大正自由教育のもと,秋田喜三郎1)は,国語教育界に新風を吹き込んだ。1910年代の国語教育界は,明治期の国漢学者の教授の系統をひく文字・語句等の「形式を重視」する派と新しい教育学者の系統の「内容を重視」する派の二潮流が存在していた。秋田は,両派の長所を止揚した「折衷主義」2)の創造に成功し,「読み方教授」の本質に立った教授法「創作的読み方教授」を1919年に樹立する3)。「創作的読み方教授」では,児童の「自学自習」を中心に据え,児童の文章の意味理解には,「作者」を「想定」することで確実に,深く理解することが出来るとした「作者想定」法を提案した。「自学」という方法論と「作者想定」という内容論を持って,秋田は1920年に滋賀県師範学校附属小学校(以下,「滋賀附小」と略す)から奈良女子高等師範学校附属小学校(以下,「奈良女附小」と略す)に赴任する。秋田は,奈良女附小で木下竹次4)の指導理念である創造的自律的「学習法」と自身の「自学主義」,「作者想定」の「創作的読み方教授」の実践を摺り合わせ,自己の授業実践を再構築し,「創作的読み方教授」を深化・発展させていく。本論文の目的は,滋賀附小時代の秋田の実践「創作的読方教授」が木下との邂逅によって,いかに深化・発展していったかといった変容の過程を明らかにすることにある。
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