社会学評論
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61 巻 , 4 号
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特集:「心理学化」社会における社会と心理
  • 片桐 雅隆, 樫村 愛子
    2011 年 61 巻 4 号 p. 362-365
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
  • 片桐 雅隆, 樫村 愛子
    2011 年 61 巻 4 号 p. 366-385
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿の前半では,心理学化する社会論の前史として,社会学の歴史の中で,社会学と心理学/精神分析との関連を跡づけた.1.1の「創設期の社会学と心理学」では,創設期の社会学の方法の中で,心理学がどのような位置にあったかを明らかにする.1.2の「大衆社会論と心理学/精神分析との接点」では,媒介的な関係の解体による心理的な不安の成立が,社会学における心理学や精神分析の視点の導入の契機となったことを指摘する.1.3の「『心理学化』社会論の登場――戦後のアメリカ社会学」では,自己の構築の自己言及化という観点から,アメリカにおける心理学化社会のさまざまな動向を明らかにする.1.4の「ギデンズとベックの個人化論と自己論」では,高次近代や第2の近代における自己のあり方や,その論点と心理学社会論との差異などを指摘する.
    後半では,第2の近代が始まり出す1970年代以降について,個人化の契機における社会(「社会的なもの」)の再編成の技術として心理学化を分析した.その起点は「68年」にあり,古い秩序を解体して新しい社会を構成しようとした「68年」イデオロギーが「資本主義の新しい精神」(ボルタンスキ,シアペロ)となって共同性を意図せず解体しネオリベラリズムを生み出すもととなったこと,この社会の解体にあたって社会の再編技術として心理学/精神分析が利用されたことを見る.それはアメリカ社会で顕著であるとともに,アメリカ社会では建国の早い段階から心理学/精神分析が統治技術として導入され精神分析が変形された.日本においては,福祉国家化の遅れに連動する個人の自立の遅れのため,心理学化は周辺現象としてしか起こらず,90年代の個人化の契機は「欠如の個人主義」(カステル)のような過酷なかたちで現れ,心理学化は十分構成されないままポスト心理学化へと移行している.
  • 竹中 均
    2011 年 61 巻 4 号 p. 386-403
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    従来,社会学と精神分析は対立関係にあると思われてきた.その理由の1つは,社会学が社会に関心をもつのに対して,精神分析は個人に関心をもつと思われてきたからである.だが,社会学と精神分析の本質的違いは,社会学がおもに構造の現状に関心をもつのに対して,精神分析は構造の始まりに関心をもつという違いにある.よって,社会学が構造の始まりに関心を向ける際に,精神分析の知見は役立つであろう.
    今後,社会学と精神分析が協力できうる主題の一例が,自閉症をめぐる諸問題である.自閉症は個人の脳の機能障害なので,社会学とは無関係のように見える.しかし自閉症の中心的な障害の1つは社会性の障害であり,社会学と無縁ではない.ところが従来の社会学を用いて自閉症を論じることは難しい.そこで,役立つ可能性があるのがジャック・ラカンの精神分析である.
    ラカン精神分析の基本用語の1つに「隠喩と換喩」がある.とくに隠喩は個人の社会性成立に深く関わる機能である.ラカン精神分析から見れば,自閉症とは隠喩の成立の不調である.じっさい,自閉症者は隠喩を用いるのが得意ではない.隠喩という視点を採用することによって,自閉症をラカン精神分析さらには社会学と結びつけることができる.このような試みは,今後,社会問題として自閉症を考えるうえで重要な役割を果たすであろう.
  • 森 真一
    2011 年 61 巻 4 号 p. 404-421
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,心理主義化社会とニヒリズムの関係を明らかにすることである.この目的を果たすため,本稿はA. ギデンズの『モダニティと自己アイデンティティ(MSI)』(以下MSIと略す)を心理主義化論として読み,彼が提起する問題を出発点とする.MSIは,「心理学」がニヒリズム克服に寄与する可能性を示唆しながらも,もっぱらニヒリズムの再生産に寄与するものと捉える.ニヒリズムゆえに心理主義を一貫して批判してきた精神科医V. フランクルは,患者が「人生の意味」を発見できるように治療を行い,ニヒリズムの克服をめざす.フランクルの実存分析からは,「心理学」がニヒリズムの克服へと人々を向かわせていることが読みとれる.じつはギデンズも,抑圧された実存的問いが生のポリティクスとして回帰していることを示すことで,人々のニヒリズム克服行動を捉えようとしている.ギデンズやフランクルの著作からは,心理主義化社会において,「心理学」がニヒリズムを背景に隆盛し,ニヒリズムを再生産しているものの,他方でニヒリズム克服にも直接的・間接的に貢献しているように見受けられる.だが,ハイデガーの存在論からすれば,実存分析や生のポリティクスのようなニヒリズム克服の努力こそ,ニヒリズムの本質を表している.心理主義化社会は,二重の意味でニヒリズムであることを明らかにしたい.
