あらゆる哲理は灰色で、生活の樹だけが緑だよ、とメフィストフェレスは、ささやいた。生の非条理に投げ出され悶える、市井の個的日常と、その連環は、いかなる「理論」によっても、汲みつくされはしない。
社会とその学は、それぞれ、幻想の一形態にすぎない。だが、それ自体も、経験の一部ではあるし、慰戯の一つともなりうる。
ここでは、 (1) 体験・経験・常識・理論の相互作用と矛盾・ずれの不可避に触れ、つぎに、 (2) 「日常」の多元的・多層的な動態性を前提としたうえで、 (3) 「日常生活の社会学」に、「個」と「主観」の復権を読みとり、同時にその限界を指摘し、 (4) 「生活行為」の動態とその連鎖に関心を注ぐ<日常的人間学>への、「社会学的」な寄与の可能性と現況との距離を、概観して終る。
紙幅の制約上、哲学的人間学と生活構造論の架橋については触れないが、 (a) 具象を経ぬ「抽象」と「一般化」、 (b) マクロ社会学の「秩序」イデオロギー、 (c) 「動学」の不在-それらへの違和感が、ここでの基調となっている。
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