本稿は,ジグムント・バウマンの後期理論におけるユートピアと「レトロトピア」をめぐる議論において,「過去」と「未来」の有する意味内容を再解釈することで,彼のユートピア論の批判理論的意義を解明するものである.
バウマンはユートピアを「絶対に到来しない未来」に,「レトロトピア」を現代社会に浮遊するノスタルジアに結びつけて論じている.これまでの研究においては,バウマンの論じる未来は,A. グラムシやK. マンハイムらを継承する,社会変革に対する前向きな態度として理解されてきた.これらは,時間の常識的理解やそれにまつわる社会的に共有された意味にみ尽くされる問題としてバウマンにおける未来と過去を理解している.
だが,彼がとりだす未来と過去は,それらの理解を離れ,「私(‘I’)」の自己同一化そのものに直結する新たな時間理解を指示している.バウマンはE.レヴィナスの自己を空にする〈自己〉という考え方を基礎に,この自己の二元性ゆえに〈自己〉が自己を離れ他者への責任をもつことに「絶対に到来しない未来」としてのユートピアを見出している.このようなユートピア論を土台にしているために,「レトロトピア」論におけるナルシシズム批判は,現代のアイデンティティをめぐる問題の目撃証言にのめりこむことなく,自己同一化の本源的なアンビバレンスとの関連で現象の本質を読み解いている.
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