関連から,最近,大変注目されている.
これらの多極子の具体的な物理描像は,多極子の表現と相性のよい局在原子軌道を用いて調べることができる.その考察に基づくと,電気トロイダル多極子は電荷・スピン・電流密度といった基本的な物理量では捉え切れず,ミクロな物理量について再考する必要性に迫られる.
固体物理において,通常,電子の運動は座標rにスピンσ=↑,↓の電子を生成する演算子ψσ†(r)(2成分場)によって記述されるが,より原理的には4成分ディラック場に基づいて考える必要がある.実際,電荷密度や電流密度といったミクロな物理量はディラック場によって定義され,その非相対論極限をとることで2成分場による表示を求めることが基本的である.この観点に立ち戻ってミクロな物理量を系統的に整理すると,電気トロイダル多極子に関連する物理量として,スピン自由度に由来する電気分極や電子カイラリティ密度という物理量を考える必要があることが明らかとなる.相対論効果に起因するこれらの物理量は,これまであまり重要視されてこなかったものであるが,スピントロニクスなどとの関連も深い.
右下の図は局在した電子系に内在する電気トロイダル双極子状態を考えた場合における,スピン自由度由来の電気分極と電子カイラリティ密度の空間分布である.電気トロイダル双極子の軸周りに電気分極が渦状に付随し,軸を含む面に対する鏡映対称性を破っていることがわかる.また,軸方向には電子カイラリティ密度が双極子分布を示し,電気トロイダル多極子が電子カイラリティ密度と一対一に対応するという描像が得られる.
こうして,電子カイラリティ密度はカイラル物質やフェロアキシャル物質における左右対称の破れの度合いを定量的に示すようなミクロな物理量であり,スピン由来の電気分極とともにカイラル物性に関して新しい視点をもたらすものと期待される.ここで取り上げた物理量は第一原理的に各時空点において計算可能な量である.その時空間分布,マクロな積分量,輸送係数への影響を系統的かつ定量的に調べることにより,新奇な誘電体やカイラル物性の起源同定など様々な物性予言に繋がる可能性を秘めている.
ダークマターの重力効果はさまざまな宇宙観測で確認されている.このダークマターという物質の存在が明らかになった一方で,その素粒子的な性質はほとんどわかっていない.特に,ダークマター1個あたりの質量は依然として不明であり,10-20 eVから1027 eVまでの途方もない範囲にわたって可能性がある(質量はエネルギーと等価であり,エネルギーの単位である電子ボルトeVで表される).
素粒子物理学において,ダークマターというのは“期待の星”である.素粒子の標準理論を記述する全ての素粒子が実験的に確認されたが,標準理論には満足できない問題点も多々ある.標準理論の枠組を超えた理論とそれに付随する未知粒子によって,そういった問題点を解決できるのではないかと考えられている.ダークマターは標準理論の素粒子では説明できない未知の粒子である.よって,ダークマターの粒子としての性質を解明できれば,標準理論を超える物理学を構築する糸口になるはずだ.
ダークマターの性質を解明するための実験として,ダークマターを地球上で検出してやろうとする実験がある.ダークマターは重力のため,銀河を覆うように局在する.太陽系はこのダークマターハローの中を公転運動しているので,標準模型の素粒子と相互作用するならば,地球上で検出できるはずだ.
これまで,“WIMP”という約1 GeV以上の比較的重い粒子が四半世紀もの長きにわたって探索されてきたが,確固たる検出結果はまだない.そこで最近は,WIMPにとらわれることなくより幅広い可能性を探求する研究が盛んになっている.世界中でさまざまな実験がおこなわれており,京都で我々がおこなっているDOSUE-RR(どすえ–ダブルアール,Dark-photon dark-matter Observing System for Un-Explored Radio-Range)も従来と異なるμeVからmeVの超軽量なダークマターを探索する実験である.超軽量なダークマターの候補の一つとして,“ダークフォトン”がある.光とのみ超微弱に相互作用する粒子とされ,DOSUE-RRはこれをターゲットとしている.
ダークフォトンは金属板表面で通常の光に転換し,さらにその伝播方向が金属板表面に対して垂直になる.その転換光を受信機で検出できれば,ダークフォトンの検出が可能となる.転換光の周波数はダークフォトンの質量に比例し,狙っている質量領域だと転換光は10–240 GHzに相当する.この周波数帯の光はミリ波と呼ばれる周波数帯域であり,ミリ波受信機で捉えることができる.ただし,その転換率は非常に小さいはずであり,超微弱な光を捉える必要がある.
