社会学評論
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54 巻, 1 号
選択された号の論文の18件中1~18を表示しています
  • 近代日本における排他的親密性の形成をめぐって
    宮森 一彦
    2003 年54 巻1 号 p. 2-15
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    本稿は, 家族という領域を, 取り替えのきかない排他的親密性の場として思念させる社会認識の形成の, 近代日本における歴史的モメントをフィールドに, 人間における親密な関係性の認識における特徴の一端についての理解を深めることを目的とする.
    家族国家観のイデオローグたちは, 「家庭の和楽」を懸命に創出しようとした.「革新的」家庭イデオローグたちは親愛の正統性の根拠を文化的慣習にではなく「本能」に基づく自発的な結合に求めた.ただしその「本能」的な関係性は, まさに当事者たちがそれを演じることによってはじめて現前しうるものとしてあった.
    同時代の対立する陣営が「家庭の和楽 (もしくは親愛) を演じる」ことにそれぞれのイデオロギーの現実との結節点を見出していた.多くの政治的局面において鋭く対立していた両者は, 近代国民国家の基礎単位としての近代家族の行動スタイルを懸命に演出しようとする営みを絶やさなかったという点で親和的であった.近代日本の家族形態においては「家」と「家庭」の二重構造の存在が指摘されているが, イデオロギー的演出のうえでも, 家族国家観と革新的「家庭」イメージとの二重構造が存在し, そうした「家」と「家庭」の二重構造を多様な局面において維持する柔軟さを与えてきた.
    われわれは, 少なくとも近代家族の枠組みの中では, 無抑圧下での和楽や親愛を想像することは困難なのかもしれない.
  • デュルケムの法理論を用いて
    巻口 勇一郎
    2003 年54 巻1 号 p. 16-32
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本稿では, É.デュルケムが想定する前近代及び近現代社会における法, 道徳の構造や関係性を明確化し, 従来十分に検討されてこなかった彼の法理論の精緻化をはかる.この際, 彼の理論を道徳, 宗教, 法の規範間関係論として再構成するJ.カルボニエの理論に論及する.デュルケムによれば, 前近代法は具体的な規制と厳しい制裁をもつ抑止的法であった.一方, 近代法は規制を抽象化し, 抑止的な制裁を緩和・廃止するが, この変化によって無規制的社会, あるいは討議・合意による社会が生ずるのではなく, 人々の経済活動や討議・合意の自由を外部から規制する道徳が活気づけられる.近代法は, 活気づけられた道徳を通じて規制するために敢えて自らの管轄を縮小・制限し, 後退するのである.ただ, 人格崇拝を命ずる近代社会の道徳が人々の間に浸透しつつも理念の高みにとどまると, 社会関係の均衡は破れる.しかし, だからこそ尚更, 阻害された社会関係を元の正常な状態に修復する復原法の発達が促される.このような道徳の空疎化と法の発達という相互関係は, 社会や法を病に導く力こそ, 同時に社会や法を健康にする力であるという原理を示している.デュルケムにあっては, 法は道徳の機能低下を察知し, これを補うべく発達するというように, 他と緊密に連携する存在であり, もはや自律運動を続ける閉鎖的な体系とはみなされない.
  • 集団カテゴリーの物象性=象徴性をめぐって
    丹辺 宣彦
    2003 年54 巻1 号 p. 33-48
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
    M.Olsonの集合行為論は, 共通の利害を有することが集団形成を促すという階級論の想定に対して, 有効な批判の論拠を提供してきた.他方で, その問題構成には, 集団間の階層的分化への顧慮と, 集団への関与がその成員の意識と行動に大きな影響を与えることを考慮する観点が相対的に欠けていた.この点に着目し, 本稿では, 階級的・階層的集団の成員の意識にあらわれるカテゴリー形成を手がかりとし, それが集団形成と集合行為をいかに水路づけるかという問題を論じる.
    まず, Olsonの集合行為論の問題点を整理し, その議論が集団間での階級的, 階層的な利害の分化を捨象しており, また他方で集団カテゴリーの成立を前提としていたことを示す (1節).つぎに, 集合財の階層性を確認するとともに, C.OffeによるOlson批判も, 労働組合成員による「集合アイデンティティ」カテゴリーの創出という, 個人的合理性に対置される集団的連帯性に依拠していたことを示す (2節).さらに, 集団問での利害対立の分化が新たな集合財空間の分化をもたらすことを明らかにする.その上で, 属性を物象化=象徴化することにより階層的な集団カテゴリーが形成される機制と, 集団と個人の利害の同一視によって, フロントランナーの集合行為が引き起こされる可能性を検討する (3節).このような検討から, 集合行為論の展開に対して, 社会学的観点からの貢献が可能であることを示したい.
  • 階層研究における “gender inequality” の射程
    橋本 摂子
    2003 年54 巻1 号 p. 49-63
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    階層研究において, 女性の社会的地位をどのようにあらわすかは, 現在でも結論が出ていない問題の一つである.これまでに提案された解決策は, 主として2種類にわけられる.職業尺度を維持したまま, 地位の表示形式を変更する方法と, 尺度自体を変更する方法である.しかし見出されるべき「不平等」がリベラリズムに基づいた不平等である限り, 地位の表示形式は個人単位でなければならない.そしてこれまで用いられてきた職業地位はリベラリズム的倫理観に深い関わりをもつ尺度であり, その経験的妥当性こそが階層研究のリアリティを支えてきた.地位指標のこうした政治性は, 無職者と有職者を統合することでは女性の地位問題が解決しないことを意味している.階層研究の主題は, 職業を通じた個人単位の資源獲得ゲームにおける不平等の発見でしかない.女性問題はそこからの排除と疎外という形でのみ位置づけ可能となる.
