社会学評論
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62 巻 , 1 号
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日本社会学会長講演
投稿論文
  • 藤原 翔
    2011 年 62 巻 1 号 p. 18-35
    発行日: 2011/06/30
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,Breen and Goldthorpe(1997)の教育達成の階級・階層間格差に関する理論を取り上げ,その中心となる相対的リスク回避仮説の日本社会における妥当性を検証することである.
    相対的リスク回避仮説によれば,子どもとその親は,子どもが少なくとも親と同程度の階級・階層に到達することを期待し,そのために必要とされる学歴を取得しようとする.その結果,出身階級・階層によって目標とする教育達成の水準が異なり,教育達成の階級・階層間格差が生じるのである.この仮説を検証するため,パネルデータを用いて計量分析を行った結果,(1)父親の職業は父親が子どもに期待する職業に影響を与えていること,(2)父親が子どもに期待する職業は父親が子どもに期待する教育に影響を与えていること,(3)父親が子どもに期待する教育は子どもの教育達成に影響を与えていることが示された.しかし,子どもへの教育期待の形成に対する父親の職業の影響を,子どもへの職業期待は大きく媒介しておらず,また,教育達成に対する父親の職業の影響を子どもに対する教育期待は大きく媒介してはおらず,これらの期待の効果は付加的なものであった.
    これらの結果から相対的リスク回避が教育達成の階級・階層間格差を説明するうえで中心的な役割を果たすという彼らの主張は支持されず,相対的リスク回避仮説は支持されなかった.
  • 多田 光宏
    2011 年 62 巻 1 号 p. 36-50
    発行日: 2011/06/30
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿では,ニクラス・ルーマンによって構想された自己準拠的な社会システムの理論の観点にもとづき,文化と社会の関係を定式化する.従来の社会学理論,たとえばタルコット・パーソンズやアルフレート・シュッツは,社会的なものの成立基盤として人々のあいだの共有文化を想定していた.この発想によるならば,社会とは文化の産物であり,この意味で「文化の社会」である.これに対して自己準拠的な社会システムの理論は,社会的なものを可能にするそうした共通基盤を前提しない.文化は,社会システムを外部からサイバネティックス的にコントロールする永続的な客体などではない.社会システムはまず人々の相互不透明性,つまり二重の偶然性のうえに創発し,それから自身の作動に関する記憶を想起し忘却することで,自らの方向性をコントロールしはじめる.この記憶こそが文化と呼ばれるものであり,それはシステムの作動から自己準拠的に帰結する.よって文化とは,社会システムの作動の副産物という意味で,「社会システムの文化」である.これは,地理的単位としては表象されない脱国家化した世界社会というシステムにも当てはまる.「社会の文化」としての世界文化は,世界社会の固有値としての偶然性である.こう考えることで,社会的なものを文化に先行させて,今日の世界のなかで文化が分化していく現状とそれに付随する諸問題を適切に記述し分析しうる理論枠組が整えられる.
  • 後藤 美緒
    2011 年 62 巻 1 号 p. 51-68
    発行日: 2011/06/30
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿は,戦間期の学生団体である東京帝大新人会(1919-1929,以下新人会)が行った読書実践を論じる.その際,とりわけ諸活動を遂行していく中で新人会が得た「科学から空想へ」という着想に注目し,着想にいたる論理を分析することを通し,戦間期に高等教育を受けた人びとの社会運動が,いかなる可能性と挫折を有していたのかを明らかにする.
    機関誌や労働学校での講義といった新人会の読書実践から浮かび上がるのは,会員らの読書実践が社会的属性を超えた連帯の模索であったことである.会員らは読書を通じて,労働者や貧困層をとりまく劣悪な生活環境や労働状況を認識し,その中で生きる彼らもまた,同一の時代に生きる人々であることを自覚した.そして,読書を自らの社会的地位を強化する読み方と手段から,いわゆる社会的弱者を包摂する社会を改善するための手段へと展開した.その過程において彼らは,知識の送り手と受け手の立場が無限に交替することを経験し,諸活動の遂行の中で自らが働きかけた現状に対し,応答する責任に気づいた.テクストを用いることで現状を「科学」的に解釈し,さらにその解釈を新たな共同性の「空想」へと発展させた新人会の読書実践は,自己に胚胎する受動性への気づきに支えられた活動であった.
  • 本郷 正武
    2011 年 62 巻 1 号 p. 69-84
    発行日: 2011/06/30
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿は,いわゆる「薬害HIV」感染被害者たちが,強い偏見と差別の最中,どのようにして訴訟運動に参加しえたのかを,社会運動論,とりわけ「良心的支持者」概念の観点から考察する.