  • 出口 剛司
    2011 年 61 巻 4 号 p. 422-439
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    これまで精神分析は,社会批判のための有力な理論装置として社会学に導入されてきた.しかし現在,社会の心理学化や心理学主義に対する批判的論調が強まる中で,心理学の1つである精神分析も,その有効性およびイデオロギー性に対する再審要求にさらされている.それに対し本稿は,批判理論における精神分析受容を再構成することによって,社会批判に対し精神分析がもつ可能性を明らかにすることをめざす.一方,現代社会学では個人化論や新しい個人主義に関する議論に注目が集まっている.しかしその場合,個人の内部で働く心理的メカニズムや,それに対する批判的分析の方法については必ずしも明らかにされていない.そうした中で,受容史という一種の歴史的アプローチをとる本稿は,精神分析に対する再審要求に応えつつ,また社会と個人の緊張関係に留意しつつ,個人の側から社会批判を展開する精神分析の可能性を具体的な歴史的過程の中で展望することを可能にする.具体的に批判理論の精神分析受容時期は,1930年代のナチズム台頭期(個人の危機),50年代,60年代以降の大衆社会状況(個人の終焉),90年代から2000年代以降のネオリベラリズムの時代(新しい個人主義)という3つに分けられるが,本稿もこの分類にしたがって精神分析の批判的潜勢力を明らかにしていく.その際,とくにA. ホネットの対象関係論による精神分析の刷新とその成果に注目する.
  • 崎山 治男
    2011 年 61 巻 4 号 p. 440-454
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿は,心理主義化の批判のあり方と,感情労働と心理主義化との関連を示すことをめざすものである.
    従来の心理主義化批判は,基本的には「あるべき」感情を措定しそこからの疎外を心理学的な知がもたらすと批判するものであった.だがそれは論理的な困難をもつばかりではなく,人々が感情労働といった場で進んで心理学的な知を求めたりする現実をあらわすことはできない.
    感情労働が進んで求められるのは,実は常にそれが多様な自己感情の感受に開かれていることと,感情の互酬性に起因した,感情のやりとりの中での肯定的な感情の感受がありえることに起因する.そして,肯定的な感情の感受を支えるために,EQに代表されるような心理主義的な知が動員されていく.
    そこに潜む心理主義の現代的陥穽が,多様な感情経験を肯定的なそれへと縮減してしまう現象なのである.
  • 渋谷 望
    2011 年 61 巻 4 号 p. 455-472
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿はフーコーが『生政治の誕生』で展開した議論を参照し,ネオリベラリズムをアントレプレナー的な主体化をうながす権力として分析するとともに,この権力が作動する条件として,ネオリベラリズムが心理的な暴力を活用する側面に着目する.
    まずネオリベラリズムを権力ととらえるフーコーの議論から,ネオリベラリズムが主体を自己実現的なアントレプレナーとみなす考え方に立脚している点を明らかにするとともに,アントレプレナー的な主体化にともなうさまざまな問題や困難を指摘する.次にアントレプレナーへのあこがれが,その実現が困難な人々――フリーターなどの不安定な立場の者――にも見られることに着目し,アントレプレナーへの志向がかならずしも実現可能性の客観的な条件に規定されるわけではなく,彼らの現実への不満に根ざしていることを指摘する.最後に,ナオミ・クラインのショック・ドクトリン議論を参照し,この不満(絶望)を生産する権力としてネオリベリズムをとらえなおす.ここからネオリベラリズムの主体が「アントレプレナー」であるとともに「被災者」であることを明らかにし,社会の「心理学化」のもう1つの側面を指摘する.
投稿論文
  • 松尾 信明
    2011 年 61 巻 4 号 p. 473-488
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    近年の身体論における「相互に同調する関係」にたいする関心の高まりをどのように位置づけることができるか?本稿の問いである.
    身体論におけるその受容と展開の社会学上の意義と位置を究明することをめざして,わたしたちは「相互に同調する関係」の受容史をふりかえり,〈西原和久の社会学〉に注目する.身体論に近づきながらも,しかし西原は身体論におけるその受容と展開を問題にしてはいないことがわかる.つぎに身体論の受容と展開の内容をみれば,これが〈西原以後〉にあることが判明するが,“growing older together”がそこではじゅうぶんに論じられてはいないこともはっきりする.この欠如を埋めるために〈西原以後〉のエイジング研究にふれながら“growing older together”の特質を明らかにするのである.
    以上をつうじて,身体論の受容と展開の位置づけを行うことができる.
    限定された主題に探究のねらいを定めてはいるが,本稿は「相互に同調する関係」の研究・〈西原の社会学〉・エイジング研究・身体論のあいだに成立するより広範なすじみちの存在を指し示すものとなるのである.
  • 香月 孝史
    2011 年 61 巻 4 号 p. 489-506
    発行日: 2011/03/31
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    スターシステムという性質は,通俗的,非芸術的な要素として認知されることが多い.今日,一般に高級文化としての社会的位置を確立している歌舞伎であるが,一方でスターシステム的性質を内包しているとしばしば表象される.本稿は,その「通俗」性と高級文化としての威信が歌舞伎においていかに共存しうるのかを明らかにする.これは,大衆文化やポピュラー文化の側から問い直しが多く行われている,文化の高級性/低級性というテーマに関し,すでに高級と認知されている文化の側から,その位置づけが何に根拠づけられているのかを問い直す試みともなる.
    かつては低俗として糾弾された歌舞伎のスターシステムは,1980年代にはほとんど批判を受けなくなる.その風潮と前後して歌舞伎の高級文化としてのイメージは強固なものとなるが,そのイメージ形成を主導したのは歌舞伎とは馴染みの薄い若年層の眼差しであった.そうした層によって歌舞伎は,あらかじめ高尚な地位にある伝統芸能として認知され,その演劇的性質はあらためて価値判断を受けることがない.このとき歌舞伎の「高尚」性はその論拠が問われぬまま,きわめてイマジナリーな性質のものとしてある.今日,その内容にスターシステム的性質が依然言及されながらも,それは歌舞伎が高級文化であるという「ブランド」が所与である前提のうえでしか看取されないため,スターシステムという語が一般に帯びる低級性に直結されることはない.
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