デュルケームの生きた第三共和政下のフランス社会は、「国民教育」が確立される教育改革に見られるように実質的な国民国家形成期にあたる。そのなかでかれは自己の国家論を論じていた。一方デュルケームは、晩年に第一次世界大戦に直面するが、それはかれの一貫したテーマであった安定したフランス社会の確立にとって大いなる危機であった。
本論文では、デュルケームが一九一五年に発表したパンフレット『世界に冠たるドイツ
L'Allemagne au =
dessus de tout』を取り上げて主題とした。このパンフレットは、デュルケームの理論的関心と実践的関心をつなぐテクストでありながら、これまでほとんど論究されていない。本論文では、このパンフレットの内容を明らかにした後、それをデュルケーム国家論の展開過程のなかに位置づけた。デュルケーム自身の国家論を踏まえて、「異常形態」としてのトライチュケ国家論が批判されている。またデュルケーム国家論の展開過程では、ドレフユス事件が重要な意味を有していることも示した。このテクストの重要性は、 (1) それがかれの国家論の本質を明らかにするものである点、 (2) 当時、国家の問題が重要であった点、 (3) フランスにとって、また書評論文数にも示されているようにデュルケーム自身にとっても、ドイツの存在が重要であった点、 (4) このテクストが第一次世界大戦という時代状況に即したものである点、に求められよう。
デュルケームは実践的な関心をもとに理論的な考察を行ったが、かれは結局現実の国家を越える社会的枠組は構想し難かった。それがいかに構想されうるかは、まさに今日的な課題でもある。
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