個人は例外なく個性あり自立した存在である。そのような個人を経験科学的に取上げることを、これまでの社会学は避けてきた。
各個人は社会的に形成されて来た結果であると共に、どの時点の現在でも社会により規定されつつ、逆に主体的に社会を規定し返している存在である。このような個人についての研究は、彼らの現状にバーソナル・ライフ・ヒストリーを合せ考えるならば、社会学でも可能であり、社会学にとって不可欠でもある。
私は一九四八年の最初の論文執筆時以来、模索しては来たが果せなかったこの課題に、一九六八年一〇月刊の論文から一九七八年同月刊の著書までの間に、その解決方法に見透しをえたが、一九八一年八月までの三つの現地調査でその方法に確信をもつに至った。
たとえ一個人の分析によってでも、その人の生きた社会の現実について我々の社会学的知識を深め拡げる契機はつかめる。また、そのようにして、個性をもった個人の主体性についての知見を補強しなければ、社会の研究は片手落ちになってしまい、社会学は人間を見失うおそれがある。
社会学研究者は各自のフィールドで個々人との出会いをもつことによってのみ獲得できる人間についての新しいイメイジにたえず再生の思いを新たにしうるのである。そういう出会いを、調査技術の発達ないし研究能率の重視が妨げてきたきらいがある。
この論文の後半は、多くの会員が予備知識をもつ一社会学者 (有賀喜左衛門) を対象事例としてその研究方法を説く。
抄録全体を表示