亀井南冥は任侠の儒医。青年時代, 永富独嘯庵に私淑してきただけに強烈な個性の持主であり,「先生ノ人トナリ, 伸ブルコトヲ能クスレドモ, 屈スルコトヲ能クセズ, 誠二猛虎ノ如クナル者ナリ」と, 儒者広瀬淡窓はいう。南冥は安永7年 (1778), 町医より福岡藩儒医に抜擢され, やがて藩主の待講となる。しかし彼の栄進を喜ばぬ朱子学の貝原益軒の門弟と, 徂徠学を奉ずる南冥とは衝突すべき運命にあった。天明3年 (1783)。南冥は御納戸組を仰せつけられ, 学問所甘棠館を許可され順調に運営されるが, 10年後の寛政4年 (1792), 終身禁足となる。彼は『論語語由』の一書を完成し, 孔子の原意を正しい姿にかえそうと著述したことなどを述べたい。
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