本稿は, 東京都世田谷区の「プレーパーク」活動を事例としながら, 子どもの自由を実現するということがどういうことであるのかを, 社会学的観点から考察するものである.
近代社会において, 「子ども」という観念は, それに配慮する「大人」という観念と深く結びついている.にもかかわらず, 大人の介入からの子どもの自由をと求めた場合, 大人が不断の配慮という不自由さを背負わなくてはならないか, どこかで大人の恣意が発見されてしまうかといった隘路に陥ってしまう.その結果, さらに「今度こそ真の子どもの自由を」という言説, 運動が繰り返されると考えられる.
ところが, プレーパークは, 第1に, 子どもの遊びにおいて子どもが自らの配慮の主体となれるように独自の論理を構築し, 第2に, 大人も同様の論理を行動原理とすることで, 大人と子どもの非対称性を局所的に失効させ, 子どもの自由を実現している.
もちろん, このような特殊な空間は, まさに大人の不断の努力によって作り出され, 支えられている.しかし, 責任主体としての「大人」という近代社会の擬制が未だ解除できないならば, 責任主体たりえない「子ども」に対して固有の配慮をする場は必要とされ続ける.その中で, 限定的であっても, 「子ども」や「大人」の非対称性を宙吊りにし, 双方の息苦しさを消滅させるプレーパークは, その可能性を見守られるべき事例ではないだろうか.
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