社会学評論
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63 巻, 1 号
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投稿論文
  • 同和地区/スラムという分断にみる地域社会のリアリティ
    山本 崇記
    2012 年 63 巻 1 号 p. 2-18
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    本稿では, 京都市のスラム地域を事例に, 住民の主体形成の論理と構造を分析する. 京都市のスラム地域は被差別部落と隣接し, 同和行政を通じて空間的に分断されてきた. この分断は, 在日朝鮮人集住地域であるスラムと, 被差別部落民を中心とする同和地区との間に, 在日と部落という対立構図を作る. しかし, スラムには被差別部落出身者が流入し, 在日と部落が混住するなかから共同性が育まれ, 繰り返し住民の主体形成が行われてきた. このような実態は, スラムと同和地区の分断のなかにひそむ人や施策の横断の実態をみない旧来の差別論や社会政策論に欠落している点である. 本稿では, スラム地域における住民の主体形成における立脚点と選択する組織形態の関係性を検討し, 住民の力が発揮される主体の再編・結合条件を明らかにする. 結論的にいえば, 流動性の高いスラム地域において, 住民の立脚点となってきたのは, 部落と在日を共約化しうる住民という共通項であり, 属性と地域への差別に抗う指向性にある. これらに立脚しながら, リジッドな地縁組織である自治会・町内会, 柔軟でフラットな青年組織, 社会事業を通じて両者を媒介するキリスト者が, 複層的な関係を形成し, 行政との緊張・対立を通じて, スラム改善の実施と地域社会の自立性を維持してきたのである.
  • JGSS-2006の分析から
    永吉 希久子
    2012 年 63 巻 1 号 p. 19-35
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    日本の排外意識の研究においては, 外国人住民の規模が排外意識に与える効果が, その国籍によって異なることが指摘されてきた. しかし, なぜそのような差が生じるのかについては, 十分に検証されていない. 本稿は, 外国人住民と日本人の間の労働市場の分断に注目することにより, この国籍による効果の差の説明を試みる.
    労働市場分断仮説によれば, 外国人住民がホスト社会住民よりも低い賃金の職に集中している場合に, ホスト社会住民の賃金や労働環境の悪化への懸念が生じ, 排外意識が高まると説明される.
    この仮説のもと, 日本版総合的社会調査の2006年度のデータ (JGSS-2006) を分析したところ, 以下の結果がえられた. 第1に, 労働市場の分断状況と排外意識には関連がみられ, 労働市場の分断状況が顕著であるほど, 排外意識が強くなる傾向があった. 第2に, 労働市場の分断状況をモデルに投入することにより, 国籍別の外国籍割合の効果が有意でなくなることから, 先行研究において指摘されてきた国籍別の外国籍割合の効果が, 労働市場の分断の程度によって説明されることが示された. 本稿の結果からは, 日本人の排外意識を考えるうえで, 個々人としての日本人側の要因だけでなく, 日本の労働市場の構造とそこにおける外国人労働者の位置づけという, マクロな視点をとる必要があることが示唆される.
  • 戦後家族社会学の<未完のプロジェクト>
    阪井 裕一郎
    2012 年 63 巻 1 号 p. 36-52
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    本稿は, 戦後家族研究の再検討を通じて, 「家族の民主化」という理念が, 個人化や多様化によって特徴づけられる後期近代においても, なお重要な理念であることを明らかにするものである.
    本稿ではまず, 戦後すぐに家族研究の課題として掲げられた「家族の民主化」の理念とその限界を再考する. これまで民主化論には数多くの批判がなされ, 近年の家族社会学でこの用語が理念として取り上げられることはなくなった. しかし, 民主化論に対する批判は, その限界が, 民主化の理念そのものにではなく, 「家族の例外化」という前提にあったという重要な問題点を看過してきた. ここでは, 戦後の民主化論が「家族の例外化」に立脚してきたことを問題化したうえで, 「家族の民主化」の実現の可能性をA. ギデンズの「親密性の変容」や「民主的家族」の議論から探究する. ギデンズの議論にもまた多くの批判が寄せられているが, これらの多くはギデンズの意図を正確に把握していない可能性がある. ギデンズの議論は, 近年高まりつつある「家族の脱中心化」の議論へと接続することではじめて有効になると思われる. そして, 「家族の民主化」という理念が「家族の脱中心化」という理念と相補関係にあることを明らかにする.
