社会学評論
Online ISSN : 1884-2755
Print ISSN : 0021-5414
ISSN-L : 0021-5414
41 巻 , 1 号
選択された号の論文の13件中1~13を表示しています
  • 森岡 清美
    1990 年 41 巻 1 号 p. 2-11
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
    第六二回大会にあたり、恒例により会長講演と銘うつ報告をいたしますことは、私のもっとも光栄とするところです。さて、演題にいう「死のコンボイ経験世代」の説明が、本日の講演内容の大部分を構成することになると思います。まず、「コンボイ」ですが、以下、原稿に従って「である」調で記録することをお許しください。
  • 牟田 和恵
    1990 年 41 巻 1 号 p. 12-25
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
    本稿は欧米の近代家族史研究に触発されて、明治期刊行の七種類の総合雑誌・評論誌をデータとして近代日本の家族像の一端を探る試みである。記事の分析により得られた知見は以下の二点にまとめられる。 (1) 明治初期から旧来の封建的家族道徳を批判し新しい家族のあり方を模索する意識が現れ、二〇年代にはそれが「家庭 (ホーム) 」という言葉に象徴される、家内の団欒や家族員間の心的交流に高い価値を付与した家族への志向に結晶化する。その底を流れるロジックは、西欧化と産業化への意欲であり、国家と社会の発展のためには直系的「家」の論理は逆機能的であるという認識である。つまり「家庭」は家族員の情緒的結合の象徴であると同時に国家社会の発展の礎としても位置づけられているのである。 (2) 二〇年代後半以降、「家庭」型家族の理念にまた別の要素が加わる。明治初期の平等・友愛的な啓蒙的家族像は後退し、夫と妻の性役割分業が規範化されて「家庭」は「家婦」そして「主婦」が中心として存在し夫や老親に仕え子に献身する場となる。同時に家族や家庭は公論の対象から除外され、家庭はいわば「女性化」・「私化」する。
    これまで明治期以降の近代日本の家族については、明治民法による封建武士の家族制度の一般民衆への拡大、そして家族の「前近代性」、と結び付いた家族国家主義のイデオロギーによる国家の家族管理が論じられてきた。本稿はこれに異論を唱えるものではないが、明治期前半に西欧的な「家庭」型家族への志向が存在したこと、そして天皇絶対主義国家体制が確立し家族国家主義のイデオロギーの浸透する明治期中盤以降にこの新しい家族道徳もまたその土壤となり、同時に封建儒教的女性観を新たな形で普及させる機能を担ったというパラドックスが誌面から窺えることを指摘したい。
  • 1990 年 41 巻 1 号 p. 25
    発行日: 1990年
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 菅野 仁
    1990 年 41 巻 1 号 p. 26-40
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    本稿の課題は、「生」と「分業」という二つの概念の統一的把握を通して、G・ジンメルの「近代文化論」がもつ独自な意義を明らかにすることにある。
    これまでジンメルの近代文化論については、その中心的概念が「生」であるとし、その概念的、形而上学的性格を批判する見解や、「生」と「分業」との統一的把握のもとに近代文化の問題の核心に迫った意義深い文化論であると積極的評価を下す見解などがあった。本稿は基本的に後者の立場に依拠しており、ここではジンメルの近代文化論がどのような意味で積極的に評価しうるのかを、『貨幣の哲学』の近代文化論の検討を通じて明らかにしたいと考える。すなわちジンメルは、「生」と「分業」という二つの概念を主軸に近代文化がはらむ問題状況を、「主体の文化と客体の文化との齟齬的関係」としてとらえ直すことによって、ネガティヴな現象形態をとりつつ進展する近代文化の在り方のなかに「可能性」として蓄積されているポジティヴ性をみる、という複眼的視座からの近代文化論を展開したのである。本稿では、彼の近代文化論における「生」概念と「分業」概念との関係の在り方を明らかにすることを通して、近代文化をとらえるジンメルの複眼的視座がもつ独自な意義に迫りたい。
  • 佐藤 俊樹
    1990 年 41 巻 1 号 p. 41-54
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
    「儒教とピューリタニズム」はマックス・ウェーバーの一連の比較社会学の論考のなかでも、最も重要な論考の一つである。だが、そこでの儒教理解、とりわけ儒教倫理を「外的」倫理だとする定式化には問題があり、またウェーバー自身の論理も混乱している。この論文ではまず、儒教のテキストや中国史・中国思想史の論考に基づいて、儒教倫理が実際には「内的」性格を強くもつ『心情倫理』であることを、実証的に明らかにする。なぜ、ウェーバーは儒教の心情倫理性を看過したのだろうか? プロテスタンティズムの倫理と儒教倫理は実は異なる「心の概念」を前提にしている。ウェーバーはその点に気付かずに、プロテスタンティズム固有の心の概念を無意識に自明視したまま儒教倫理を理解しようとした。そのために、儒教を「外的」倫理とする誤解へ導かれたのである。儒教倫理は儒教固有の心の概念を前提にすれば、きわめて整合的に理解可能な、体系的な心情倫理である。
    それでは、この二つの倫理が前提にしている相異なる「心の概念」とは何か? 論文の後半では、この心の概念なるものの実体が、伝統中国社会と近代西欧社会がそれぞれ固有にもっている人間に関する「一次理論」であることを示した上で、その内容を解明し、その差異に基づいて、二つの倫理とその下での人間類型を再定式化する。そして、それらが二つの社会の社会構造にどのような影響を与えたかを考察する。
  • 渡辺 聰子
    1990 年 41 巻 1 号 p. 55-64
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
    The article attempts to investigate historical transformation in the Americans' evaluation of Japan and the Japanese over the past fifty years. As a result of the analysis of the empirical data derived from two opinion polls, the author has found that the level of evaluation has gradually risen over the past thirty years. Especially when one compares the ranking position of the Japanese in 1951 and 1984, the difference is striking. The US-Japan trade problem which has called public attention in the past two decades does not seem to bear significant negative influence upon the evaluation. Furthermore, it has been found that age, education, income, and occupation show significant correlation with the evaluation.
  • 会田 彰
    1990 年 41 巻 1 号 p. 65-66
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 川本 勝
    1990 年 41 巻 1 号 p. 67-68
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 中島 道男
    1990 年 41 巻 1 号 p. 69-70
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 横山 実
    1990 年 41 巻 1 号 p. 71-72
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 三浦 典子
    1990 年 41 巻 1 号 p. 72-74
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 越智 昇
    1990 年 41 巻 1 号 p. 74-76
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
  • 齋藤 吉雄
    1990 年 41 巻 1 号 p. 76-78
    発行日: 1990/06/30
    公開日: 2009/10/13
    ジャーナル フリー
feedback
Top