    HIVが混入した非加熱濃縮血液製剤により血友病患者がHIVに感染した「薬害HIV問題」は,国と製薬会社を相手取った「薬害HIV訴訟」へと発展した.しかし,偏見と差別が渦巻く状況下で,感染被害者たちはHIV感染告知をめぐる医師との「すれ違い」があったり,血友病患者会などでの人間関係が破砕されていた.このような訴訟運動への参加の障壁が高い中で,感染被害者たちはいかにして訴訟運動にコミットできたのであろうか.
    ある訴訟運動を支援する会は「当事者性の探求」を掲げ,たんに感染被害者のプライバシーを守るだけでなく,無自覚に感染被害者をいたたまれない状況に追い込まないことをめざした.このような活動理念は,「当事者捜し」を回避し,運動から直接の利益を得ないにもかかわらず運動参加する「良心的支持者」として感染被害者が振る舞うことを可能にした.このことは,問題の深刻さを示すとともに,感染被害者がより安全な形で運動参加する方法をも提示している.本事例で示した良心的支持者概念の戦略上の「転用」は,いわゆる「当事者」概念と同様に,「誰が良心的支持者になる/なれるのか」という問いについても論題が開かれていることを示すものである.
  • 大久保 遼
    2011 年 62 巻 1 号 p. 85-102
    発行日: 2011/06/30
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    本稿は,19世紀末の経験科学的な心理学がもたらした「感覚」の位置の変化が,教授理論における心身の関係を再編し,「感覚」に依拠した統御の論理を帰結したことを明らかにする.
    1880年代までの実物教授において「知覚」は,外界の事物から得られる知識と,児童の心意とを媒介する存在と位置づけられた.そして「知覚」のなかでも,とりわけ「眼」が精密な知識の獲得に適するとされたのである.したがって,正確な知識を得るためには,事物と心意を媒介する眼を規律し,目前の事物を注視するための注意力を身につけることが重視された.
    一方,1890年代の心理学的教授において「感覚」は,五官への刺激によって生じるものと位置づけられた.そして偶発的な刺激が惹き起こす不確かな「感覚」こそが,観念を形成するとされた.したがって,意識は「感覚」によって生じる諸観念が相剋する流動体と位置づけられる.19世紀末の教育学への心理学的知見の導入が,一方で,(1)主体を偶発的な「感覚」によって左右される受動的な存在とし,同時に,(2)能動的な「注意」によって観念を構成していく存在と位置づけた.また他方で心理学的教授は,(3)目指すべき観念群を設定することによって,(4)「感覚」に依拠した統御の論理を帰結した.こうした感覚理論の変化に伴い,映像装置を用いた実践の目的もまた,知覚力の練習から感覚の計測と統御へと変化したのである.
  • 森山 至貴
    2011 年 62 巻 1 号 p. 103-122
    発行日: 2011/06/30
    公開日: 2013/03/01
    ジャーナル フリー
    社会的マイノリティをめぐる議論は,差別の考察と結びつくかたちで常にカテゴリー語を1つの重要な論点としてきた.しかし,当該カテゴリー成員にとっての呼称が果たす意味や意義については,考察されていない.そこで本稿では,ゲイ男性およびバイセクシュアル男性の自称としての「こっち」という表現を取り上げ,この論点について考察する.具体的にはゲイ男性またはバイセクシュアル男性13人に行ったインタビューの結果を分析する.
    ゲイ男性とバイセクシュアル男性の集団を指す「こっち」という「婉曲的」な呼び名が〈わたしたち〉を指すために用いられる理由はいくつかあるが,そこに「仲間意識」のニュアンスが込められている点が重要である.この点には「こっち」という言葉のもつトートロジカルな性質が関連しており,「仲間」であることは性的指向の共通性には回収されない.また,「仲間意識」を強く志向するこの語彙を用いることによって「仲間意識」を発生させることも可能である.ただし,それが投企の実践である以上,他の言葉よりは見込みがあるにせよ,「仲間」としての〈わたしたち〉が必ず立ち上がるとは限らない.
    反例もあるにせよ,曖昧さをもったトートロジカルな「こっち」という言葉は柔軟で繊細なかたちで〈わたしたち〉を立ち上げるための言葉として存在しており,このことは意味的な負荷の軽減がマイノリティ集団の言語実践にとって重要ではないか,との洞察を導く.
第9回日本社会学会奨励賞【著書の部】受賞者「自著を語る」
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