DOSUE-RRは2020年に始動し,現在までに2周波数帯域(10–18 GHz,18.0–26.5 GHz)での探索を達成した.基本的には市販で購入できるミリ波部品の組み合わせで,比較的短い開発期間で“お手軽”に探索をおこなってきた.さらには,極低温クライオスタットを用いてより微弱な信号を検出できるミリ波受信機も開発している.
以上のように世界一の感度でダークフォトンを探索することに成功し,信号検出には至っていないが,ダークマターの幅広い可能性を絞りこむことに貢献している.小規模な実験であるが,大規模化が進む素粒子宇宙の実験分野の中で,短期間でインパクトのある成果を得ている.今後はさらなる高周波化と効率化によってより広い質量でかつより微弱な転換光の信号を探し,ダークフォトンの発見に繋げたい.
1960年のレーザー誕生後,様々な技術革新によってナノ秒からフェムト秒領域の短い時間幅をもつパルスレーザーが利用できるようになった.超短パルス化によって,レーザー光のピーク強度は飛躍的に増大し,特に1985年のMourouとStricklandによるチャープパルス増幅(CPA)法(2018年ノーベル物理学賞)の開発は,大学の実験室におさまる小型のレーザー装置で1015 W/cm2に達するピーク強度をもつレーザー場の発生を可能とした.これはレーザー電場にして約109 V/cmに相当し,水素原子の1s軌道におけるクーロン場の大きさに匹敵する.
強レーザー場はその強い電場を介して,物質内の電子の運動を駆動する手段を与え,アト秒光パルス発生(2023年ノーベル物理学賞)や炭素材料などの加工や医療などへの応用も進められている.強レーザー場によって誘起される電子のダイナミクスは電場が時間的にどのように変化するか,つまりレーザー電場の波形に敏感であることから,制御された電場波形をもつ波形整形強レーザー場を用いて物質の応答を理解する試みが進められている.
波形整形法の一つであるω–2ω波形合成法はレーザーの基本波と第2次高調波を重ね合わせるもので,2つのレーザー光の強度や偏光方向,相対位相に応じてレーザー電場波形が変化する.例えば2色の直線偏光レーザーパルスを平行に重ね合わせてできるω–2ωレーザー場は右図に示すように相対位相に応じて変化する電場振幅をもつ.2つのレーザー場のうち,ωあるいは2ωいずれかのみの場合では偏光方向に対して対称な電場振幅となるのに対し,ω–2ωレーザー場は電子に対して空間非対称な相互作用を与えうる.これまでにω–2ω強レーザー場におけるイオン化や分子内電荷の局在,レーザー高次高調波の制御など,強レーザー場における原子分子過程の理解と制御について研究が進められている.
4つの等価な結合をもち正四面体(Td対称)構造をとるメタン(CH4)分子を対象としてω–2ωレーザー場における反応ダイナミクスを調べた.強レーザー場との相互作用によりイオン化し,生成した2価分子イオンからの解離(クーロン爆発)に注目すると,H+とCH3+が生成する経路と,H–H結合形成を伴いH2+とCH2+が生成する経路が観測された.どちらの経路も2色の相対位相によってその放出方向が変化することが見出され,非対称電場中でレーザー偏光方向に沿って特定のC–H結合切断が選択的に起こることが明らかになった.またH+生成過程では解離に選択性をもつ経路が2つ存在することも分かった.
これらの選択性を理解するために,強レーザー場過程の一つであるトンネルイオン化に注目した.トンネルイオン化理論に基づく計算から,非対称なレーザー場に対するメタン分子の配向によってイオン化レートが大きく変化することが示され,この配向選択イオン化によってH+生成の一つの経路が説明できた.一方,他方のH+生成経路とH2+生成経路は,トンネルイオン化による予想とは逆の位相依存性を示した.これは核間ポテンシャルの変形を伴う光と分子の強い結合が非対称解離を支配しているため,と考えられる.ω–2ω強レーザー場による分子の非対称解離ダイナミクスを通じて,強レーザー場における分子の複雑な応答についてより深い洞察を得られることが示された.