    家族関係と民主主義の原理は相容れないとする前提こそが, これまでの家族論の背後仮説であった. しかし, 必要なのは家族と民主主義の関係を真摯に検討することであり, 「家族の民主化」という理念を<未完のプロジェクト>として, 家族社会学の中心的課題へと引きもどすことなのである.
  • 法的承認の欠如をめぐって
    宇田 和子
    2012 年 63 巻 1 号 p. 53-69
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    本稿の課題は, 食品公害問題であるカネミ油症の被害がどのような意味で救済されていないのか, また不十分な補償がなぜ現在まで継続してきたのかを解明することにある.
    まず, カネミ油症の被害に対する補償の現状を検討すると, 類似する被害をもつ他の事例に比べて非常に手薄なものであった. 現在の日本には, 食品公害の被害に対応するための法制度が存在しないが, 被害の認定と補償は根拠法なき「制度」にもとづいて行われてきた. その内容は, 法的にも実質的にも被害者の権利を尊重しているとは言い難い.
    次に, <医学的承認>と<法的承認>という2つの承認形式に着目してカネミ油症の「認定制度」を分析した. その結果, カネミ油症の被害者の認定は, 患者であることを認める<医学的承認>の形式でのみ行われており, 被害者がその権利を行使できるようなかたちで正当な権利要求を有する者であることを認める<法的承認>が欠如していることがわかった. このような<法的承認>を欠いた「認定制度」と「補償制度」が既成事実化している背景には, 補償協定の不在, 制度上の空白, 新たな対処法の不成立という3つの要因がある.
    以上の検討を通じて, カネミ油症の被害が救済されない根本には, 被害の認定が<法的承認>を欠いていることがあり, この欠如が被害者の権利要求を封じ, 結果として補償を不十分なものにとどめ続けているという構造が明らかになった.
  • グループのもつ力に着目して
    片桐 資津子
    2012 年 63 巻 1 号 p. 70-86
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    一般に敬遠されがちな施設ケアには, 在宅ケアでは享受できないものがある. それは専門のケア職員が常駐していることに加えて, 要介護状態の利用者が集まって生活しているため「グループのもつ力」が存在していることである.
    本稿では, 相部屋の従来型特養と個室完備の新型特養を比較することにより, グループのもつ力と個別ケアのあり方を探究した. 本来ユニットケアをおこなう施設として創設された新型特養は, グループのもつ力を活用しながら個別ケアを実現できるはずであった. しかし, 必ずしもうまくいっているとはいえない. グループのもつ力は所与のものではなく, 人と人との重層的なつながりのなかで育まれる必要があるからだ. その際に生じるジレンマを浮き彫りにすることを本稿の研究課題とした.
    そのため, まず既存研究の「再生力集団」の概念を検討し, グループのもつ力の説明概念として, 「役割」と「共同」を抽出した. さらに従来型と新型のケア職員にインタビュー調査を実施し, 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ (M-GTA) により, 「安心」と「自由」の説明概念を抽出した.
    従来型と新型ではグループのもつ力の中身が異なっており, それぞれに一長一短がある. グループのもつ力を個別ケアにつなげていくためには, 役割, 共同, 安心, 自由という4つの説明概念からみえてきたジレンマに折り合いをつけていく必要があることが結論として示された.
  • 益田 仁
    2012 年 63 巻 1 号 p. 87-105
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    これまでのフリーター研究では, その析出過程をめぐって構造的側面と主体的要因が切り離されて論じられ, 両者をリンクさせようとする視点が欠けてきた. そのような問題意識のもと, 本稿では5年間をかけて継続的に行ったフリーターへの聞き取り調査をもとに, 彼らの置かれた生活世界を明らかとし, その「希望」をすくいとることにより, フリーター研究における構造と主体という二元論的な対立を乗り越えたい. それは結果として, 現代日本社会の有する構造的な緊張の一端を照らし出すだろう.