  • 戦後『婦人公論』にあらわれた男性像
    中尾 香
    2003 年54 巻1 号 p. 64-81
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は, 戦後期日本において共有されていた男性イメージを確定するための作業の第一歩として, 戦後の『婦人公論』にあらわれた男性イメージを明らかにすることである.その結果, 明らかになったのは, 1950年代に登場した二つの系譜による男性イメージ-戦後に大衆化しつつあったサラリーマンが担うようになった「弱い」男性イメージと, 「家制度」のジェンダーを焼き直した「甘え」る男性イメージ-が, その後重なり合いながら展開し, 1955年頃から1960年代半ばにかけて繰り返し言説化されたことである.それらは, 男性の「仕事役割」を強調することをてことして, 私的な空間におけるジェンダーを母子のメタファーで捉え, 男は「甘え」女は「ケア」するというパターンを共有していた.さらに, 「仕事をする男性像」と「甘える男性像」のセットは, 60年代に言説にあらわれた「家庭的な男性」とは矛盾するものであった.
    この結果より, 次のような仮説を提示した. (1) 「甘え役割」と言い得るような男性の役割が成立していた可能性, (2) その「甘え役割」が女性の「ケア役割」を根拠づけているということ, (3) 「甘え役割」は「仕事役割」によって正当化されているということ, (4) 否定的に言説化された「家庭的男性」が「甘え役割」および「仕事役割」のサンクションとして機能していた可能性である.
  • ある住宅コミュニティを事例として
    藤谷 忠昭
    2003 年54 巻1 号 p. 82-96
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    近年, 改めて福祉社会の是非について議論されているように思われる.だが, それと同時に福祉国家の内容の組み替えもまた求められるだろう.本稿では, ある住宅コミュニティでのトラブルを事例に, 福祉の変容の中での行政の役割とその課題について論じてみたい.事例として取り上げる住宅は, 高齢者, 身体障害者の世帯が含まれる福祉社会をめざしたモデル的な公共住宅である.この住宅で, ある身体障害者が地域社会から孤立するというトラブルが起こった.その解決の過程において, その自治体にたまたま存在した苦情に対する審査会の介在が一定の機能を果たした.その是非を検討することで, 本稿では共同性における孤立した個人の救済という, 福祉社会の進展において求められる行政, 特に市町村の役割を明らかにし, それに伴う社会学的課題について考えてみたい.
  • クラブ・イベントにおける企業スポンサーの事例から
    木本 玲一
    2003 年54 巻1 号 p. 97-112
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本稿は, ビール企業によるヒップホップ系クラブ・イベントのスポンサー業務を事例としたエスノグラフィーである.ヒップホップは, 一方でサブカルチュラルな実践によって特定されるが, 他方でレコード産業などによって媒介される商業的側面を持っている.こういった傾向は, ロックなどの他のポピュラー音楽文化と共通する傾向である.既存の議論の文脈では, ポピュラー音楽文化の商業的側面を媒介するものとしては, レコード産業などが想定されており, 一見当該文化と「無縁」であるような企業の販促活動を通した媒介の契機などは, それが決して珍しいことではないにもかかわらず, あまり注目されてこなかった.そこで本稿において私は, ビール企業によるヒップホップ系クラブ・イベントにおけるスポンサー業務に注目する.具体的にはまず, 企業の経済的利害関心によって規定されたスポンサー業務において, 関係者がとりわけヒップホップにおける文化的真正性を意識していることを論じる.次に, スポンサード・イベントの関係者が, そういった企業の思惑との関わりの中でいかにイベントを運営していったのかを論じる.そして企業とイベントの関係者が相互媒介的に各々の営為を行っていることを確認し, ヒップホップが音楽産業などの営為に限定されない, 多様な媒介の契機をはらんでいることを論じる.
  • 受賞作 : 嘉本伊都子著『国際結婚の誕生-〈文明国日本〉への道』 (新曜社, 2001年)
    嘉本 伊都子
    2003 年54 巻1 号 p. 113-114
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
  • 川崎 嘉元
    2003 年54 巻1 号 p. 115-119
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 居安 正
    2003 年54 巻1 号 p. 120-123
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 『社会学評論』53 (3) : 441-2
    谷 富夫
    2003 年54 巻1 号 p. 124-127
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 大内 裕和
    2003 年54 巻1 号 p. 128-130
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 森田 三郎
    2003 年54 巻1 号 p. 130-131
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 米林 喜男
    2003 年54 巻1 号 p. 132-133
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 谷口 吉光
    2003 年54 巻1 号 p. 134-135
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 中筋 直哉
    2003 年54 巻1 号 p. 135-137
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 松岡 雅裕
    2003 年54 巻1 号 p. 137-139
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
  • 吉田 文
    2003 年54 巻1 号 p. 139-141
    発行日: 2003/06/30
    公開日: 2009/10/19
    ジャーナル フリー
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