    事例から確認されることは, われわれの社会は, 構造として不安定な雇用を必要としつつも, 規範面においてはそれを引き受ける主体を許容しない/しえない, という事実である. 結果, そのひずみは個々人のうちに蓄積され, 主体レベルでの解消が要求されているのである. 構造と規範の軋轢が発動した不安と焦りの行きつく先が「希望」なのであり, 何がしかの「希望」を自らの生の一部に組み込むことによって, 彼らはその生全体を受け入れようとしているのである. しかし, 事例から確認されたそれぞれの「希望」は, その発生源それ自体の変革には向かってはおらず, むしろ構造的緊張の緩衝剤として機能していることが確認された.
  • 性別に違和感を覚える人々の語りを事例として
    石井 由香理
    2012 年 63 巻 1 号 p. 106-123
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    本稿では, 性別に違和感を覚えた経験をもつ3人のインタビュー対象者の語りから, かれらの自己像について, 共通する特徴を考察した. 現在, カテゴリーとの差異のなかに自己像を見出している3人の語りに共通するのは, マスメディアなどを通じて性的越境者についての情報を得, かつ, 一度はそれらに積極的に同一化しようとしている点である. しかしその後, 当事者団体や, それらの人々と接触していくうちに, かれらはカテゴリーに同一化するのではなく, 個人のなかに独自のものとしてイメージされる, アクチュアル・アイデンティティを自己像として肯定的に認めてゆく. カテゴリーに伴うイメージやストーリーを学習し, それを意識しつつも, 今度は, それに対する差異によって自らを表象するようになるのである. また, こうした対象者たちのありようは, かれらの身体をも巻き込んだものである. どのような治療や施術をどこまで受けるのかということは, より選択的なこととしてとらえられるようになる. くわえて, セクシュアル・マイノリティ相互の出会いは集合的なアイデンティティの共有を促すばかりでなく, 自己像を個人ごとに独自なもの, 唯一のものとして認知させるような作用を個々人にもたらしていると考えられる. また, かれらの自己像は, 不変的なものではなく, 新たな欲望が生じる可能性, 状況が変化する可能性に開かれている.
研究ノート
  • 『明治以降教育制度発達史』を事例とした子どもと教育の社会学の視角についての一考察
    元森 絵里子
    2012 年 63 巻 1 号 p. 124-135
    発行日: 2012/06/30
    公開日: 2013/11/22
    ジャーナル フリー
    本稿は, 教育制度内部の教育史記述の古典である『明治以降教育制度発達史』を読み直し, 「子ども」が実体であるのか構築であるのかというアリエスインパクト以降繰り返される問題を考えるものである.
    「子ども」という観念の歴史的構築性を示した研究に対し, しばしば, 直観的に, 目の前の発達途上の身体や生理学的に捉えられる身体という「実体」があるという批判・反証がされる. 史料から見えてきたのは, 「発達する身体」をもち将来的には「国民」や「労働者」になる「児童」が発見され, 教育的論理と教育制度が定着する際に, それに包摂されない実態との折り合いが模索されたということであり, 身体測定や統計が「実体的根拠」として要請されたということである. したがって, よくある批判が根拠とする「実体としての子ども」なるものも, 多くは年少者を教育の対象として見出すまなざしが全域化していったことの効果として立ち現れている観念であると言える.
    と同時に, その論理の外部に年少者・小さい人が事実として存在し, それを「児童」や「子ども」と見なさない世界があることが, 教育的論理では扱いにくいものとして, まさにその論理の中に書き込まれていることにも目を向ける必要がある. 子どもと教育の社会学は, その構築性についてより深く考察すると同時に, 自身の言葉の外にあった (ある) かもしれない世界の存在に自覚的であり続けていく必要があろう.
第10回日本社会学会奨励賞【著書の部】受賞者「自著を語る」
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